2023年9月17日日曜日

1+1=1



 ロウでできたキューブを100個用意する。それを縦横

10個ずつ並べてまとめると、そこにまとまった100個の

キューブがある。

 この100個を火であぶるなどして表面を溶かして繋がっ

た状態にすると、実質的には変わっていないが、大きな一つ

の物に見える。

 状態は少し違うけれど実質的には同じ物がそこにはある。

けれど「分かれている」と意識すれば100個だが、「分か

れていない」と意識すれば1個だと思う。

 なんの話かと言えば、「“1” とは何か?」ということ。


 何度か書いて来たことだけど、わたしたちは物事をいった

ん分けなければ考えることができない。

 考えるという行為は、ある物事とある物事の関係を理解し

ようとする行為なので、分かれていない物事については考え

られない。なので、人間がものを考えるのは、分かれている

物事の関係(結びつき方)を知って、世界をちゃんと認識し

ようという営みだといえる。

 と、考えるのが常識的なアプローチだろうけれど、「い

や、ちょっと待て」と私は思う。


 先に「わたしたちは物事をいったん分けなければ考えるこ

とができない」と書いたけれど、どうやらわたしたちは、自

分で物事を分けておいて、それからその物事の結びつき方を

考えるという、ムダかもしれないことをしているように思え

る。

 「世界の物事が分かれているから考える」のではなくて、

「考えるという行為をしたいために、世界の物事を分ける」

というのが実情ではないのか? わたしたちが「考える」の

は、考えることでより良く生きる為というような事ではなく

て、「考える」という行為が、人類共通の先天的な病だから

だろう。

 わたしたちは、なんでもいいからとにかく考えたいのだ。


 「考えることで、理解とか幸福とか生存とかが達成できる

から」というようなことではなくて、考えることが目的なの

だ。「考える」という病気なのだ。

 なぜそれが病気だといえるかというと、世界で起きている

ことを見れば一目瞭然だ。

 犯罪・戦争・差別・搾取・環境破壊・・・。

 身近なものなら、ケンカ・裏切り・嘘・勘ぐり・

妬み・・・。

 人間の問題のすべては考えることから具体化する。


 考えようとすることで物事を分けてしまうし、物事を分け

てしまうことでさらに考えの泥沼にはまる。ならば、考えな

ければいいかといえば、人間の本能には欠陥があるので、他

の生き物のように本能に従っていればそれなりに生きていら

れるというわけにいかない。本能の欠陥を補うために考えな

ければしようがない。人は考えることから逃れられないけれ

ど、その代償はとても大きい。考えることで自分を滅ぼして

しまったり、いずれ人類そのものを自ら滅ぼしてしまう可能

性もある。そんなこと考えれば分かるけれど、考えに考えた

末に成り立ってる現代で、「考えること」をハッキリと問題

視する人はいない。いても、表舞台には出て来られない。

「そんなこと言う奴は邪魔だ!」と世の中は考えるから。


 わたしたちが何も考えなくても、心臓は動くし呼吸もして

いる。ちょっとした病気になっても放っておけば大概治る。

太陽は毎日昇るし、風は流れる。

 世界のほとんどは考えなくても調っているというのが真実

なのに、わたしたちは考えて、自分が気に入ることを正しい

と思い、それに固執する。そして大抵世界からはぐれる。問

題を生む。それは人類の歴史を振り返って考えれば分かるけ

れど、そこは考えて分かろうとはしない。考えることの害を

どこかで気付いているから、考えて分かりたくないのだろ

う。「当事者は嘘をつく」(by 小松原織香)。


 考えることは基本的に害である。けれど考えざるを得な

い。この上は、考えることで、考えることがもたらす害を減

らすしかない。できる限り考えない生き方を探るしかない。


 ロウのキューブを溶かすように、意識上で分けてしまった

ものをもう一度繋げてみる。

 分けた理由を取り下げてみる。

 そうして、あらためて「世界」を見てみる。

 「世界」は考えることの外に在って、わたしたちの考えと

は関わりのない調い方をしている。


 考えない生き方。 

 分けない生き方。

 考えることと分けることがもたらす害を、できる限り減ら

す生き方。


 それは「世界」に目を向けることで気付けるのではないだ

ろうか?

