2025年6月30日月曜日

必須事項はない

 
 
 前回は「物事を深刻にとらない」というようなことを書い
 
たわけですが、「物事を深刻にとったっていいじゃないか」
 
という考えも当然あるわけです。私はそれは別に構わないと
 
思っています。あそこで書いたように、その刷り込みは生き
 
る上で必要だし、その刷り込みのおかげで、物事の価値を感
 
じて喜びにつながることも沢山ありますからね。そっちがお
 
望みならそれでいいのです。ただ、こう思います。
 
 「物事は必ず “負の価値” がセットなんだから、それも
 
文句を言わずに引き受けなければならないよ」と。
 
 いじわる言ってますね。そんな “清濁併せ呑む”みたい
 
なことだと、喜びを求める意味がないですからね。
 
 なので「生きることは素晴らしい」と言えば「死ぬことは
 
悲しい」となってしまいます。
 
 「生きることも死ぬことも素晴らしい」
 
 そんなことを言う人もいるかもしれませんが、多分自己欺
 
瞞ですね。嘘です。
 
 
 「生きることも死ぬことも・・・・(微笑)」
 
 そういう感じなら、私は信用しますけどね。

 
 「・・・・」の中に万感の想いが入っていると思います。
 
 「・・・・」の中にしみじみとした安らぎがあると思いま
 
す。
 
 
 「・・・・」は、思考では捉えられない実感です。
 
 「・・・・」は、人のストーリーからの開放です。 
 
 「・・・・」は、意味付けしない命です。
 
 
 《 人生はグリコのおまけのようなもの 》そう書いたのは
 
随分前ですが、おまけを宝物か、はたまた爆弾のように扱う
 
のはアタマがおかしい。おまけはおまけであって、必要欠く
 
べからざるものではない。人生に必須事項はない。独房に閉
 
じ込められたって、さしあたりは生きているんだから、人が
 
生きることは原則として空身(からみ=何も持たない)で 
 
OK なわけです。

 
 「・・・・」は生きることの原則である空身から湧き上が
 
る感覚です。原則だから誰でも分かっているはずのものです
 
が、世の中から刷り込まれ、手にしたものに惑わされて分か
 
らなくなってしまう。
 
 
 生まれた時から刷り込まれ続け、手にしてきたものをいま
 
さら捨てることも消すこともできはしません。「手放せ」と
 
か「空になれ」なんてムリなことです。そんなことをしたら
 
世の中で生きられません。けれど、身につけている服の下に
 
は裸の自分が常に在る。手にし、背負っているものをムキに
 
なって保ち続けようとすることをやめることはできる。
 
 世の中に必須のものは無い。代用が効くものばかりなの
 
に、わたしたちはつい深刻に考えて限定したものに囚われて
 
しまう。それが間違いだと気付ければ、空身の自分の感覚が
 
よみがえってくる。生きることの軽さに気がつく。







2025年6月23日月曜日

遊び心

 
 
 人が生きて行く上で最も大切なことは?
 
