2024年11月20日水曜日

いまが生きてる・・?

 
 
 
 「いまを生きる」とか、“Here - Now” とか、スピリチュア
 
ル系のお話しではよくそういう表現が使われる。このブログで
 
もそんな感じのことはよく書いてきた。ところが、今日ふとこ
 
う思った。「わたしが “いま” を生きてるんじゃなくて、“い
 
ま” がわたしを生きているのかな?」。
 
 
 よくわからない話ですよね。ただの言葉遊びのようにも思い
 
ますが、なにやらとても大切な思い付きのような気がするので
 
す。
 
 
 ずいぶん前に《 永遠とは、この “瞬間” が全宇宙に拡がって
 
いること 》と書きましたけど(『〈永遠の生命〉をさしあげま
 
す』2017/9)、いまこの瞬間、全宇宙が “いま” です。それは
 
間違いありません。そして次の瞬間もやはり “いま” です。い
 
まは永遠に “いま” で、宇宙は永遠に “いま” です。宇宙には 
 
“いま” しか存在しません。
 
 
 そんな話をして、それが何なんだということですけど、べつ
 
になんでもありません。「ちょっとこのフィーリングを伝えら
 
れないかなぁ」という気分なんです。いまどきの言い方なら
 
「共有」ですけど、自分を “いま” に溶かし込んでしまうよう
 
な感覚を味わってもらえないだろうかと・・・。
 
 
 この命の活動・存在の主体は “いま” である。ただ “いま” が
 
命としてここに現れている・・・。そういうフィーリングを持
 
つことはとてつもなく豊かな在り方です。ほとんど完璧に無敵
 
です。

 
 “いま” が生きている。

 
 一種の呪文だと思ってもらっていいでしょう。
 
 自分の手のひらでも、部屋の壁でも、なんでもいいから見つ
 
めながらつぶやいてみて下さい。
 
 
 “いま” が生きている 🌷





 
 
 
 
 

2024年11月16日土曜日

お次は何だ?

 
 
 『ザ・グリード』という B級モンスターパニック映画があり
 
ます。B級なので有名な俳優は出ていませんが、なかなか良く
 
できた面白い映画で、テレビで何度かみました。
 
 次々と危機が襲い、その都度主人公が「お次は何だ?」とつ
 
ぶやき、ラストもそのセリフで終わるのですが、私はこのセリ
 
フが気に入ってます。 
 
 
 「お次は何だ?😅」 
 
 
 これから面倒なことが起こりそうなときに「どうなるんだろ
 
う・・・」などとつぶやくと、気持ちが重くなるだけのように
 
思うけれど、「お次は何だ?😅」とつぶやけば、そこには気楽
 
さと遊びの要素が入って来て、気持ちに余裕が出てくる。 
 
 
 生きていれば、深刻なことから日常のちょっとした面倒ま
 
で、日々さまざまな事が起こる。面倒を避けたくても避けられ
 
はしない。起こることは起こる。それなら「お次は何だ?😅」
 
と遊び心で迎えてしまうのは賢いやり方だと思う。そしてそれ
 
は悪い事だけには限らない。普通「良い」と思われるような事
 
でも「お次は何だ?🤪」と受け止め、受け流したい。すべては
 
過ぎ去って行くのだから。 
 
 
 もっとも、こういう考えは自分を取り巻く状況や自分の人生
 
を自分から変えて行こうという人には気に入られない。そうい
 
う人は受け身の生き方が嫌いだからね(まぁ「自分で変えられ
 
る」と思っているだけなんだけどね)。
 
 
 私は自分の人生を自分で変えられるとは思っていない人間
 
で、自分の人生というストーリーは、文字通り「ストーリー」
 
であって実体は無いと認識しているので、出来事は受け流すだ
 
けにしていたい。そういう私には「お次は何だ?🤪」あるいは
 
「お次は何だ?😂」とうそぶいてみるのは楽しいことです。
 
 
 このブログにしても、次に自分が何を書くのか分からない。
 
書き始めてもどう転ぶか分からない。次には何を書くのだろ
 
う?お次は何だ?🙄
 
 
 
 
 

2024年11月4日月曜日

人生を変えたい人へ

 
 
