2017年6月18日日曜日

人生の意味 ?

 昨日、〈意味〉について書きましたが、わたしたちはよく

「意味が無い」とか言いますよね。「おまえの言ってること

は意味が無い」とか、「そのやり方じゃ、意味が無い」と

か。

 この場合の「意味が無い」は、「価値が無い」とか「役に

立たない」とかいう意味ですね。

 このような表現をするということは、「価値が有る」こと

「役に立つ」ことを「意味が有る」と考えるのが、一般的だ

ということです。

 「人生の意味」と言う時、わたしたちは自分が「役に立

つ」ことで、人生に「価値」を持たせたいと思っているわけ

です。何故、人生に「価値」を持たせたいんでしょうか?



 「そりゃそうでしょ。誰だって自分の人生が価値の無いも

のだなんて(自分が役立たずだなんて)思いたくないでし

ょ」


 そう思う人が大多数でしょうが、「人生に価値が無かった


ら」いけないんでしょうか?

 価値があったとして、それが何なんでしょう?

 価値が無かったら、何か困るのでしょうか?

 そもそも「人生の価値」・「人生の意味」とは何でしょ

う?

 「自分の人生にどんな価値があつたか?」  評価という

のは、過去に対してなされるものです  というのは、死ん

だ時に決定するものですよね。学校の成績の様に、区切り区

切りで評価することもできるでしょうが、それはやっぱり途

中経過でしかないですよね。「六十歳まで真面目に働いてい

た人が、定年離婚されたのをきっかけに、ギャンブル依存症

になって、多額の借金を作って自己破産」なんてケースもあ

りますからね。こんな場合、「二学期までは、オール5だつ

たけど、三学期に成績がガタ落ちして、卒業出来ず」って感

じですね。やはり、「人生の価値」は死んだ時に決めましょ

う。


 というわけで、「価値」を決めるんですが、その為に

は、“評価基準”が必要なわけです。

 いったい、何を以て人生を評価するんでしょうか?

 どんな事を成し遂げたら、評価に値するんでしょうか?

 ・・・今、話の流れで“どんな事を成し遂げたら”と書いて

しまいましたが、「人生の価値(意味)」とは、“何かを成

し遂げること”というイメージが、私の中にも刷り込まれて

いるようです。私の様なへそ曲がりでも、その様に考えてし

まうということは、普通の人(私は普通じゃない!?)の考

えは推して知るべしですね。

 「人生は、何を成し遂げたかで価値が決まる」

 多くの人が、そう思っているんじゃないでしょうか。

 でも、本当にそうでしょうか?

 「何を成し遂げたか」で価値が決まるんでしょうか?

 そもそも、価値が決められるのでしょうか? 



 とりあえず、「何を成し遂げたか」で「人生の価値」が決


まるとしましょう。では、「何?」が、評価に値するのでし

ょう?

 “社会的成功”でしょうか? 「名声を得る」・「財を成

す」・・・。他に思い浮かびませんが、“社会的成功”という

のは、「財を成す」以外のことは、すべて大なり小なり「名

声を得る」ということで括ってしまえるようです。

 では“社会的成功”の他には何が有るでしょう。

 それは当然“個人的成功”ということになるはずです。

 つまり、「生活」・「遊び」で責任を果たしたり、良く楽

しんだり出来たということになるのでしょう。「良く生活

し」・「良く遊ぶ」と。

 それ以外は・・、思いつきません。おおまかに分けると、

「人生の価値」というのは、この位のカテゴリーしか無い様

です。

 “価値の種類”については確認できたので、それらが本当に

「人生の価値」たり得るのかを考えてみましょう。



 「財を成す」こと=人に羨ましがられます。羨ましがられ

るのが好きな人にとっては、価値のあることですね。 一方

で、「財を成す」為には搾取することが必要です(「少し

金に余裕がある」程度は別にしておきましょう)。それは、

搾取される側を損ない、非難されることですから、マイナス

の価値といえます

 「名声を得る」こと=人に褒められることです。褒められ

るのが好きな人にとっては、価値が有ることです。褒められ

れば、誰だって嬉しいので、誰にとっても価値のあることで

しょうね。一方で、「名声を得る」と必ず誰かに妬まれま

す。それは、“妬まれる側”・“妬む側” 双方の精神的健康に

害を成すものですから、マイナスの価値です。

 「良く生活する」こと=「良く~」ですから、良いんで

す。価値があります。また、「良く~」ですからマイナスの

価値はありません。

 「良く遊ぶ」こと=やはり「良く~」ですから、良いんで

す。マイナスの価値もありません。

 しかし、「良く生活する・良く遊ぶ」の「良く」とは、何

でしょう? 考えてみると「良く」という言葉には、“質”に

対して肯定的なだけではなく、「長い間」という“継続”を評

価する意味もあるので、「良く」=「安定して継続できる」

とするのが妥当だろうと思います。思いますので、そういう

事にしておきましょう。
 

 では、これらが「人生の価値たり得る」のでしょうか?

