前回は「物事を深刻にとらない」というようなことを書い
たわけですが、「物事を深刻にとったっていいじゃないか」
という考えも当然あるわけです。私はそれは別に構わないと
思っています。あそこで書いたように、その刷り込みは生き
る上で必要だし、その刷り込みのおかげで、物事の価値を感
じて喜びにつながることも沢山ありますからね。そっちがお
望みならそれでいいのです。ただ、こう思います。
「物事は必ず “負の価値” がセットなんだから、それも
文句を言わずに引き受けなければならないよ」と。
いじわる言ってますね。そんな “清濁併せ呑む”みたい
なことだと、喜びを求める意味がないですからね。
なので「生きることは素晴らしい」と言えば「死ぬことは
悲しい」となってしまいます。
「生きることも死ぬことも素晴らしい」
そんなことを言う人もいるかもしれませんが、多分自己欺
瞞ですね。嘘です。
「生きることも死ぬことも・・・・(微笑)」
そういう感じなら、私は信用しますけどね。
「・・・・」の中に万感の想いが入っていると思います。
「・・・・」の中にしみじみとした安らぎがあると思いま
す。
「・・・・」は、思考では捉えられない実感です。
「・・・・」は、人のストーリーからの開放です。
「・・・・」は、意味付けしない命です。
《 人生はグリコのおまけのようなもの 》そう書いたのは
随分前ですが、おまけを宝物か、はたまた爆弾のように扱う
のはアタマがおかしい。おまけはおまけであって、必要欠く
べからざるものではない。人生に必須事項はない。独房に閉
じ込められたって、さしあたりは生きているんだから、人が
生きることは原則として空身(からみ=何も持たない)で
OK なわけです。
「・・・・」は生きることの原則である空身から湧き上が
る感覚です。原則だから誰でも分かっているはずのものです
が、世の中から刷り込まれ、手にしたものに惑わされて分か
らなくなってしまう。
生まれた時から刷り込まれ続け、手にしてきたものをいま
さら捨てることも消すこともできはしません。「手放せ」と
か「空になれ」なんてムリなことです。そんなことをしたら
世の中で生きられません。けれど、身につけている服の下に
は裸の自分が常に在る。手にし、背負っているものをムキに
なって保ち続けようとすることをやめることはできる。
世の中に必須のものは無い。代用が効くものばかりなの
に、わたしたちはつい深刻に考えて限定したものに囚われて
しまう。それが間違いだと気付ければ、空身の自分の感覚が
よみがえってくる。生きることの軽さに気がつく。