「地下鉄サリン事件」から30年ということで、テレビがい
ろいろと報道している。「カルトは怖い」と思わせる代表的な
出来事ではあるけれど、カルトとは何なのか?カルトはどのよ
うに怖いのか?
私の考えるカルトとは、ある考えを中心に徒党を組んでいる
者ということです。極端に言ってしまえば、徒党を組んでいる
ものはすべてカルトだろうと思います。そしてカルトの怖さと
は、徒党の持つ力であって、その思想ではない。
ヤバいことを考えているとしても、一人では大したことはで
きない。超天才ハッカーとかなら、ネットから重要なコンピュ
ーターに入り込んで一人でテロが起こせるだろうけど、そうい
うのは特殊な場合だし、一人なら「カルト」とは言わない。
「カルト」の本質は徒党です。
私は昔から群れるのが苦手だし嫌いです。生理的に避けてし
まいます。「なかよしこよしは なんだか怪しい」(©井上陽
水)、と本能的とでも言うぐらいにそう感じる。群れること自
体が胡散臭いんです。
人はなぜ群れたがるのか?
なぜ群れなければならないのか?
自分の考えを自分で疑っているからでしょうね。
自分の考えを心底肯定できないので、他の人との間で共感し
合うことで、肯定し切れない部分を誤魔化したいのでしょう。
そして、その共感の数が多ければ多いほど自分の考えが確かに
感じられるので、群れを大きくしたくなる。けれど、いくら群
れが大きくても誤魔化しは誤魔化しでしかありません。そして
群れる者は自分を誤魔化していることを心のどこかで気付いて
いるので、常に不安を抱えています。群れている限り救いはあ
りません。
釈迦は言っていますよね。「犀の角のようにただ一人歩め」
と。
群れたがるのは、自分を誤魔化しているということだから、
群れていると真実に気付くことができなくなる。逆に言えば、
群れないことで真実に気付く可能性が生まれる。
仏教では、修行道場のことを「叢林(そうりん)」と言うそ
うです。「叢」というのは「くさむら」ということで、「叢
林」とは植物が密集して生えている様子。修行僧が沢山集まっ
ていることで、曲がらずに上に伸びるしかないという意味があ
るそうですが、そういうのは危ない面がありますね。下手をす
れば徒党になる。なんだか怪しい・・・。
釈迦の周りには、釈迦を師と仰ぐ者が大勢いたでしょうが、
教団などは作らなかったし、達磨も弟子なんか持たなかった
(二祖・慧可は後継ではあるけれど、弟子とは言えないで
しょう)のは、人といると自分を誤魔化すようになることを深
く認識していたからでしょうね。
群れる者たちは否定されるととても怒る。自分たちの考え・
感覚に確信が持ち切れていないので、ちょっと否定されただけ
でぐらついてしまうから。そして極端な場合オウム真理教のよ
うなことを仕出かす。一方、絶対的な納得をしている者は、他
者を必要とはしないし、どのように否定されても揺るがない。
「犀の角」のように、ただ一人、ゆるがずに居る。
自分の考えを信じたりしない。信じる必要がないから。
(もっとも、その考え・感覚がただの妄想なら、精神病院に
いることになるでしょうけど ・・・)
「なかよし」なのは良いことです。けれど「なかよしこよ
し」になるとなんだか怪しい。お互いの間の何かを、自分たち
の周りの何かを見ないようにしている。そこには思考停止・感
覚遮断による誤魔化しが潜んでいる。
人の集まりがすべて怪しいわけではないけれど、群れる者は
怪しい。それは宗教に限らない。企業だろうと政党だろうとど
のような結社だろうとコミュニティだろうと、それが「群れ」
なら怪しい。
単なる「人の集まり」と「群れ」はどう違うのか?
「群れ」は個々の違いを認めない。
「犀の角」のように独り歩む人は、さまざまに違う人たちの
中で揺らぐことなく居られます。その人は違いを認められるか
らです。
「違うね😊」と言って笑い合えるような関係こそが、「なか
よし」であり、健全でしょうね。
なかよしこよしはなんだか怪しい🤔