 「世界」は(わたしたちのようには)考えていないのだか

ら。

 それでも「世界」は調っているのだから。


 1+1=1


 そういう意識ですべてを見てみる。

 それは、あながち間違ってはいないと気付けるはずだか

ら。



2023年9月16日土曜日

極悪人という仏



 京アニの放火事件の裁判が始まって、あれこれとニュース

が流れる。

 「被告は虐待されて育った」というような内容が報道され

ると、すぐさま「そんなこと関係ない!」と、SNS に怒りの

コメントが書き込まれて、それがまたニュースになる。そう

いうことにしておけば気が済むのだろうが、あいも変わらず

「浅いなぁ」などと思わされる。

 虐待されて育てばその人間の人格形成に大きな影響を与え

ないわけがない。「○○ちゃん」と呼ばれるか「○○くん」

と呼ばれるかの違いだけでも、その人に結構影響を与えるだ

ろう。もちろん〈虐待される=悪人化〉という意味ではな

い。


 犯した罪の重さとはまた別の話として、そういうことを認

めた上で人というものの在り方を理解しなければ、上っ面の

つじつま合わせと、自分の都合のいいように他人を枠にはめ

る独善がまかり通ることになる。それは世の中を良くはしな

い。


 この世には極悪人がいる。時代や国を越えてまで忌み嫌わ

れ、断罪され続ける人間もいる。これまでの歴史を見るかぎ

り、そういう人間はいなくならない。小悪人などは、あらゆ

るところにいる。それが全体としての人間というものらし

い。


 そういう人間はいない方がいいに決まっているけど、いな

くならない。当然、なんの因果かそういう役回りになる人間

は後を絶たない。そんな役回りはイヤだと思っていても、な

るときにはなる。一年後、私が人殺しになっているかもしれ

ない。さだめなら、誰もそれを逃れられない。天命と言って

もいいのだろう。


 世のため人のために人生を捧げる人間がいるのも、天命。

 私利私欲のために人生を費やす人間がいるのも、天命。

 悪魔のように冷酷な行いをする人間がいるのも、天命。

 すべては、天のさだめ。個々の人間は、そのさだめを生き

るほかない。

 そこに個人の意思や力が関与できる余地はない。どのよう

な意思や力を持つかもさだめなのだから。


 「山川草木悉皆成仏」という仏教の言葉がある。

 これは仏教の大前提であり、結論ともいえる言葉。

 「すべての物、すべての生きている物は仏である」という

ことで、ならば極悪人も仏だということになる。


 この世界は人の考える「善悪」を越えたものとして在る。

 人の思惑よりも先に、人の思惑で捉えきれないものとし

て、この世界は在る(当然のことなんだけど・・・)。

 そういうものとしての、この世界とこの世界のあらゆるも

のを「仏」と言う。


 悪人はイヤだ。極悪人はもっとイヤだ。消えて無くなれば

いい。私もそう思う。けれども、悪人はいなくならない。そ

して、もし自分が極悪人になるさだめだったとしたら・・。

 血も涙もなく、人がむごい死に方をしても笑っているよう

な人間になったとしたら・・・。

 そんな人間になることは、人として生まれてきた上で最も

悲惨で悲しいことだと私は思う。それ故、そのような人間の

魂こそ救済されるべきだ。だから親鸞は言う。「善人なおも

って往生す。いわんや悪人おや」。

 善人も悪人も救われる。仏に受け入れられていることで、

すでにそのままで仏になっている。救われている。


 「もしかしたら、自分があの極悪人になっていたのかもし

れない」

 「あの極悪人は、自分の代わりにあのようなさだめを生き

てくれているのかもしれない」

 「自分の身替わりなのかもしれない」

 そう考えたとき、その劣悪なさだめを生きているその人

が、そのような役回りを、自分や他の人の代わりに生きてく

れている有難いものに見えて来はしないだろうか? 極悪人も

仏なのだ。


 もちろん、そういう想いと、現世の社会の「善悪」とは別

だ。この世では「悪人」は「悪人」だ。断罪されて当然だ。

それはそれでいい。

 けれど「極悪人も仏だ」と見なす意識は持っておく方がい

い。その意識は自分も救う。「極悪人」が許されるのなら、

すべてのものは許されるのだから、当然、その中には自分も

いる。


 「山川草木悉皆成仏」という意識は、そのように自分の救

いになる。

 同時に、自分がそう思うだけで、すべての人をも救う。

 それは、ほんの一瞬、ほんの 0.00000000001% のこと

かもしれないけれど、間違いなく、すべてのものを救う。
 



 