 「もう長いこと辛いことばかり・・・。この人生を変えられ
 
ないだろうか・・・」

 
 そういうことを考えている人は多いでしょうし、人がそう思
 
うのも理解できる。けれど、人生というものを変えることなど
 
できないでしょう。そもそも人生というものは固定したもので
 
はなくて、日々刻々と変わり続けているものです。そんな変わ
 
り続けているものを「変えたい」と考えるのはへんな話です。

 
 「いや、そういうことではなくて、辛いことが続く傾向を変
 
えたいんだ」
 
 人生を変えたい人からは、そういう返答がありそうですね。
 
では、なにゆえに「辛いことが続く傾向」があるのでしょう
 
か?
 
 
 自分が置かれてきた状況が、自分にとって辛いことが起きや
 
すいのでしょうか?
 
 自分のパーソナリティが、辛いことを引き起こしやすいので
 
しょうか?
 
 本当は辛いことではないことを、自分が「辛い」と感じてし
 
まいがちなのでしょうか? 
 
 
 状況が原因なら、その状況を変えなければなりませんが、大
 
変難しいことですね。あまり望みはなさそうです。
 
 自分のパーソナリティが原因なら、自分のパーソナリティを
 
変えねばなりませんが、どう変えたらよいのかはなかなか分か
 
りませんし、変えるのもこれまた難しい。
 
 自分が辛くないことを「辛い」と感じてしまっているのな
 
ら、受け止め方を変えなければなりませんが、これは先の二つ
 
よりも出来そうに思います(「辛い」と感じやすいのもパーソ
 
ナリティのひとつですが・・)。
 
 難易度から言って、三番目の “受け止め方を変える” という
 
のは、まだどうにかできる見込みがありそうですね。

 
 以前に、問題への対処法は三つしかない〈 逃げるか・許す
 
か・戦うか 〉だ。と書いたことがありますが、自分の身に起き
 
た出来事が辛いのは、許さないからですね。
 
 
 頭を柱にぶつけた・・・。とても痛いですね。
 
 いじめで頭を殴られた・・・。痛いですね。
 
 両方とも痛いです。けれど、辛さはどうでしょう?自分でぶ
 
つけたのなら、辛さは後を引きませんね。 同じ痛さでもね。
 
 これは一つの例ですけど、心に滲みるような「辛さ」という
 
ものは、突き詰めて考えれば人間関係の中に生まれて来るもの
 
です。他者との関りの中で、自分の望みが叶わない時や自分の
 
安定が崩された時に「辛い」と感じるのです。「辛さ」のうし
 
ろには人間がいます。見方を変えれば、その人との関係の中
 
で、自分は価値の無い人間だと感じる時、辛いのだとも言えま
 
す。
  
 
 例えば、
 
 〈妻から離婚を言い渡された…〉
 
  自分の価値が否定されたのです。
 
   例えば、
 
 〈妻を亡くした・・・〉
 
  妻を守ることができなかった自分を価値の低い人間だと感
 
じてしまう。
 
 ブラック企業で長時間労働させられてボロボロ・・。からだ
 
も辛いけど、そこから抜け出す勇気や能力が無いことが情けな
 
くて辛い・・・。
 
 何にせよ、人は自分や自分のしていることの価値を信じられ
 
ないことで辛くなる。価値を信じられれば、肉体を限界まで酷
 
使して、命がけでチョモランマに登っても心は辛くない。むし
 
ろ喜びを感じるぐらい。

 
 そういうことを考えると、「人生を変えたい」と思う人は何
 
か自分の生き方・状況にそぐわない価値観を持っているので
 
しょう。そぐわないので、すぐに自分の価値が揺さぶられてし
 
まう。で「辛いことばかり・・・」ということになってしま
 
う。

 
 自分の性分や体質・置かれている状況に見合った価値観を持
 
つか、価値などというものにリアリティを持たせないことで、
 
辛いことは消えてゆく。
 
 
 価値の低い自分を許す。
 
 無価値の自分を許す。
 
 等身大の自分に甘んじる。

 
 自分が無価値(ゼロ)になれば、まわりがプラスだろうとマ
 
イナスだろうと、すべては自分に付加されていることになる。
 