 遊び心でしょうね。
 
 
 あらゆることを深刻に取らない。
 
 クソ真面目にしない。
 
 面白がることを目的に、物事を捉える。
 
 
 「人生はゲーム」と言う人がいますが、遊び心と言っても
 
ゲーム感覚ということではない。ゲームにしてしまった瞬間
 
に、人はその中に入り込んでしまい、生きていることから外
 
れがちになる。遊んでいるつもりで、実はゲームに弄ばれて
 
いたりする。自分じゃなくて、ゲームの方に主導権を握られ
 
てしまう。
 
 遊び心というのは、ゲーム(目標達成に付随するその他
 
諸々のこと)ではなくて、「ハンドルのあそび」という言葉
 
が示すような、「物事にガチガチに関わらずに、少し引いた
 
ポジションで物事に関わる」というようなことです。そし
 
て、そこから物事を眺めて、面白がるという姿勢で生きると
 
いう態度。私はそれを「遊び心」と呼びます。
 
 
 わたしたちは物事を大げさに、深刻に、もったいぶるよう
 
に刷り込まれて育ちます。例外はありません。
 
 物事がすべて取るに足らないものだとなれば、社会は成り
 
立ちませんから、社会で生きざるを得ない以上、様々なこと
 
に意味付け・価値付けしないわけにはいきません。特に根本
 
的な意味付け・価値付けは「生死」についてです。「死のう
 
が生きようがどうでもいい」となれば、人は食べ物も着る物
 
も手に入れようとしないし、ケガや病気を治すこともしなく
 
なりますから。なので “大げさ・深刻・もったいぶる" と
 
いう刷り込みはしようがないのですね。 
 
 ですが、それがアダになって、人は苦悩の中を生きなくて
 
はならなくなります。大げさで深刻でもったいぶった物事が
 
損なわれると、それは大きな痛手になってしまいますから
 
ね。ですから、苦悩から逃れたければ、“大げさ・深刻・
 
もったいぶる" ということをやめればいいことになります。
 
そこで「遊び心」が必要です。
 
 物事にガチで関わらないことで、“大げさ・深刻・もった
 
いぶる” から離れられる。気軽に、気楽になれる。
 
 
 “大げさ・深刻・もったいぶる” をやめても、当然なが
 
ら自分は生きている。生きているなら “大げさ・深刻・
 
もったいぶる” は生きる上での必須事項ではないことが分
 
かる。
 
 人にとって最も深刻なことは「死」でしょうが、その深刻
 
さも刷り込みです。社会で生きる上では必要ですが、でも刷
 
り込まれたものです。すべての人が等しく経験することが深
 
刻だなんておかしな話で、「死」は深刻にならずに捉えるべ
 
きことです。すくなくとも社会に関わっていない個人の意識
  
の中では、気軽に受け止めるべきです。

 
 こういう考えが一般の人の目に入ると、雨あられと非難の
 
言葉が降り注ぐことでしょう。
 
 「死を気軽に受け止めろだと!」
 
 声を震わせてそう言う人の姿が目に浮かびます。 
 
けれど先に書いたように、「死」はすべての人が等しく経験
 
することです。それも唯一のことです。もっとも当たり前の
 
ことです。気軽に受け止めて当然じゃないでしょうか。
 
 
 その深刻さの総本山のような「死」が気軽なら、他の出来
 
事の気軽さなんて言うまでもありませんね。どのような物事
 
でも、遊び心で捉えることはできます。

 
 とはいえ “大げさ・深刻・もったいぶる” の刷り込みは
 
とても強い。私も死ぬのは少し怖いし、内の奥さんに死なれ
 
たら泣くことは間違いない。けれど、そうして深刻になって
 
しまう自分を気楽に見ていたい。自分の深刻さを笑ってしま
 
いたい。そういう自分のジタバタを面白がってしまいたい。
 
世の中のジタバタを気軽にながめていたい・・・。
 
 
 そういう在り方は世の中から非難を受け、面倒なことに巻
 
き込まれます。なので、独りで静かに笑っていようと思う。
 
あざ笑うとかではなくて、思いやりの心を持ちながら面白が
 
る・・・。
 
 「自分もみんなも、涙ぐましい存在なんだな」と面白がり
 
ながら。
 
 
 イスラエルとイランの戦争をどう見るか?
 
 面白がるのにも品は要るでしょうけどね。 



2025年6月17日火曜日

どちらが大事?

 
 