2023年9月11日月曜日

本当の「ご利益」



 前々回だったか、「You Tube の私へのおすすめには、ス

ピリチュアル系が多い」と書いたと思うけど、今日もそうい

う動画がいくつか並んでる。サムネを見れば自分の好みでは

ないと察しはつくが、ヒマなのでザッと目を通した。

 予想通り「運気を引き寄せる」とか「成功へ導く」みたい

な言葉が沢山出てくる。〈 ご利益系スピリチュアル 〉だ。私

の好みじゃない。


 こういう系の話には、「成功」とか「魂の成長」とか「波

動を上げる」とか、いろんな決まり文句が出てくるけれど、

要するに、“いまより良い思いをしたい” という望みを叶える

方法やヒントが語られる。

 「魂の成長」や「霊格の向上」なんて言ったりするけれ

ど、それは「自分の魂」「自分の霊格」なので、その望みは

エゴから来ている。エゴからの望みが「魂の成長」や「霊格

の向上」に繋がるだろうか? 本当に魂が成長し、霊格が向上

したら、「成長」だとか「向上」だとか、自分の格付けみた

いなことはどうでもよくなるのではないだろうか? 他人の

「魂のランク」や「霊格」なんてことは、意に介さなくなる

のではないだろうか?


 以前にも書いているけど、私は「個人の魂」だとか「個人

の霊」などは無いと思っている。「魂」や「霊」に “格(ラ

ンク)” なんてものも無いと思っている。「魂」や「霊」は

分けられないと思っているからだ。

 本当にスピリチュアルな自覚の中では、比べる意識は存在

できない。それ故、“格” など無いし、「成功」も「成長」も

無い。そもそもそのような “飾り” を付けようにも、「個人」

が無い。「自分」が無い。


 「魂」や「霊」が「自分のもの」である限り、「成長しよ

う」というのも「格を上げたい」というのも、エゴの助平根

性でしかない。

 “「成長」も「成功」もどうでもいい” と、心の底から思い

定まったとき、「分けること」も「比べること」もできない

「魂」が、自分の意識を突き破って表れる。

 そうなれば「ご利益」は要らない。

 いま、自分(!)が在ること以上の「ご利益」など無い。


 どんなに飾っても、言葉を弄しても、〈 ご利益系スピリチ

ュアル 〉はエゴの自己欺瞞に終わる。

 じゃあ〈 悟り系スピリチュアル 〉はいいのか?

