2026年1月24日土曜日

自分を置き去りに

 
 
 
 《 自由とは何もしたいことがないこと 》というよ
 
うな話を以前書いた。そのときには「身体的な欲求な
 
どは別だ」という断りも書いたと思うけど、その話を
 
一言で言える言葉が不意に浮かんだ。
 
 
 《 自由とは、アタマに誘導されないこと 》
 
 
 社会と関わらずには生きられないわたしたちは、社
 
会の影響で四六時中アタマに誘導されて思考し、行動
 
する。そしてそれを「自分の意志によってしている」
 
とまで思う。自分の意志でやっているのだから、自由
 
に思考し、行動していると自認するけれど、それは完
 
全にアタマに化かされている状態だ。
 
 
 このブログを書き始めた当初に書いたように、“自
 
意識”というのは社会が脳に浸潤してきたものだ。わ
 
たしたちの頭に浸透し、わたしたちの思考と感情を社
 
会的な方向へ誘導する。
 
 それは誰かが企んだものではない。
 
 人間関係の規模が大きくなると必然的に社会が発生
 
する。社会は人に有益な効果を生むので、人々は社会
 
を維持しようと、無意識に「社会は価値あるものであ
 
る」とお互いにの意識に刷り込み合う。それは社会の
 
規模がごく小さければ  コミュニティと呼ばれるよ
 
うな規模なら  良いことであるけど、ある規模を越
 
えると社会の有益さが個人の負担に見合わないものに
 
なる。それはどのような社会でも避けられない。社会
 
が持つ本質的な性質によってそうなるしかない。
 
 
 現代のような巨大な社会では、個人の負担はまった
 
く割に合わないとしか思えないけれど、わたしたちは
 
アタマに誘導されるので、その「割の合わなさ」に気
 
付きにくいようになっている。
 
 
 無神経な人間は、社会の誘導のままに、社会のシス
 
テムに暴力的ともいえる適応をして他者を侵害する。
 
 
 センシティブな人間や社会的能力の低い者は、自身
 
が社会の誘導によって傷ついているということを自覚
 
できないままに疲弊してゆく。
 
 
 前者はいわゆる“勝ち組”で、後者は“負け組”と
 
いうことになるけれど、どちらも社会に誘導されて自
 
分を置き去りにしていることに変わりはなく、表面的
 
(社会的)な幸・不幸の区別が有るとしても、そこに
 
人としての本当の自由は無く、しあわせも無い。
 
 
 こういうことを言うと「負け惜しみだ」と誰かが言
 
う。私にはその発想がアタマ(社会)の誘導によるも
 
のだと分かっているので、「不自由な人だな」と思う
 
だけだ。
 
 
 自分の中から湧いてくる欲求が、アタマの誘導によ
 
るものなのか、人としての本質からの求めなのか?
 
 そんなことをいちいち吟味することはできない。 
 
 宗教や哲学やスピリチュアルの教えなどでは、それ
 
を吟味して生きろというように言う・・・。 
 
 そんなこと無理ですよ。吟味しようとするのがアタ
 
マなんだから。
 
 
 私はこう勧めたい。
 
 * 人はアタマに誘導されるものだと、しっかりと認
 
   識すること
 
 * アタマの誘導から逃れることはできないと、肚を
 
   括ること
 
 * アタマの誘導も込みで、自分の欲求を面白がって
 
   しまうこと
 
 そうすることでアタマの誘導の縛りは解けてゆく。
 
 
 自分が自分を置き去りにしているのかどうか?
 
 自分のすることや社会の出来事を見て「クスッ」と
 
笑って、「ニヤリ」とできるのなら、まだ自分はここ
 
に居るでしょう。少なくとも、アタマに引きずり回さ
 
れてはいない。
 
 
 
 
 
 
 

2026年1月18日日曜日

無常を見ているのならば

 
 
 
 「諸行無常」
 
 この世界は一瞬も止まらない。すべてが変化してい
 
く。けれども、変化していくのを見ることができるの
 
は、その視点が変化することを免れているからだ。目
 
の水晶体や網膜がグニャグニャと波打ったりするのな
 
ら、何も見ることはできない。意識もそうだろう。
 
 
 「世界は変化し続ける。自分の心とからだも変化し
 
ていく」
 
 
 そう意識しているなら、その意識の本体は変化して
 
いかないものであるはずだ。つまりわたしたちの本質
 
は不変であり、絶対の安定を保っている。なので、こ
 
う表現してみる。
 
 
 「諸行無常 真心定常」
 
 (しょぎょうむじょう しんじんていじょう) 
 