 
 一昨日書いたブログは、自分で書きながら「強引だなぁ」
 
と思っていた。生まれる前と生まれた後のことを、エラ呼吸
 
と肺呼吸に例えるという思い付きが面白くて、無理やりそう
 
いう話にしてしまったという感がある。
 
 でも、それはそれでいいと思ってる。そういう無理をして
 
いる内に思いがけない視点が生まれたりするから。
 
 
 このブログは科学論文ではないので、それぞれの回で書い
 
たことが矛盾してたり辻褄が合わなかったとしても構わな
 
い。一つの話の中でさえ辻褄が合わなかったり、話がすり替
 
わったりすることもあるけれど、それもOK。そういうことよ
 
り、書いている私自身の気付きや、読む人がものの見方や受
 
け止め方を変えるきっかけになる言葉があることのほうが大
 
事。
 
 なので、このブログは、鍵になる一つの言葉を説明する文
 
章が、いくつか組み合わせられて一つの話になっているよう
 
です。
 
 
 そういう感じで本人は書いているのですけど、私が思う
 
になる一つの言葉ではなく、説明のつもりで書いている文章
 
の中の言葉で、読む人が何かを気付くかもしれない。そこは
 
ご縁なのでそれはそれでいいわけです。
 
 というわけで、読んだ人が「話が違うぞ」とか「筋が通ら
 
ないぞ」と思ったとしても私は気にしません。そんなこと、
 
所詮はアタマの考えるお話の世界のことですから。
 
 
 このブログに限ったことではなく、わたしたちが暮らす世
 
の中自体が、実際は行きあたりばったりで辻褄の合わないこ
 
とで溢れています。合理性とか一貫性が重要な事は、機械を
 
作るとか、電車を走らせるというような部分でしかありませ
 
ん。法律に則った裁判でさえ、判事によって判決が違うので
 
すからね。
 
 そんな世の中に暮らしながら、合理性や一貫性に囚われす
 
ぎると、却っておかしくなるでしょう。
 
 大切なのは、合理性や一貫性や世の中の約束事よりも、で
 
きるだけ多くの人に気楽さをもたらすことでしょうね。
 
 
 
 と、そんなでまかせを書いていたら、面白いイメージが湧
 
いてきました。このブログが“気楽さの地雷原”のようなも
 
のであればいいなと・・。
 
 踏むと、気楽さが爆発するような言葉がいくつも散らばっ
 
ているような、そういうものでありたい。でも、非常識なこ
 
とばかり書いているので、読んだ人が傷付くこともあるで
 
しょう。
 
 でも大丈夫です。いずれその傷口からは、世の中から取り
 
込んでしまって心の中で膿となっていた思いが出てゆくこと
 
でしょうから、しばらくながめていて下さい。もしそうなら
 
なかったら・・。「生きていると事故に遭うこともある」と
 
いう教訓として御活用下さい。
 
 
 
 

2025年6月15日日曜日

呼吸の仕方〜モードチェンジ

 
 
 人が一番しあわせなのはいつか?
 
 母親のおなかの中にいる時でしょうね。で、生まれてきて
 
しまうと、寒いとか痛いとか腹が減ったとか、身体的・物理
 
的理由でしあわせは損なわれてしまう。さらに社会(他者)
 
と関わることで、時間的にも情緒的にも身体的にもしあわせ
 
は損なわれる。疲れた・淋しい・悲しい・羨ましい・悔し
 
い・疑わしい・・・などなど。
 
 そう考えると、しあわせというのは得てゆくものではなく
 
て、元々備わっているのに削られてしまうものだといえま
 
す。そして、削られてしまったものを取り戻そうとすること
 
になるのですが、残念ながらそれは世の中にはありません
 
し、そもそも、わたしたちは何を削られたのかを分かってい
 
ないので、ただ欠損感に動かされて、見当外れのまま何か
 
得ようとしてしまう。では見当が外れていなければ良いので
 
しょうか?
 