 「悟り」という「ご利益」を求めている内は、同じだ。

 “「ご利益」を求める自分” に心底愛想が尽きない限り、本

当の「ご利益」には与れないだろう。




2023年9月10日日曜日

親ガチャ・子ガチャ・自分ガチャ



 「親ガチャ」って言葉がありますね。3年程前から使われ

出したように感じる。いろいろと物議をかもす言葉ですけ

ど、物議をかもすのはいいことだと思う。物議をかもせない

ような言葉は取るに足りない言葉なのであって、物議をかも

せるのなら、その言葉にはなんらかの訴求力が有るというこ

とです。簡単に言えば「気にさわる」ってことですけ

ど・・・。


 で、「気にさわる」度合いでいえば、「子ガチャ」なんて

言葉を使ったりしたら、さらに「気にさわる」わけです。親

が「生まれて来た子供に当たり外れがある」って考えるって

ことですからね。そんなこと話題にしただけで、いまの世の

中では “炎上” どころでは済まなさそうです。ほとんど「はり

つけ獄門」みたいな目に合わされることでしょう。でも、こ

のブログはネットの辺境にあるのでそんな心配はない。なの

で、「子ガチャ」について話してみましょう。
 

 生まれて来た子があたまが悪い。

 障害の有る子が生まれる。

 そういう時に当然親は「なぜだ・・・」と思う。思わない

はずがない。どんな親だって、生まれて来るのなら健康で出

来の良い子が生まれて来てほしいと思うはずだ。その子自身

の為にも、親の立場としてもそう思うはずだ。普通、それが

人情というものだから、そういう想いを否定したり隠したり

する必要は無い。誰だって生きやすい方が良いに決まってい

るのだから。

 けれども、「子ガチャ」という言葉が持つ、「貧乏くじを

引きたくない」というニュアンスを野放しにするのはいただ

けない。子供は親の都合の為に生まれて来るのではない。


 子供は親のものではないし、親をしあわせにする為に生ま

れて来るのでもない。倫理的、理想的に考えるのなら、親は

子の為にあるのだし、親は子供のものだ。親には出来る限り

子供を健全に育てる責任がある。「子ガチャ」なんて発想は

サイテーだ。けれど、世の中の親の多くは「自分の子供」と

いう発想を持っていて、この発想がそのまま「子供は自分の

もの」という意識につながるのは普通なので、多くの親が無

意識であっても「子ガチャ」というような意識を持っている

ことだろう。そして、親の都合に合うように、親の気が済む

ように育てようとする。もっと酷くなると、親の気が済むよ

うに子供を利用する。そういう親のもとに生まれた子供の側

から見れば、「“親ガチャ” に失敗した・・・」ということに

なる。

 なので、どちらかといえば、「子ガチャ」という親の意識

が先にあって、その結果として子供の方が「親ガチャ」とい

う意識を持つというのが順序だろう。問題の根本は親(大

人)側にあるので、「親ガチャ」という言葉も「子ガチャ」

という言葉も、責任を問われているようで、大人は不快に感

じて当然といえる。
 

 じゃあ親(今の大人)が自分を正せばいいのかといえば、

親はそのまた親の「親ガチャ」の影響を受けている。「ジ

ジ・ババ・ガチャ」です。

 さらにジジ・ババはそのまた親から「ヒイジジ・ババ・ガ

チャ」の影響を受けていて、それはさらにその親へと無限の

過去まで遡ることになる。言い出したらキリがない。


 そして「ガチャ」は、もちろん親だけのことではない。

 「国ガチャ」もあれば「民族ガチャ」もある。「健康ガチ

ャ」「運動神経ガチャ」「賢さガチャ」「宗教ガチャ」もあ

って、そして「時代ガチャ」もある。無限に文句は付けられ

る。


 昔、橋本治さんが『親子の世紀末人生相談』の中で、「人

生にはあたり外れがございます。そして、人生は最終的にそ

れ(外れ)をひっくり返すためにある」と書いてましたね

(うろ覚えですけど・・)。

 「外れ」だと言って恨み言を言っていても仕方がない。そ

うなってしまっているのだから、そうなってしまったことを

生きるしかない。そして、「ひっくり返す」というのは、

たとえば、「貧乏に生まれたから、努力して金持ちになる」

というようなことではなく、「〈 貧乏=不幸=外れ 〉という

価値観をひっくり返す(無効化する)」という意識の転換を

成し遂げること・・・、橋本さんはそういう意味で、先の言

葉を語ったと受け止めるべきでしょう。


 とはいえ、「ひっくり返す」能力を持っていなくて、「ひ

っくり返し能力ガチャ」にも失敗していたら? もう手も足も

出ません。

 その時は、あきらめるしかありません。自分はあらゆる

「ガチャ」に失敗した。「自分ガチャ」に大失敗したわけで

す。打つ手は無い。あきらめましょう・・・。


 けれども、実は大転換はその時にこそ起こる。

 自分を完全にあきらめた時、すべてがひっくり返る。

 未来への希望も、過去の評価も、今の自分と世界に対す

る、すべての望みも手放した時、自分は評価の外の白紙の世

界に在ることに気がつく。

 世界は一つだけで、自分も一つだけで、誰ひとりとして世

界も自分も選ぶことはできないのに、その世界や自分を細切

れにして、いちいち「良い・悪い」と選り分けていたことに

気付く。


 すべての人には、丸ごとの世界が「ガチャ」無しで目の前

に差し出されている。

 ならば丸ごとを受け取るのが筋というもの。

 あれこれ比べるのをやめて、「生と死」を比べるのもやめ

て、ただ、死ぬまでは生きるだけ。「生まれる」こと自体に

は「ガチャ」は無いし、「死ぬ」こと自体にも「ガチャ」は

無い。

 どんな風な人生を送っても、早死にしても、自殺すること

になっても、それはそれ。


 「生まれけり 死ぬるまでは 生きるなり」と言ったのは

武者小路実篤だとか。

 気楽に、命に身をまかせて、世の中の見せる「価値」に惑

わされないで「死ぬるまでは生きる」なら、それは最も面白

い生き方でしょう。



2023年9月9日土曜日

真理とは何か?