 “社会的成功”は、他人の評価がなければ成立しません。

「名声を得る」のは、当然他人からですから言うまでもない

ことです。「財を成す」のも、例え百億円の資産を築いたと

しても、誰も評価してくれなければ、虚しく感じることでし

ょう。どちらにしても、人が「凄いね!」と言ってくれて初

めて、満足が得られるはずです。ですから、他人に評価して

もらいたい人は、こちらの価値を求めるでしょう。

 一方、“個人的成功”は、当然「自己評価」になります。他

人は関係ない。関係があるとすれば、家族や友人  要する

に身内ですが、“身の内”ですから自己評価としておいてよい

でしょう。


 さて、“社会的成功”は「他人の評価」、“個人的成功”は

「自己評価」としたんですが、実は“社会的成功”も「他人の

評価を必要とする」だけで、結局「自己評価」です。「他人

の評価」が得られて初めて「自分で満足する」わけです。

 そして“個人的成功”は、「自分で評価して、自分で満足す

る」のです。どちらにしても、つまるところ〈自己満足〉で

す。

 当たり前といえば、こんな当たり前なこともない訳で、

「人生の価値」とは「人生に満足しているか?」ということ

であって、「自分が満足」ならそれで価値があるんですね。

(えらく持って廻って恐縮ですが、「人生の価値(意味)」

なんていう重たい話ですから、持って廻らずに〈一刀両断〉

にしてしまうと、かなり不愉快な思いにさせるでしょうから

ね)


 (当人から見た)「人生の価値(意味)」というのは、

「自己満足」です。

 「自己満足」ですから、「満足」できれば何でもいい。

 逆に、どんなに凄い事を成し遂げても、「満足」出来なけ

れば、「価値(意味)が無い」。


 例えば、ビル・ゲイツが街を歩いると、通りすがりの女性

が近付いて来て「この、守銭奴!」と罵ったとしましょう。

 彼はたぶん、一生その事を忘れることが出来ず、自分の

「人生の価値」を確信することが出来なくなるでしょ  

彼がサイコパスでなければ。(ビル・ゲイツが「守銭奴だ」

というわけではありませんよ。“自分が持ちすぎていること

に平気な人”だと思うだけです)

 例えば、アインシュタインが広島への原爆投下を知った

時、今まで自分が成し遂げて来た事が、すべて汚染された様

な気がしたことでしょう。

 例えば、何十年も誠実に働き、家族への気遣いも忘れなか

った夫が、高齢になったある日「貴方と結婚したのは、間違

いだった」と妻に言われたら? 自分の人生のほとんどが間

違いだったと感じるでしょう。


 何を言ってるかというと、わたしたちの「自己満足(自己

評価)」というものは、誰かのほんの一言で、何か一つの出

来事で、一瞬に壊れてしまいかねないものだということで

す。

 わたしたちが、常識的に「人生に於いて価値(意味)が有

る」と考えていることの多くは、とても頼りない、脆いもの

です。

 そうして見た時、人生に「価値(意味)」を求めること

が、〈価値(意味)〉の有ることなのか?


 《 人生に意味を求めることに、意味は無い 》


 私は、その様に思います。

 必要なのは、「価値(意味)」ではなく「満足」で

す。“肯定すること”です。

 世の中や、誰かの基準を引き合いに出して、「自分の人

生」を評価する必要はありません。もちろん、今、自分の人

生に満足出来ているのなら、それでいいんです。ただ、人と

人との間で認め合う様なこととは違うところに、“揺るぎな

い絶対の価値”があるのです。

 わたしたち一人一人は、この宇宙が始まってから終わるま

での間に、今のほんのひと時しか存在しないものです。

 本来、人間社会の基準で評価したり出来るようなものでは

無いのです。

 そりゃあ世の中には、“世の中の基準”というものがありま

すし、わたしたちはそれを無視して生きては行けません。

 でも、〈自分〉というものの〈意味〉を知ろうとする時、

“人間の約束事”でしかないもので、〈自分〉という空前絶後

の存在を量るのは、愚かな事だと思うのです。
 

 「自分」というものは、望まれたかどうかは知りません

が、「宇宙」が生んだものである事は間違いありません。

 「自分」を肯定していいんです。

 「宇宙」に肯定されたのです。

 それ以上の理由が要りますか?

 
 「価値がある」とか「無い」とか関係なく、「自分」が

〈自分〉を生きて行く。 

 世の中を上手く生きられなくても、負け組でも、それはそ

れ。

 たとえ極悪人であっても、それは社会の中での話で、社会

の評価に預ければいい。それはそれです。

 辛かったり、惨めだったり、わけがわからなかったり、も

しかしたら狂っていたりするかも知れません。早くに死んじ

ゃうかも知れません。でも、それはそれです。

 そういう、世の中の評価よりずっと前に、「自分がある」

のです。わたしたちお互いに。
 

 《 みんな、それぞれ「自分」がある

         それ以上の価値はないのです 》


 そして、

 「自分があること」

 そこに、わたしたちが欲しがるような「意味」は無いので

す。


  

0 件のコメント:

コメントを投稿