 
 わたしたちの感覚は、生まれてきて「失われた」と感じ
 
る。そこを起点に人のあらゆる希望・渇望が生まれてくるわ
 
けですが、実は「失われた」というその感覚がそもそも間
 
違っているので、人は望んだものを手に入れても満たされる
 
ことはなく、次の望みを叶えようとする。なにを得ても見当
 
外れなのです。
 
 「なにを得ても見当外れ」というのはおかしな話のようで
 
すが、なぜそうなるかというと、本当はなにも失っていない
 
からなんですね。失ったのではなくて、モードが変わったの
 
です。

 
 カエルは、オタマジャクシのときにはエラ呼吸をしてい
 
て、カエルになると肺呼吸に変わりますが、もしもカエルが
 
「オタマジャクシのときの方が良かった」と水の中で生きて
 
ゆこうとすれば苦しみますし、それを続ければ死んでしまい
 
ます。この勘違いしたカエルのようなことが、人間に起きて
 
いるようです。
 
 つまり、生まれる前と生まれた後では自分を生かしている
 
世界が別物だということです。生まれる前に感じていた満足
 
(全能感)を求めても、生かされている世界が別物なので絶
 
対得ることはできない。生まれてからの世界では、まったく
 
違う形で満足(全能感)が用意されている。
 
 
 生まれる前の満足(全能感)は、ほとんど何の刺激も変化
 
もないという満足です。それを記憶した状態で人は生まれて
 
くるので、生まれてからも変化を恐れ、変化を無くそうとし
 
たいのです。
 
 しかし、この千変万化する世界に出て来てしまうとそれは
 
不可能なので、人は失ったものを代替物で埋めようとしま
 
す。それが人が活動を止められない理由です。だから、人は
 
安定を求めながら変化を求めるという矛盾した行動をしてし
 
まいます。
 
 わたしたちに必要なのは、「生まれる前とは違う形で満た
 
されている」と知ることなんですね。
 
 
 お母さんのおなかの中は、暖かく、何不自由なく、考える
 
必要もないという形の満たされた世界です。対して、生まれ
 
てからの世界は、暑さ寒さに苦しみ、あれもこれも思い通り
 
にならなくて、四六時中考えていなければいけない世界で
 
す。だからわたしたちは「満たされていない」と感じる。け
 
れども、そこが間違っているのです。生まれてきたこの世界
 
は、「暑さ寒さに苦しみ、あれもこれも思い通りにならなく
 
て、四六時中考えていなければいけない」という形で満たさ
 
れている世界です。
 
 
 どういうことかと言うと、生まれる前は〈具体的満足が精
 
神的安定を生む世界〉ですが、生まれた後の世界は〈精神的
 
満足が具体的満足を不必要にする世界〉です。
 
 千変万化し具体的な安定が得られないのですから、具体的
 
なことは放っておいて、精神的な満足を得ることを求める方
 
が良いに決まっていますね。
 
 
 オタマジャクシがカエルになって呼吸の仕方を変えるよう
 
に、人も意識の在り方を変えなければなりませんが、それが
 
できないので息ができなくて苦しむわけです。
 
 胎児の時とはモードが違う。生きているうちにモードチェ
 
ンジをしなければ、苦しみの内に人生が終わってしまいま
 
す。
 
 
 お母さんのおなかの中では、「変わらない」という空気を
 
呼吸しています。
 
 生まれてくると、千変万化する世界で、千変万化の内にあ
 
りながら千変万化を生きているのですから、生まれてきた世
 
界では「変わる」という空気を呼吸しなければならない。
 
「変わる」ということを素直に受け取ることで、自分も「変
 
わる」の一部になる。「変わる」に包まれる。
 
 慣性の法則のようなものですね。動きのままに動かされれ
 
ば、止まっているのと同じなわけです。

 
 とはいえ、人の世の中が愚かな動きをする時に、それと同
 
じに動いていると、とんでもない目に遭ったりします。悪と
 
言うしかないようなことをしでかしたりします。わたしたち
 
が身をまかせるのは、人のストーリーではなく、命の流れで
 
なくてはいけません。どうすればそんなことができるのか?
 
 人のストーリーを横目で見ているようにすることです。人
 
のストーリー以外の、この世界のすべての動きは命の流れで
 
すから、人のストーリーを横目で見れば、自動的に命の流れ
 
に乗っています。人のストーリー・世の中の動きは、命の流
 
れの添え物であることがわかります。
 
 
 わたしたちは人ですから、人のストーリーを無視すること
 
はできませんが、ただ眺めるようにそれに関わっていること
 
はできます。
 
 そうして命の流れ・動きに身をまかせることが、生まれて
 
きてから身につけるべき呼吸の仕方だと思いますね。
 
 
 
 
 


2025年6月9日月曜日

人の本性は善か悪か?

 
 
 “性善説”と“性悪説”ってありますよね。「人は本質的
 
に善か悪か」っていう話。私は『魂に罪は無い』(2019/3) 
 
って話を書いているぐらいなんで“性善説”の立場なんです
 
けど、普通一般に言われる“性善説”とは違います。人間的
 
価値観を無効とすることで現れてくる人間の本質を“善”で
 
あると考えているんです。
 
 
 人間的価値観を無効としたら何が現れるか?
 