 私への You Yube からのおすすめ動画には、スピリチュア

ル系のものや自然科学系のものが多い。最近よくあるのは、

量子力学とスピリチュアルを合わせたタイプのものです。

 「仏教と最新科学(量子力学)がとてもよく似ている。古

代の人たちは凄い!」などという。


 私は別に凄いと思わない。「そりゃそうだろう」と思う。

 さまざまなアルゴリズムにそのアルゴリズムなりのクセが

あるように、人間の意識にも、万人共通のクセ(思考・脳の

機能的特性)があり、誰もその制約から逃れられない。なの

で、どのようなアプローチをしたところで、究極的な世界認

識は同じ結論に至るしかない。ちょっと表現方法が違うだ

け。どのルートから富士山に登ろうと、山頂で見る景色が同

じであるように・・。

 真理は意識(思考)の外に在る。定義上、わたしたちの意

識(思考)はそれを認識できない。


 《 真理を語ることは永遠に言葉遊びでしかない 》


 思考によって真理を探すこと自体が、わたしたちを真理か

ら遠ざける。

 「これが真理だ」と思った瞬間、わたしたちはエゴの落と

し穴に落ちる。



 《 わたしたちの意識の中に、真理は存在できない 》


 そういう認識は、わたしたちが真理に触れる可能性を最も

高めるように思う。そして、たぶん真理というものは、わた

したちのアタマが漠然と期待しているようなものとはまるで

違うだろう。


 《 真理というものは、期待外れである 》


 わたしたちのちっぽけで見当違いの期待に叶うようなもの

が真理であるはずがない。

 そう考えるのは妥当なことだろうと思う。


 そして《 真理と言うものは、期待外れである 》のならば、

「期待」を外すことで、真理に触れられるのではないだろう

か?

 「言葉遊び」を遊んでしまうなら、それはまんざらでもない

ように思う。




2023年9月3日日曜日

台本には無い「しあわせ」



 《 人は、演じるために生れて来るのではない 》

 三年前にそう書いた(『さしあたり、今日も生きてみる』

2020/6)。なぜそう書いたのかといえば、誰もが演じてい

て、演じることが生きることのように信じ込んでいるから。

そして、誰もがそれに気付いていないし、そのせいで苦しん

でいるから。なので、そんなことを言ってみたくなる。


 毎週日曜日は E テレの『日曜美術館』を観るのだけど、そ

の前に『No Art No Life 』という5分間のミニ番組があっ

て、それも観ている。

 毎週、知的障害や精神疾患を持った人が常識にとらわれな

い表現活動をしている様子を取り上げていて面白い。やはり

思考の制約が無い状態で感性が解放されると、その表現は他

の人の感性をダイレクトに刺激するのだとよくわかる。そこ

には演じない生(なま)の人間が垣間見える。

 ところが、今日の番組に出ていた女性には少し違った感じ

を受けた。知的障害のある30歳ぐらいの女性で、その表現

はとても面白くて魅力的だったのだが、気にかかったのはそ

の女性の振る舞いだった。私は、なぜだか、そこに演技を感

じたのだった。
 

 気に入らない事があると、アニメで描かれる子供のように

目元に手を水平にかざして「え~ん😢」と泣くしぐさをみせ

たり、歌が好きでいつも歌っているのだけど、その歌が上手

でしっかりしている。作品ができて、施設のスタッフにみせ

るときのしぐさも、どこか普通に型通りの感じがした。全体

的にその振る舞いが類型的で、この番組にいつも登場する人

たちとは何かが違った。そして思った。振る舞いが類型的な

のならば、それは演技ではないかと。


 私が想像するに、この女性はごく幼い時になんらかの事情

があって、自分の心を守る為に、世の中から逃げて自分に

閉じこもる必要があったのではないか? 知的障害があるので

はなくて、知的障害という自分を演じることで、世の中と距

離を取り、自分を守ったのではないか? そしてそのような自

分の在り方は、ごく幼い時に無意識に形作られたものなの

で、自分でも自分が演技していると気付いていないのだろう

と。

 知的障害ではなくて、「知的障害を演じる」という精神疾

患なのではなかろうかと思った。(あくまで私の勝手な見立

てですよ)


