前に「安心・安全原理主義」という話を書きました。
その時は、食べ物などについての「安心・安全」について
書いたけれど、今回は精神面での「安心・安全」について書
いてみましょう。
先日、SNSで自殺志願者らを呼び出して、9人も殺した事
件が明るみに出て、連日報道されていますね。
日本の自殺者は、長い間年間 3万人以上という状態が続い
ていましたが、ここ数年は少し減少気味で 2.5万人ぐらいの
様です。それでも、日本人の年間死亡者数は 100万人ぐら
いですから、死亡者の2.5%が自殺ということです。それだ
けの人が自ら命を絶つほど、精神的に追い詰められてしまう
状況なわけですが、残りの97.5%の中にも、本当は自殺だ
けれど、自殺として扱われていない場合や、自殺ではないが
精神的ストレスから病気になって死んでしまう人も、当然な
がら居るでしょう。その数は数字にならないので分かりませ
んが、それらを合わせると精神的な問題によって死ぬ人は、
20%ぐらいになるんじゃないでしょうか(私の勝手な推測
です)。
日本における自殺者の多さは、同調圧力の強さ故だろうと
思います。
人はさまざまです。平均的なパーソナリティの人は、平均
的な人数に留まります。当然のことながら、そこから外れる
人が一定数存在します。と言うより、平均を基準に取る事
が、そこから外れる人を作りだします。
また、平均的な人であっても、すべての面で平均的な人は
居ませんから、ある面では基準外になります。
いつの時代でも、どんな社会にでもあることだとは思いま
すが、今の日本は、「平均的であること」「平均より少しレ
ベルが高いこと」を、非常に強く個人に求める社会だと思い
ます。仕事の上でも、個人の在り方でも、基準から外れるこ
とやミスに対して、恐ろしく厳しい。
あらゆるものに対して、強い均質化の圧力が掛かってい
る。さらに、競争社会であり、常にあらゆることで比較し合
うので、付加価値を持つ事も強く求められる。
平均的であれば付加価値は無い。
付加価値が高ければ平均から外れる。
平均的なだけでは、付加価値を求める者からプレッシャー
が掛かるし、付加価値が高ければ、平均的な者から嫉まれた
り、要求レベルが上がって、プレッシャーが増える。
どちらにしても、圧力は掛かる。
生きている上では、他者からの圧力は必ずあるけれど、現
代はスピードを要求されるので、その圧力が圧縮され、さら
に強くなっているのでしょう。
圧力をまともに受け止めてしまう者は潰されてしまい、圧
力を他に転嫁する者は自己中心的になり、圧力を跳ね返そう
とする者は攻撃的になる。
“弱虫” と “卑怯者” と “人でなし” ということです。
(こんな言い方ヒド過ぎますか?)
なんだって、人間はこうなっちゃうんでしょうか?
平均的であることを望むのは、「安心・安全」を求める為
でしょう。極端な事は、すぐさま問題になりますからね。
一般道を15km や 90kmというスピードで走る車がいた
ら、危険です。平均的なスピードを求められます。
平均的でないものは、社会に不安を与えます。
不安を与えるものは、非難され、排除の対象となります。
するかも知れませんね
標準から外れたものは、不安をもたらす危険な存在であ
り、矯正されるべきものである。矯正できないのであれば、
排除されるべき問題である。
社会の標準から外れた者(法を犯したもの)は、少年院や
刑務所に送られ矯正措置が施される。
矯正の見込みがまったく立たない者に対しては、「死刑」
という絶対的な “排除” も有り得る。
法律を犯した者に対しては、その様な措置が取られるのも
仕方がない。しかし、それだけではなく、どんな集団にも
「不文律」が存在して、それは大きな力を持っている。今の
日本にも「不文律」は存在しているが、その中には “文” に
なるどころか、“意識” にも上らない「法律」もある。それ
が、「安心・安全」を執拗に求める、《標準維持法》とでも
呼ぶべき社会の圧力です。
有名人のプライベートな問題を、極悪非道な行いであるか
の様に叩きのめし、ちょっと変わったところがあると言うだ
けで学校でいじめられ、少しばかり仕事が遅いだけでパワハ
ラを受け、鬱病や自殺に追い込まれる。
今の日本社会の根底に広く根強く横たわっていて、ありと
あらゆる所で深刻な問題をひきおこしているもの。それは、
「安心・安全」に対する、異常な執着心。
“標準” から外れることを許さない、恐ろしいほどの監視
と迫害。
「安心・安全」と “標準” を守ろうとする圧力が、標準以
上の「恐怖と不安」を生んでいると断言していいと思う。
今、日本で起きている多くの事件や事故や問題を引き起こ
している人間の多くは、その「恐怖と不安」からパニックを
起こした人々だろう。
今日も到る所で、誰からの弁護も受けることもなく、無意
識のまま《標準維持法》による裁きが誰かに下され、“正し
い人々” や “善意の人々” が、自分の気が済む様に刑を執行
する。
「裁いているのは自分の方だから、自分は “裁かれる側”
ではない」
そう自分に言い聞かせて自分を安心させる為に、ほんの小
さな “違い” や “失敗” を見つけては、他者を裁く。
「アイツは異常(おか)しい」と。
何故、それほど安心したい?
“標準” であることが、それほど「安心・安全」だと言え
るのか?
「安心・安全」を求める思いの裏には恐怖が隠れている。
その恐怖が強ければ強い程、「安心・安全」を求める思いも
強くなる。いったい何をそんなに怖れている?
どんな動物も、恐怖を抱くとパニックを起こしたり、攻撃
的になる。「安心・安全」という言葉、特に「安心」という
言葉は、最早「正義」と同義語だ。
「正義」の名の下に、数え切れぬ抑圧・弾圧が行われ、空
恐ろしい暴力が正当化されて来た様に、「安心」という言葉
を隠れ蓑に、その他大勢が個人や集団を裁き、排除する。
ナチスはヒトラーに洗脳されたのでは無い。
オウム真理教信者も浅原彰晃に洗脳されたのでは無い。
ヒトラーも浅原彰晃も、意識下の恐怖に怯えるその他大勢
の “依り代” となっただけだ。(ヒトラーも浅原もバカだと
いう事は間違いないが)
「安心安全原理主義」が猖獗を極めるのは、まだまだこれ
からなんだろう。
「北朝鮮のミサイルが恐い、戦争にならないか心配だ!」
と本気で思ってる人の、その「不安」がある一線を越えた
時、その口から「北朝鮮を許すな!北朝鮮を倒せ!」と戦争
する事を求める言葉が飛び出しても、私は驚かない。
《 安心・安全・普通・標準・平等・義務・理想・愛
そんな言葉を纏って
差別や暴力は忍び寄ることがある 》
(と、こんな事を言って不安を煽るのは、逆効果なのか
もしれないけどね)
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