道元が言った「放てば手に満てり」とはそういうことでしょ
 
う。
 
 
 実のところ、「人生を変えたい」と思っている人は自分を変
 
えたくはない人で、だからこそ人生の方を変えたいわけです。
 
 
 人生を変えたいのなら、人生を変えようとすることをやめ
 
る。人生が変わってゆくことを止めようとすることもやめる。
 
それが逆説的に人生を変えてしまう。なぜならそれは自分が変
 
わることだから。そして、状況の持つ毒や自身のパーソナリ
 
ティの引っ掛かりも消して行く。
 
 
 《あなた自身をどうしたら良いかなど知らなくていいとした
 
ら、なんと幸福な人生だろうか》 バーノン・ハワード  

 
 「いま、この辛い状況から手を引けというのか?そんなこと
 
したらめちゃくちゃになってしまう・・・」
 
 アタマはそう言うでしょう。けれど、そう思う人はいままで
 
人生から手を引いたことなど無いことでしょう。
 
 「人生はコントロールできる」
 
 「人生をコントロールしなければ・・」
 
 そういう思いに囚われている人は、人生から手を引くという
 
体験が自分に何をもたらすかを知らない。
 
 
 自分の心臓や肺や胃袋が、コントロールしていなくても自分
 
を生かそうとしているというのに・・・。





2024年11月2日土曜日

ずっと待ってる

 
 
 昨日、ユーミンの『経る時(ふるとき)』を聴いていて、
 
 
  二度と来ない人のことを
 
  ずっと待ってる気がするティールーム
 
 
 という歌詞に「う~む・・・」と唸ってしまった。私もずっ
 
と待っているように思うのです。「人を・・」ではないけれ
 
ど。何かを待っている。来ないかもしれないものを待ってい
 
る。
 
 
 そんなことを思っていたら、今度は『となりのトトロ』の
 
キャッチコピーがあたまに浮かんだ。
 
 
  忘れものを届けに来ました
 
 
 忘れたものが届けられるのを、ずっと待ち続けているように
 
感じる。心のどこかにそんな感覚はありませんか?        
 
 
 何を忘れたのか? 
 
 たぶん、生まれる前に感じていた全能感だと思う。それがい
 
つかまた戻って来るように思っているのだろう。いや、望んで
 
いるのだろう。
 
 
 忘れてしまった。
 
 見失ってしまった。
 
 けれど記憶の奥に消すことのできない感覚が残っている。
 
 「何かが違うんだ。何かが・・・」
 
 
 その違和感なり喪失感なりはきっと間違いじゃない。それを
 
無いことにできない人たちが、 “何か” を求めて外を見る、自
 
分の内を見る。けれど、それを求めているうちは、それは見つ
 
からないだろう。戻って来ないだろう。(と、自分に言いきか
 
せてみる)
 
 
 探すのをやめたとき 見つかることもよくある話で・・・ 
 
                  『夢の中へ』井上陽水
 
 
 探すのを完全にやめることができたとき。その “何か” は忽
 
然としてここにあるだろう。そして、ずっとここにあったのだ
 
と気付くだろう。無響室の中で自分の心臓の音が聞こえるよう
 
に。
 
 
 「なんだ、生きてるじゃないか😙」 
 
 
 ただそれだけのことに、心の底から納得したい。
 
 心の底から・・・。
 
 
 
        
 

2024年10月28日月曜日

自由自在とは

 

 

 不運をどう扱うか。

 幸運をどう扱うか。
 
 生きるということは、結局そういうことだろうと思う。
 
 で、どうしたら良いか?
 
 スルーしちゃうのが最善でしょう。
 
 
 イワシの群れにカジキとかサメとかが突っ込んで行くと、群
 
れが「パッ」と分かれてすぐまた塊りになるじゃない? ああい
 
う感じで、わたしたちの意識も、不運や幸運をスルーするのが
 
いい。そうすれば、不運が人生に不運として影響しない。幸運
 
が人生に幸運として影響しない。運・不運に乱されない。
 
 
 幸運は受け止めればいいじゃないか!
 