 別にその女性を批判しているのでもないし、「嘘をついて

いる」などと言っているのでもない。こういうケースもある

のだなと気になっただけ。その女性にはその在り方が自分の

ギリギリの生き方なのだろうから、それでいいのである。


 この女性の「演技」はかなりエキセントリックに見えるの

で、周りの人たちはそれを「演技」だなどと思ったことはな

いだろう。そもそも、人が日常的に「演技」をするものだと

いう認識を普通の人は持っていないし、「この女性には知的

障害がある」と思っているので、そのような人が「演じる」

という可能性を考えていないだろう。けれど、私の感性はそ

こに「演技」を見て取ったのだった。


 この女性の「演技」は社会から逃れるためのものなので、

社会生活上の大きな問題を孕み、大きな困難を抱えることに

なる。けれど、社会に生きる苦しさからは逃れられるので、

その面では幸福だろう。

 一方、普通の人たちの「演技」は社会に合わせるための

「演技」なので、社会に適応して生きることを容易にする。

反面、社会の縛りに苦しむことになるのは避けられない。

 どちらも良し悪しで、「演じる」かぎり、生きることの本

質は見失われてしまうことになる。生きることは「演技」で

はないから。


 「社会に没入する」という社会との関わり方でも、「社会

から距離をおく」という社会との関わり方でも、社会と関わ

る以上わたしたちは「演技」をすることになる。

 社会に生きる以上、それは仕方がないことだけれど、それ

は決して人をしあわせにしない。「演技」の中にしあわせが

あるはずがない。そこにしあわせを見たとしても、それは 

“「演技」のしあわせ” なのだから。


 社会と関わらない意識の時。

 わたしたちが「演技」をやめることができるひと時。

 わたしたちは、生きていることの本質を垣間見る。


 《 人は、演じる為に生まれてくるのではない 》


 誰もそうとは気付かずに、演じ続けてその生涯を終えるけ

れど・・・。




2023年9月2日土曜日

コオロギの声



 夕飯を食べてちょっと外へ出てみたら、コオロギが盛んに

鳴いている。 秋が来るのだなぁ。

 コオロギはこの日本でいつからこうして鳴いているのだろ

う?日本人はいつからコオロギの声なんかを愛でるようにな

ったのだろう?

 縄文時代には火焔型土器や土偶を作るような精神性の高さ

を備えていたわけだから、きっと虫の声を愛でていたことだ

ろう。そのような感性・文化を一万年以上も受け継いで来た

のだと思うと、なにやらただ事ならぬものを感じるなぁ。


 一万年前と今では、わたしたちの周りに広がる世界は「同

じ惑星か?」というほど違うけれど、コオロギの声は変わっ

ていない。わたしたちの身体も変わっていない。コオロギの

声とわたしたちの身体の間には変なものがあふれかえっては

いるけれども、それは表面上のことなのだと改めて思う。映

画のセットと本質的な違いは無く、大道具・小道具の作りこ

み方が念入りだというだけだ。

 そういう発想でもって生きていると、物の価値などという

ものを本気で信じ込める人が沢山いることが不思議でたまら

ない(そっちが普通なんだけど)。よくやるよ。


 ネットニュースを見てると、新型 i Phone のハイエンド機

種が「30万円ぐらいになるんじゃないか?」なんて書いて

ある。どう考えてもぼったくりだろう。どうせカメラの性能

がまた少し上がるだけの話だろうから。それに30万円を出

すなんてのは、間違いなく妄想の世界だね。技術革新を考え

れば、たぶん5万円で売っても利益は出るんじゃないか? あ

こぎな商売を続ける Apple なんかをなんでありがたがるの

か? まぁ「なんでか」は知っているけど・・・。


 それはともかく、さまざまな道具を使って自分たちの世界

を飾り付けて、もったい付けて、ほんのひととき悦に入っ

て、あとに残るのはゴミの山。

 自分の手で火焔型土器や土偶を作って、クリエイティブな

喜びを持っていたであろう縄文人のことを思うと、現代人は

本当に幼稚だなと思ってしまう。この100年ほどで、日本

人(だけではないが)は文化的に怖ろしく退化したようだ。


 大道具も小道具も道具でしかなく、それ自体は一過性で便

宜上の価値しかない。わたしたちが本当に価値と呼べるもの

は、道具の向こうとこちらに在るはずだが、現代人はそれを

ほとんど見失っている。


 1万年の時を経ても変わらないもの。それを「本当の価値

だ」と言っても間違いはなかろう。

 コオロギの声は、いまも昔もわたしたちの耳と心を楽しま

せる。人としての本質的な穏やかさに立ち返らせてくれる。


 こころしておかなければ、間にある物は、わたしたちの豊

かさを邪魔するだけになってしまう。物に目を奪われて、

「豊かさ」を一度も感じたことがない人の方が多いようだけ

ど、それは空恐ろしく、とてつもなく悲しい話だ。せっかく

生まれて来たというのにねぇ・・・。