《 自由とは何もしたいことがないこと 》というよ
うな話を以前書いた。そのときには「身体的な欲求な
どは別だ」という断りも書いたと思うけど、その話を
一言で言える言葉が不意に浮かんだ。
《 自由とは、アタマに誘導されないこと 》
社会と関わらずには生きられないわたしたちは、社
会の影響で四六時中アタマに誘導されて思考し、行動
する。そしてそれを「自分の意志によってしている」
とまで思う。自分の意志でやっているのだから、自由
に思考し、行動していると自認するけれど、それは完
全にアタマに化かされている状態だ。
このブログを書き始めた当初に書いたように、“自
意識”というのは社会が脳に浸潤してきたものだ。わ
たしたちの頭に浸透し、わたしたちの思考と感情を社
会的な方向へ誘導する。
それは誰かが企んだものではない。
人間関係の規模が大きくなると必然的に社会が発生
する。社会は人に有益な効果を生むので、人々は社会
を維持しようと、無意識に「社会は価値あるものであ
る」とお互いにの意識に刷り込み合う。それは社会の
規模がごく小さければ コミュニティと呼ばれるよ
うな規模なら 良いことであるけど、ある規模を越
えると社会の有益さが個人の負担に見合わないものに
なる。それはどのような社会でも避けられない。社会
が持つ本質的な性質によってそうなるしかない。
現代のような巨大な社会では、個人の負担はまった
く割に合わないとしか思えないけれど、わたしたちは
アタマに誘導されるので、その「割の合わなさ」に気
付きにくいようになっている。
無神経な人間は、社会の誘導のままに、社会のシス
テムに暴力的ともいえる適応をして他者を侵害する。
センシティブな人間や社会的能力の低い者は、自身
が社会の誘導によって傷ついているということを自覚
できないままに疲弊してゆく。
前者はいわゆる“勝ち組”で、後者は“負け組”と
いうことになるけれど、どちらも社会に誘導されて自
分を置き去りにしていることに変わりはなく、表面的
(社会的)な幸・不幸の区別が有るとしても、そこに
人としての本当の自由は無く、しあわせも無い。
こういうことを言うと「負け惜しみだ」と誰かが言
う。私にはその発想がアタマ(社会)の誘導によるも
のだと分かっているので、「不自由な人だな」と思う
だけだ。
自分の中から湧いてくる欲求が、アタマの誘導によ
るものなのか、人としての本質からの求めなのか?
そんなことをいちいち吟味することはできない。
宗教や哲学やスピリチュアルの教えなどでは、それ
を吟味して生きろというように言う・・・。
そんなこと無理ですよ。吟味しようとするのがアタ
マなんだから。
私はこう勧めたい。
* 人はアタマに誘導されるものだと、しっかりと認
識すること
* アタマの誘導から逃れることはできないと、肚を
括ること
* アタマの誘導も込みで、自分の欲求を面白がって
しまうこと
そうすることでアタマの誘導の縛りは解けてゆく。
自分が自分を置き去りにしているのかどうか?
自分のすることや社会の出来事を見て「クスッ」と
笑って、「ニヤリ」とできるのなら、まだ自分はここ
に居るでしょう。少なくとも、アタマに引きずり回さ
れてはいない。
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