 それは評価とは無関係な人間の意識状態であって、それこ
 
そが本来人間に備わっている意識のベースであるはずです。
 
その本来備わっている人間の意識のベースは“善・悪”の次
 
元にはありません。評価する意識をその中に収めている、よ
 
り大きなものだと思いますからね。
 
 
 そのように“善・悪”を越えた意識がある。“善・悪”以
 
前にそれはあるわけですから、「善か悪か?」なんて考えて
 
も仕方がない。あるのだから肯定するしかないわけですが、
 
その「肯定する」ことが、私にとっては「魂に罪は無い」と
 
いう認識であり、“善”とでも言うべきことなんです。
 
 
 戦争をしようが、搾取をしようが、騙そうが、差別をしよ
 
うが、それは人間の“善・悪”の価値観の中で展開している
 
ことで、意識のベースには関係がない。
 
 関係がないといったところで、そういう悪辣なことが世界
 
からなくなるわけではありませんが、関係がないと見ること
 
ができれば、その悪辣さに自分の意識が乱されることはな
 
い。
 
 そして面白いことに、関係がないという意識でいると、自
 
分の周りの悪辣さに自分からのエネルギーが流れなくなるの
 
で、悪辣さがしぼんでいってしまいます。
 
 なぜなら“悪”が“悪”であり続けるためには、対照とし
 
の“善”が必要だからです。
 
 “善”がなければ“悪”は意味を失い、“悪”としての体
 
裁を失くしてしいます。その結果、具体的にも“悪”は解体
 
してゆきます。
 
 
 これまでに何度か“頭のない男”であるダグラス・ハーデ
 
ィングに触れたことありますが、以前、ハーディングの考え
 
・実験にふれ、自分の世界が変わったという男性のインタビ
 
ュー動画を観ていると、面白い経験談を話していました。
 
 その男性はある時、仕事でかなり面倒なクライアントと関
 
わらなければならなかったそうですが、話をしている内にそ
 
のクライアントが理不尽に怒りだし、手が付けられない状況
 
になったそうです。男性は「困ったな」と一瞬思ったそうで
 
すが、ごく自然に自分の頭をなくした(善悪などの評価をす
 
る意識の外へ出た)そうです。そして何もせずに、ただ怒り
 
狂っているクライアントを見ていると、しばらくしてクライ
 
アントはおとなしくなり、黙ってしまうと一人で部屋を出て
 
いった・・・。
 
 近くで見ていた同僚が「どんな手を使ったんだ?」と驚い
 
ていたそうですが・・・。
 
 
 その男性は自分の意識の本質の部分に避難したわけです。
 
 そこには“善”も“悪”も無いので、相手は追って来れな
 
い。そこに入れば相手の価値観は雲散霧消してしまう。しか
 
たがないので、その場で怒り狂っていたわけですが、その行
 
為は空気を相手にパンチを繰り出し続けるようなことですか
 
ら、すぐに虚しくなってしまって、続けられなくなってしま
 
ったのでしょう。私自身もそれに似た体験を何度かしていま
 
すしね。
 
 
 「非難に対する最良の方法は、非難はそのままにしておい
 
て、ただ自分のすべきことをし続けること」という考えは昔
 
からありますが、意識の本質に自分を置くというのとは少し
 
違うでしょうね。
 
 
 加島祥造さんの『タオ〜ヒア・ナウ〜』の中に、
 
 
 (無為であれば)
 
 世間のこともまわりのことも、なるがままにさせておき、     
 
 黙って、見ていられる人になる。
 
 その方がうまくいく、という計算さえ持たずにね。
 
 
 という一文がありますけど、「自分のすべきことをし続け
 
る」という場合、そこには自分の正当性を信じるといった姿
 
勢があったりして、ある価値観に拠って立っていることが多
 
いでしょう。つまり「耐える」という在り方です。方や、価
 
値の世界の外に出ると、耐えたりする必要がありません。
 
《その方がうまく行く、という計算》さえないということ
 
は、自分が無いということで、「耐える」という主体が無
 
い。出来事は、それが影響をもたらす対象を失います。
 
 
 そのように、価値の世界の外に立ち、無為であり、自分を
 
失うことは、外の世界の出来事の過剰さを解体させる働きが
 
あると思います。それは“善”と言っていいのではないでし
 
ょうか?
 