 
 新しい仏教用語を作ってしまったけれど、何も遠慮は
 
いらない。2500年前から、仏教を学ぶ者が思い思いに
 
作って来たのが今に伝わる仏教用語なので、現代人が新
 
たに言葉を作ることを憚る必要は無い。
 
 
 この「真心(しんじん)」は、いわゆる「真心(ま
 
ごころ)」とは違う。「真心(まごころ)」は「良
 
心」や「本来あるべき心の働き」ということだけれ
 
ど、私が「真心(しんじん)」という言葉で定義した
 
のは、心の働きの起こる“場”のことだ。
 
 
 世界は動き続け変わり続け、それに連れて心も動き
 
続け変わり続けるけれど、それらを観ている“場”は
 
変わらない。これまでも映画のスクリーンなどに喩え
 
てきたことを仏教風に四文字熟語にしただけのこと。
 
 それだけのことだけれど、形が変われば使い勝手も
 
変わる。
 
 「わたしたちの意識の本体は映画のスクリーンのよ
 
うなもの」と言うのと、「真心定常」と言うのではか
 
なり違うので、受け取り方も違う。どちらがしっくり
 
くるかは人によるので、同じことをいろいろな表現で
 
表しておく意義は大きい。
 
 
 どちらにしろ、“わたしたちの本質は「無常」を観
 
ている「定常」の存在なのだ”という自覚を持てるな
 
らば、それで「安心(あんじん)」だ。どれほど心が
 
揺さぶられても、それを傍観していられるのだから。
 
(「あんじん」は仏教用語としての読み方です) 
 
 
 
 
 
 

2026年1月15日木曜日

徒然で草

 
 
 
 今日、吉田兼好の『徒然草』についての動画を見て
 
いると、“兼好は世の中と関わらなくなって暇だから
 
頭に浮かぶことを書いたのが『徒然草』になった”と
 
解説していた。なんだ、このブログと同じじゃない
 
か。
 
 
 「徒然」というのは、暇で手持ち無沙汰ということ
 
だけど、「草」はなんなのか?ちょっと調べてみたけ
 
どわからなかった。ということで自分で考えてみる。 
 
 
 「正法眼蔵」に《花は愛惜(あいじゃく)に散り、
 
草は棄嫌(きけん)に生(お)うるのみ》という言葉
 
が有る。「嫌っても草は勝手に生えてくる」というこ
 
とを引き合いに出して、「諸行無常、この世界に人の
 
思惑なんて関係ない」ということを戒める言葉だけ
 
ど、兼好も「草」を「勝手に出てくるもの」という意
 
味合いで『徒然草』という題にしたのだろう。
 
 しかし、今は21世紀。ネットの世界で「草」といえ
 
ば「笑い」です。今回のタイトルのように「徒然で
 
草」と書けば、「暇ですることなくて笑ってる😄」と
 
いうことになる。
 
 
 このブログが『徒然草』みたいなものなら、「手持
 
ち無沙汰で笑うしかない」というより、「手持ち無沙
 
汰だから笑ってしまう」あるいは「手持ち無沙汰だか
 
らこそ笑える」という姿勢でいたい。
 
 
 わたしたちは目的意識を刷り込まれているので、手
 
持ち無沙汰を嫌う。退屈を恐れる。それが人間の本性
 
であるかのように思っているけれど、本当は違うだろ
 
う。人の本性は、することが無い状況に安らげるはず
 
だ。アタマが不安になるのであって、本当はすること
 
が無ければ「あ〜、気楽だ」と寝転んでいられるもの
 
だろう。
 
 
 「徒」というのは「いたずらに」で、「然」は「し
 
からしめる」だから、「わけもなくそのようになる」
 
という意味でもあって、そこには意志が無い。目的も
 
コントロールもないので、なんの気負いも生まれな
 
い。「徒然」は草だ。気楽に笑っていられるはずだ。
 
そのはずなのだが、わたしたちは「徒然」だと不安に
 
なったり、罪悪感さえ持つように刷り込まれているの
 
で「徒然」を排除しようとしてしまう。
 
 
 「徒然」は草だ。この次「徒然」が訪れたら、そこ
 
に生えてくる草に触れられるよう、心にスペースを
 
とっておこう。
 
 
 
 
 
 

2026年1月8日木曜日

丁寧に

 
 
 昨日、兄の葬儀を済ませてきた。
 
 
 「人が死んでも悲しくない」
 
 自分はそういう人間なのに、こんなに泣くことにな
 
るとは思いもしなかった。
 
 とうに崩壊した家族の中で、自分と兄はちゃんと家
 
族だったのだと分かった。 
 
 
 歳を取ると誰でも思うだろう。人生はあっという間
 
に終わるのだ。
 
 
 だから、なんでもない暮らしの中の、そのときその
 
ときを丁寧に過ぎさせる以外に、しあわせに生きる方
 
法はない。
  
 
 過去と未来に関わらせずに、いまを丁寧に扱って下
 
さい。本当に。
 
 
 