 普通はそう考える。けれど幸運を受け止める意識の受け皿
 
は、不運も受け止めるようにできているので、受け皿を出さな
 
い方がいい。
 
 
 大きな病気になった・・。まぁ、不運でしょう。けれどそれ
 
を不運として扱わない。ただ「病気になった」として扱う。
 
 宝くじが当たった!まぁ、幸運でしょう。けれどそれを幸運
 
として扱わない。ただ「沢山お金が入った」 として扱う。
 
 出来事に乱されないように、出来事は出来事のままに扱う。
 
 
 もちろん大きな病気になったら、「まいったな・・」ぐらい
 
は思う。人間ですから。
 
 宝くじが当たったら「ラッキー!」ぐらいは言う。人間だか
 
ら。でもそれぐらいにしておく方がいい。運・不運に深く関わ
 
ると、あらぬ所に迷い出してしまう。観念・妄想の世界に入り
 
込んで、命からはぐれてしまう。
 
 
 不運も幸運もスルーして、やって来るものはやり過ごして、
 
自分の中から外に出て行こうとするものは出て行かせて、変わ
 
らずにここにいる自分を味わう。それは、運・不運とは関係な
 
いしあわせだから。
 
 
 自由自在。
 
 それは何でもできるということじゃなくて、なんでもないと
 
いうこと。 老子の場合は「上善は水の如し」と言った。
 
 自分を固めないで、自分を緩めて、イワシの群れや水のよう
 
に生きたら・・・。試してみれば味わえる。
 
 
 
 
 

2024年10月27日日曜日

天国の地獄

 
 
 タイトルは「天国と地獄」の打ち間違いではありません。昨
 
日、駅のホームに立っているときに、ふと思ったのです。「天
 
国と地獄が別にあるわけじゃないんだ。天国の中に地獄がある
 
んだな」と。
 
 
 この世界は天国なのです。その中でエゴが地獄を作る。
 
 いついかなる時も天国なのです。エゴはそこから目をそら
 
す。エゴは天国が気に入らないようです。
 
 
 これまでも書いてきましたが、エゴの仕事は「分けること」
 
と「否定」することです。
 
 世界と分けることで自分(エゴ)を確認し、自分と自分の世
 
界以外を否定することで、自分が価値あるものだと感じたいの
 
です。その結果どうなるか? 自分が否定したものに取り囲まれ
 
て孤立することになりますね。それは地獄じゃないですか?
 
 
 エゴが否定をしなければ、この世界は天国のままです。
 
 分けずに受け入れてしまえば、この世界は天国です。
 
 とはいうものの、邪悪なものを受け入れていいはずもありま
 
せんね。破滅してしまいます。
 
 
 しかし、邪悪なものとはなんでしょうか?
 
 ひとつには身体を損なうもの・・「暴力」でしょうね。
 
 もうひとつは心を損なうもの・・精神的な「暴力」ですね。 
 
「暴力」だけは避けなければなりません。逃げる・スルーす
 
る・抗う。とにかく受け入れてはなりませんね。 生きて行く上
 
でしなければならないことは、それだけなのかもしれません。
 
「暴力」を受け取らないこと。
 
 
 「暴力」というと、殴るだとか銃で撃つだとかがすぐに思い
 
浮かびますし、精神的な「暴力」だと、罵るとか無視するとか
 
ありますけど、どれもエゴの暴走です。
 
 他人のエゴであれ、自分のエゴであれ、制御できなくなった
 
エゴが暴走して、誰かをあるいは自分自身を傷付ける。
 
 自己嫌悪だとか自己否定とか、自分の人生・運命を呪うなん
 
ていうのは、自分自身に対するエゴの暴走です。だってそんな
 
ことをしても、自分を喜ばすことはできないんですからね。わ
 
たしたちに一番「暴力」を振るうのは、わたしたち自身のエゴ
 
かもしれない。なにせ、エゴはわたしたちの意識に入り込んだ
 
他者(世の中)ですからね。(『意識というものは・・・』
 
2017/1 参照)

 
 「暴力」を振るう誰かからは物理的に逃げることもできる
 
(それが難しい場合もありますが)。けれど、自分のエゴから
 
は物理的に逃げられない。意識の中で自分の心を逃がすしかな
 
いけれど、どうするか?
 