 
 価値の世界の中にいると、どうしても価値が高いと思われ
 
ることに引きずられ、何かをしようとしてしまい、しなくて
 
いいことまでしてしまう・・・。
 
 随分前に『“過剰”こそ、悪である。』(2017/4)という
 
ことも書きましたが、「しなくていいことをする」のは
 
“悪”です。物質的あるいは精神的にエネルギーをムダに使
 
い、世界に余分な荷物を増やすだけ。
 
 
 価値の世界から退いていると、すべきことが自ずと為され
 
ます。お腹が減ってメシを食い、眠くなったら寝る・・・。
 
 そのような、余計なことに関わっていない人間の本性は
 
“善”だと思います。
 
 
 
 
 
 
 

2025年5月23日金曜日

時間の散歩

 
 
 わたしたちは、あれやこれやと迷う。
 
 道に迷う。外食で何を食べようかと迷う。どの製品を買お
 
うかと迷う。「選択肢が多すぎると選べなくなる」という認
 
知科学の研究もあるけど、選択肢があるからこそ迷う。
 
 "選択肢”とは何かと言えば、"自分の希望・満足を叶える
 
ための策”ということだろう。わたしたちは希望を叶え、満
 
足しようとして迷う。
 
 
 道に迷うのは目的地があるからで、散歩してれば迷わな
 
い。方向音痴で家に帰れないとかなら別だけど、「帰らなく
 
てもいいや」と思えば(!)それも迷ってることにはならな
 
い。
 
 
 わたしたちがあれやこれやと人生で迷うのは、目的を持
 
ち、それを達成することで満足を得ようと思うから。
 
 散歩するように生活している人は迷わない。
 
 散歩するように生きている人は迷わない。 
 
 人生というのものは、散歩するように楽しむことができる
 
ものだと思うけれど、ものごころ付いたときからそういう風
 
に思えないように育てられる。親(大人)は、子供が迷うよ
 
うに教える。まるでそれが良いことであるかのように。

 
 「わたしは時間を散歩してるのだ」
 
 そんな気分で人生を過ごせば迷いは無い。
 
 出会うことそれぞれに「へぇ〜、こんなことが有るんだ」
 
「あっ!こういうのも有りなんだ・・」みたいに楽しめるだ
 
ろう。
 
 けれども、普通はそういうようにはならない。なぜかとい
 
えば、散歩で目にするものは自分のものではないから、所有
 
欲が満たせない。アタマは自分のものにしてこそ満足するの
 
で、眺めるだけなんて暇つぶしにしかならないというように
 
思っている。所有欲と言われるのもは、いったい何なんだろ
 
うか?
 
 
 いまは、誰も彼もがそこら中でちょっとしたものにでもス
 
マホを向け、写真に収める。写真に撮ることで、意識の上で
 
は「自分のもの」になるからだろう。しかし、なんだってア
 
タマはなんでもかんでも「自分のもの」にしたいのか?
 
 
 「持っている」「持つ」という行為は、「持つ」というこ
 
とをする主体が有ってこそ成立する。わたしたちのアタマは
 
「持つ」ことによって、〈自分〉というもの(主体)が存在
 
していると確認したいのだろう。しかし、いつもいつも確認
 
したくなることこそが、〈自分〉というものは実は存在して
 
いないことを示している。存在していないというのが言い過
 
ぎなら、約束事でしかないと言おうか。
 
 どう表現するかはともかく、〈自分〉というものは曖昧な
 
ものです。思考で固めていなければぼやけてしまう。だから
 
こそ、アタマは四六時中考えることを止められない。そして
 
何かを手にしようとする。
 
 
 目的を定め、目にしたものを手に入れ、そうしながら時間
 
を過ごした先に、たどり着くのは死です。どうにかこうにか
 
保ち続けてきた〈自分〉も消え去る・・・もともと無いから
 
です。 

 
 散歩するように生きる。
 
 〈自分〉というもの、〈自分の人生〉というものも、景
 
色・体験の一つだと眺める。
 
 普通にわたしたちが街を散歩するような気楽さで、人生を
 
眺めることもできる。人生というものは、そうやって過ぎて
 
ゆかせ、眺めるものだというのが、人が生きることの楽しみ
 
なんじゃないのだろうか?