 

2026年1月4日日曜日

わかっていること

 
 
 さっき義姉から電話が掛かってきて、兄が亡くなっ
 
たそうだ。
 
  一昨年肺ガンの治療をして、その後また一度入院し
 
たあと、今回肺炎で入院していた。二日前に本人から
 
電話があって「そんなに大したことはないから、数日
 
で退院になるだろう」と笑っていたが、病状が急変し
 
たらしい。「大したことはない」と言いながら、本人
 
は「これはダメかも」という予感があって、めったに
 
連絡を取り合わない私に電話をしてきたのだろうと思
 
っている。
 
 
 七つ年上の兄は、父親を亡くした時にまだ幼かった
 
私を不憫に思ったようで、父親代わりとまではいかな
 
いが、可愛がってくれた。優しい兄だった。
 
 
 うちの奥さんは普通の人だから、知らせを受けて、
 
「人間わからないなぁ」と悲しんでくれたけれど、な
 
にもわからないことはない。誰でも死ぬ。
 
 兄自身も、一昨年に見舞いに行った時に「自分が死
 
ぬのは何も恐くない。ただ嫁さんと息子のために治療
 
してる」と言っていたし、その気持ちはよくわかる。
 
 世の中の標準からすると少し早いから、義姉さんと
 
息子のことを思えば無念さはあるだろうけれど、「仕
 
方がないな・・」と思っているのではないだろうか。
 
 
 これで私の親兄弟はいなくなった。「人が死んでも
 
悲しくない」という私でも、さすがに少し悲しいけれ
 
ど、私が兄を悲しがらせる側にならなかったのは、兄
 
への礼を尽くしたことになるのではないか。
 
 
 《 わたしたちは死から生まれてきた 》
 
 死は命の母体。ひと時の「生きる」を終えたら誰も
 
がみんな、死へ帰る。
 
 
 兄は言っているんじゃないだろうか。
 
 「お先に。お前たちはもうしばらく面倒な思いをし
 
ときな」
 
 
 それが私の勝手な妄想でもいいではないか。
 
 誰でも死ぬんだから、そういう態度で受け止めるの
 
がふさわしいだろう。
 
 
 兄貴、お疲れさん。いろいろありがとう。
 
 
 
 
  
 
  

2026年1月2日金曜日

過去が消える

 
 
 また正月が来た。「一年があっという間」というよ
 
り、この頃は「過去なんて有ったのか?」という感覚
 
でいる。私にとって、世の中の物語がかなり訴求力を
 
失っているんだろう。
 
 いろんな事を見聞きして、その都度に私もそれなり
 
の感情が湧くけれど、それは“お話”だ。その“お
 
話”の中で泣いたり笑ったりしている人を一概にバカ
 
にしたりはしないし、それは人間的なことでもあるの
 
で尊重する。だけど、それでも“お話”だ。(もちろ
 
ん「バカだな」としか思わないことも沢山有る)
 
