人は皆、それぞれに〈自分〉です。
自分として生まれてきます。当たり前すぎて、いちいちそ
んなこと考えたりしません。考えませんが、それに関わるよ
うなことは誰でも考えます。
「自分は、何者か?」ということです。
「『何者か?』って、自分じゃないか」
そんな、声が何処かから聞こえたりします。
でも、そんなことで簡単に納得する人はいません。
「自分は、何者か?」という問いに、納得のいく答
えは出て来ません。何故でしょう?
それは、その答えが「自分は、何者でもない」ということ
だからです。ですから、納得できません。
「何者か?」と問うているのに、答えが「何者でもない」
では、答えたことになりません。ですが、「自分は何者
か?」という問を発する人が、本当に求めている答えは、実
のところ「自分は何者でもない」という答えです。
なぜなら、もともと自分でその答えが返って来るのを知っ
ていて「自分は、何者か?」と問うているからです。
知っているのに、何故問うのでしょう?
答えが納得できないからですね。
「“答えた事にならない答え”しか出てこないのは、おかし
い」と思うからです。でも、その“納得できない答え”が正解
なので、何度問うてみても、モヤモヤが消えません。
そりゃそうですね、〈正解〉というものは、“納得できる
答え”のことですから、全く矛盾しています。
何故、正解なのに納得できないか?
答えが“言葉”の守備範囲の外だからです。
人間は「言葉にならない回答」を「回答」と見做せないと
いう、困った性分を持っています。
欧米人などは、「言葉に出来ないものは無い」ぐらいに思
っている様です。なにせ『はじめに言葉ありき』ですから。
それに較べると、日本人は「以心伝心」・「空気を読む」
国の人ですから、「言葉にならないことは色々ある」と誰し
も思っています。ですが、日本人であっても答えを求める時
には、“言葉”としての答えを望みます。(「二十万円貸して
くれ」と言ったら、黙って二十万円差し出された。といった
場合もありますが)
何故、“言葉”としての答えを求めるのか?
《 人には“ストーリー”が必要であり、言葉に出来ないこ
とは“ストーリー”に組み込めない 》からです。
人は誰でも、自分のストーリーを持っています。
他人にもストーリーを設定します。「A さんはこういう
人、B さんはこういう人、C さんは・・・」といった具合
に。
世の中にもストーリーを付けます。「日本はこんな国。ア
メリカはこんな国・・。自民党は・・、民進党は・・。イス
ラム教徒は・・、戦国時代は・・、白亜紀は・・、60‘のア
メリカのミュージックシーンは・・、AKBは・・・・・」
きりがありません。
世の中のキャラクターの一人(出演者=本人からすれば主
役)である自分にとって、世の中のストーリーがあやふやで
は、自分をどう演じればいいのか分かりません。
配役・設定・舞台装置・小道具がどんなものかを知らなく
ては、演じられません。ですが、恐ろしいことに台本は無い
のです。しかも、舞台の初めからそこに立っていたわけでは
ありません。“気が付いたら”舞台の上に居たのです。
仕方なく、わたしたちは周りを見廻して、ストーリーを推
測し(ストーリーをでっち上げて!)、おっかなびっくりア
ドリブの演技を続けて行きます。
まわりと協力し合い、それなりに舞台を進行させてはいま
すが、時に、ふと我に返ります。
「そもそも、自分は何故この舞台に居るのだ? 自分の役
柄は何だ?」と。
ところが、答えは「何者でもない」。
・・・独りで黙り込むしかありません。
心許なさに耐えられず、「宗教」や「イデオロギー」や
「占い」などの“脚本”に頼り始める人も大勢いますね。
「こう演じなさい」と確固たる指示を与えてくれますから。
(まわりは、たまったもんじゃないですね。勝手に台本を持
ち込んで、まわりのストーリーと無関係な芝居を始めて、更
には、まわりにも自分の台本に従うように強要してきますも
のね)
ことほど左様に、わたしたちは“ストーリー”を必要とし、
その中に落ち着く為には、「自分」というものを“言葉”で位
置づけたいのです。しかし、必ず挫折します。
「自分は何者か?」と問うても、その答えは“言葉”になり
ません。答えは“言葉”の外にあります。“言葉”になりません
から、「自分」をストーリーの中に位置づける役には立ちま
せん。
「この心許なさ、寄る辺の無さをどうしたらいいのだ・・」
その深い焦燥から逃れる為、また違うストーリーを求める
ということが繰り返されます。それは、恋愛だったり結婚だ
ったり、ビジネスやスポーツや趣味だつたり、家族・友人だ
ったりと、ありとあらゆるものに・・・。
(「六道に輪廻する」とは、そういうことでしょう)
どうすればいいのでしょう?
「自分は何者か?」
“納得できる答え”は無いのでしょうか?
答えが“言葉”の中に無いのなら、“言葉”の外を探すしかあ
りません。
「“言葉”の外の自分」に訊いてみるしかないでしょう。
“言葉”の外に「自分」が在るのは確かです。
「“言葉”にならない自分」が在ります。
その「自分」に訊いてみる。ただし、「“言葉”の外」です
から、“言葉”で訊くことは出来ません。むしろ“言葉”は邪魔
になります。では、どうやって?
“言葉”から離れることですね。
よく「無になる」とか言いますけど、そんなの無理です。
“言葉”は止まることなく湧いてきます。(言葉と共に映像や
さまざまな感覚も湧いてきます)「無」になんかなれません
から、“言葉”が湧いて来ても「言葉は言葉にすぎない」と知
っておくことです。“言葉”に力を持たせないようにすること
です。
すると、どうなるか?
答えは聞こえて来たりしません。
答えは〈実際〉として、そこに在ります。
言葉の外に在ります。
“言葉”が力を削がれると、〈実際〉が見えて来ます。
そこに〈自分〉が在ります。〈自分〉を一瞥することが出
来ます。〈自分〉の全貌は見えないとしても・・・。
そして、“ストーリー”の外にも「自分」が在ることに気付
きます。むしろ、それが「本来の自分」だと。
「自分は何者か?」
「自分は自分です」
ただし、言葉に出来ない「自分」です。
“言葉”(アタマ)に権限を与え過ぎないことです。
“ストーリー”は、「余興」だと考えるべきです。
人生は“オマケ”です。
さて、あなたは何者でしょうか?
以前、TVで舞踏家の 麿 赤児 という方が「言葉は病気」
だと仰っていました。ホントにその通りだと思います。
《 “言葉”は、人間の持病 》ですね。
上手く付き合うしかありません。
入れ込まない様に、たしなむ程度に。
“言葉”に〈自分〉を消されない様に。
どうぞ“御自愛”下さい。
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