 
 ほんの何十年。せいぜい百年だけれど、時間を散歩するよ
 
うに過ごす・・・。生きるということの本質はそういうこと
 
だろう。

 
 
 
 
 

2025年5月22日木曜日

愚に生きる

 
 
 
 テレビで四国遍路の番組を観ていたら、一番の難所と言わ
 
れる山道にお遍路さんを励ます言葉が書かれていて、その中
 
に「愚に生きる」というのが有った。
 
 
 「愚」というのは、「計算しない」「損得勘定をしない」
 
ということだろう。
 
 長い遍路を歩き続けて、お寺を参るだけ。「こんなにしん
 
どい思いをして、これが何になるのだろう・・」という思い
 
が浮かんでくるだろうことを見越して、「愚に生きる」と一
 
声掛ける。
 
 「損得勘定をやめて」「何になるのかなんて計算せずに」
 
と促す。
 
 
 四国遍路をしようなどという人は、単に興味本位だった
 
り、マラソンをするような気持ちの人もいるだろうけど、
 
にがしかの迷いや悩みを抱えていて、遍路をすればそこから
 
抜け出す糸口がつかめるかもしれないという思いを持つ人が
 
多いことだろう。「愚に生きる」というのは、遍路の真髄を
 
突いた言葉なんじゃないだろうか。

 
 
 「こんなことをしていていいのか?」
 
 「このままだとどうなるのか?」
 
 そんな風にいろいろと考えてしまい、現状を肯定できず、
 
自分の進む道に確証が持てず、過去の自分の行いはまずかっ
 
たのではないかとか、まずいことをしたとか・・・。そのよ
 
うに人は苦悩する。
 
 特に大きな悩みや迷いでなくとも、人は誰も大なり小なり
 
そういうものを抱えているものだけど、迷い・悩みというも
 
のは、あれやこれやと計算をすることで生まれてくるものだ
 
ろう。だから、ただ歩く。
 
 目指す場所が有るとはいえ、ただ寺に参るだけで、なんに
 
もならない。日常を離れて、なんにもならないことをひたす
 
ら続けること。
 
 お寺に行って「パワースポットでエネルギーをもらう」と
 
か「心を浄化する」などと考える者もいるのだろうけど、そ
 
ういう人が遍路をしても、それこそなんにもならないだろ
 
う。
 
 無意味なことをただ続ける。
 
 無意味なことをただ続けているその時も、自分は生きてい
 
る。
 
 意味がなくても人は生きている。生き続けている。
 
 ただ歩く。ただ生きる。
 
 あれこれと計算するアタマの右往左往を置き去りにする。
 
 自分は本来ただ生きているだけなんだということに気付
 
く。
 
 その気付きが人を開放する。
 
 だから「愚に生きる」。
 
 
 そもそも、生まれて来て死んで行くのだから、生きている
 
ことはなんにもならないのに、損得勘定を考えることを刷り
 
込まれて、「上手にやれば、なにかになる」と思わされてい
 
る。その固定観念が人を苦悩させる。

 
 なんになるかなんて考えずに、とにかく遍路道を歩いてい
 
ると、山道の湿気を肌が感じる。風を頬をなでる、髪をとか
 
す。鳥の声が聞こえる。里を歩けば、人が声を掛ける。饅頭
 
をくれる。そういう体験は、人が生きてゆくことを端的に示
 
している。それだけのことで、そういうものだし、それでい
 
いのだ。
 
 大層なお話を刷り込まれて、利口に生きようとすることが
 
人を迷わせる。度がすぎれば、自分自身や世の中に害を成す
 
(それが一見して害に見えなくても)。
 
 
 どこのどなたが書いたものかは知らないけれど、遍路道に
 
「愚に生きる」と記したのは、その人の実体験からなんだろ
 
うなぁ。