 
 過去というものは、アタマの中に有る“お話”だか
 
ら、その“お話”が訴求力を失うと過去も薄まる。と
 
いうわけで、私の過去は薄っぺらくて軽いものにな
 
り、「過去は有ったのか?」という感覚になっている
 
ようだ。
 
 
 このブログを始めて間もない頃、『未来はない。』 
 
(2017/3)という話を書いた時に、過去と未来はセッ
 
トだといういうようなことを書いたと思う。「未来は
 
脚色された過去だから、未来を無いものと捉えると過
 
去も無くなる」という話だっただろう(記憶違いかも
 
しれないけど)。
 
 過去はもう終わっているので、考えても暇つぶしぐ
 
らいにしかならない。未来は来ないから、考えても暇
 
つぶしになればマシな方だろう。 
 
 そのように過去と未来が薄っぺらくなると、過去と
 
未来から開放されて生きていることは軽くなり、過去
 
と未来が暇つぶしのネタになる。
 
 過去と未来が暇つぶしのネタでしかないとなれば、
 
生きることはなんとも張り合いが無いのも確
 
か・・・、「軽さ」を取るか「張り合い」を取るか。
 
 
 世の中は、親子ゲンカから仕事・趣味・戦争まです
 
べては張り合いで、そちらの方が需要が多いけれど、
 
それは誰もがそう生きるように刷り込まれていて、そ
 
れ以外のことを考えないように誘導されているのでし
 
ようがない。張り合いがなければつまらないのが人間
 
というものなので、私はそれをどうにかしようなどと
 
企んだりはしないけれど、「張り合うのも疲れる」と
 
いう人には「その感覚、大事にしたほうがイイよ」と
 
声を掛けたくなる。
 
 
 大きな声で「過去も未来も暇つぶしのネタ」などと
 
言うと、世の中の壮大な“ちゃぶ台返し”になるの
 
で、どんな目に合わされるか分かったもんじゃない。
 
私には世の中を敵に回すような義理はない。生きてい
 
るなら気楽にいたいので、ネットの辺境で、何かのご
 
縁で出遭う人に向けてこんなことを書く。
 
 私の過去はどこかへ行ってしまうけれど「書いたも
 
のは残る」(いつまでかは知らないが)。それは誰か
 
の単なる暇つぶしになるだけかもしれないし、上手く
 
すれば誰かが軽く生きるヒントになるかもしれない。
 
そうなるなら、それはなかなか楽しいことだけれど。
 
 
 
 
 

2025年12月26日金曜日

自分を信じる人

 
 
 

 この前テレビを観てたら、ひとりのアスリートがイ
 
ンタビューに答えて「自分を信じて・・・云々」と話
 
していた。よく聞く言葉ですね。「自分を信じる」。 
 
 
 何か困難に出合っている人に対して「自分を信じ
 
て」という言葉が向けられることもありますけど、あ
 
れを聞くと強い違和感を感じます。「自分に、可能性
 
や幸運を呼び込む力のようなものが有ると思い込め」
 
ということでしょうけど、そんな自信どこから持って
 
くるんでしょう?私なんかには到底無理です。自分を
 
信じることなんかできません。信じる根拠がありませ
 
ん。そういう場合に私にできるのは「(やる気がある
 
なら)とにかくやってみる。後はなるようになるしか
 
ない」ということだけです。ダメだろうと思ったらや
 
めます。無理くりでもやろうとはしません。「自分を
 
信じる」という無理をしてまで何をしようというので
 
しょう?「自分を信じる」という根拠のない方針を採
 
らなければならないような目的は、それ自体が根拠の
 
ないこと・・妄想の範疇にあることなのではないでし
 
ょうか?
 
 現実的なことなら「自分を信じる」なんて方針の出
 
る幕は無いように思います。その結果がどうであれ、 
 
具体的にこなしてゆく道筋が見えるものでしょう。 
 
 
 「自分を信じる」というように意識的にならければ
 
いけないのは、やる気が無くなってきているというこ
 
とでしょう?やる気が無くなってきたのならやらなけ
 
ればいいだけのことだと思いますけどね。
 
 どのような理由であれ、やる気が無くなってきたの
 
なら止めればいいのであって、自分の本音を押さえつ
 
けて行きがかりの方を優先するのは自分に親切じゃな
 
い。いったい何のためにそれをやろうとしているの
 
か?「行きがかり上でも、これはやるべきだ」という
 
決意が自分の中から湧いてくるのならいいけれど、誰
 
かからの見た目や、理想とする自分のあり方に縛られ
 
て自分をコントロールしようとするとロクなことにな
 
らないでしょう。
 
 
 「自分を信じる」という言葉が使われる時には、そ
 
こには必ず社会的評価が絡んでいる。社会と関係が無
 
いことなら「自分を信じる」なんて思考は出てこな
 
い。
 
 自分を信じようとする人は、社会の評価基準を持ち
 
込んで自分をバカにしている人です。自分に対してと
 
ても不親切な人です。そういう人の“自分”が可哀相
 
です。
 
 
 《 社会の見た目の何かになる必要はない 》
 
 
 これはバーノン・ハワードの言葉ですが、人の苦悩
 
の大部分が社会の見た目の何かになろうとすることで
 
生まれます。誰もがそういう風に刷り込まれて育つの
 
で仕方がないけれど、人は誰も《 社会の見た目の何か
 
になる必要はない 》と意識しておくべきだと私は思っ
 
ています。
 
 もちろん、わたしたちは社会を無視しては生きてゆ
 
けませんから、社会の見た目も気にかけておく必要は
 
あります。けれど「本当は社会は自分が生きる場所で
 
はない」という前提で社会と関わらなければ、自分が
 
生きるのではなくて、“社会の見た目の何か”が生き
 
ることになってしまいます。自分はどこかにいってし
 
まう。
 
 
 「自分を信じる」
 
 この言葉を聞くたびに、私は「何を言ってるんだ」
 
と不快に感じます。
 
 
 自分は信じるものではない。 
 
 いまここに自分は在るのに、信じる必要なんてある
 
わけがない。 
 
 自分は許すものです。