 「勝手に地獄ごっこをやってなさい」
 
 エゴにそう言ってやる(放し飼いですね)。そう言った瞬
 
間、心は天国に居ることに気付く。 元々天国なんですから。
 
 
 じゃぁ、身体的な「暴力」から逃げられなかったら?
 
 逃げられなかったのならしようがないから、せめて心は「暴
 
力」から逃がしてやるのが得策ですね。
 
 「暴力」を防げなかった敗北感・無力感だとか、「暴力」を
 
振るった相手や社会に対する恨み・怒りといった感情に言って
 
やる。「君は地獄に居なさいね」と。 

 
 この世界は天国ですよ。わたしたちのアタマが作るストー
 
リーが地獄を作るけれど。
 
 
 そんな風に思えなければ?
 
 仕方がないので地獄を生きるしかありませんね。それがさだ
 
めなんでしょう。けれど、やっぱりそこは天国ですけどね。
 
 
  


2024年10月19日土曜日

離人症について

 
 
 前回の話を書いたあと、以前から書こうと思っていたことを
 
書く頃合いが来たなと思った。それは「離人症」について。
 
 
 「離人症」というのは精神医学の言葉で、自分が自分の心
 
や体から離れていったり、また自分が自身の観察者になるよう
 
な状態を感じること。罹患者は自分が変化し、世界があいまい
 
になり、現実感を喪失し、その重きや実感を失ったと感じる。
 
慢性的な離人症は離人感・現実感消失障害 とされ、これは
 
DSM-5では解離性障害に分類される”   (ウィキペディア)
 
いうようなことで、 当事者は不安や混乱を覚えるのですが、実
 
は私は二十歳前後の頃に、強いストレスにさらされる期間が続
 
いたためにそういう傾向が有ったのです。自分がおかしくなっ
 
てしまったと、かなり不安になっていました。友達に「お前、
 
おかしいぞ・・」と言われたことさえあったのです。
 
 
 友達と話をしている自分を、もう一人の自分が後ろから見て
 
いて、話はしているけど上のそら・・・。自分が分裂してしま
 
いそうな感じでしたね。その状態は、まさに前回書いたことと
 
同じように思えます。このブログを精神科医が読んだら「あん
 
た離人症だよ」と言われるかもしれませんね。
 
 
 けれども、いまの私が「自分」を放し飼いにしている状況と
 
は、決定的に違うところがある。それは不安を感じていないと
 
いうこと。むしろ、以前の自分が日常レベルで感じていたよう
 
な不安さえ感じなくて、心穏やかな日々を過ごしている。それ
 
が悪いことであるわけがない。
 
 
 二十歳の頃の私の精神状態といまの私の精神状態は、ほぼ一
 
緒でしょう。そもそもわたしたちの意識というのは、意識全体
 
の中に「自分」という自意識があるという構造なので、「自
 
分」とそれ以外の意識が分かれて感じられるという状況は、簡
 
単に起こる。むしろ、そうなるのが当たり前なのを、自意識が
 
必死になって分離感を消しているのでしょう。自意識は全能感
 
に飢えているので、「自分」の外に管轄外の意識が存在するこ
 
とを認めたくないから。

 
 「自分」は意識の本体ではないということを、自意識の側に
 
立って見ると不安になる。けれど意識の本体の側に立って「自
 
分」を見ると不安は無い。人の不安は自意識のはたらきだから
 
です。
 
 
 二十歳の頃の私は地獄にいました。いまの私は天国にいま
 
す。意識構造の在り方に違いはありません。ただ視点が違うだ
 
けですが、その違いが天と地の違いを生んでいる。
 
 
 いわゆる「現実」の私はパッとしません 。いまも昔も大した
 
ことありません。生活や能力に大きな違いが生まれたりしてい
 
ませんが、いまは天国です。それは、意識の視点が生きている
 
ことの豊かさを決定付けるということでしょう。
 
 
 意識が分離しながらも常識的に社会生活を営んでいて、なお
 
かつ非常に穏やかに暮らしているのですから、たとえ精神科医
 
が私を精神疾患だと診断したとしても、「もうちょっと勉強し
 
なさいね😃」と思うだけでしょうね。
 
 
 「自分」を放し飼いにできた人には、宇宙から「離人賞」が
 
贈られます。それは、おおらかな穏やかさです。