この頃グッと冷え込んできて、近所の公園のソメイヨシノ
の紅葉も深みを増してきました。
ソメイヨシノの紅葉は、黄からオレンジ、赤、赤紫と色を
変え、それらが混ざり合うと、ゴブラン織りの様なイメージ
で(私個人の感想です)、毎年その美しい紅葉を楽しみにし
ています。
そんな、身近にある紅葉ですが、どれだけの人がそれに目
を止めるかというと・・、春に花を見る人の 1 %もいない
んじゃないかと思います。でも、ソメイヨシノの紅葉に目を
止めない人も、紅葉の名所に行ったりすると「綺麗だなぁ」
と声を上げるのでしょうね。
私の見立てでは、世の中の八割程度の人は、普段は感動し
ない様に、感受性にフタをしている様な気がします。
むやみに感動してしまわない様に、「感動してよい時間」
や「感動してよい事柄」というものを無意識に設定して、自
分に都合の悪い事や、都合の悪いタイミングの感動をしない
様にしている様です。
「そんなことがあるのか?」
と、思われるかも知れません。
でも、「そんなことがある」のです。
「感動する」というのは、人に精神的な豊かさをもたらす
と誰もが思っているはずです。そして、それは間違いではな
いでしょう。ですが “感動” というのは、“感” が “動く” こ
とですから、大なり小なり「心が揺さぶられる」ことです。
「心が揺さぶられる」と、自分の価値感が変化してしまっ
たり、壊れたりして、今現在の自分の安定を脅かす可能性が
あります。だから、普段は感動しない様に感受性にフタをし
て、自分を守っているのだと思います。
みんなが出かけて行って、みんなが感動する事なら、自分
も感動してしまっても、社会的に不適応を起こすリスクが少
ない。だから、人気スポットや話題の所に出かけて、「良か
ったー!」「キレイだったー!」と声を上げ、SNSにアップ
して、共有する。共有すれば安全です。社会からはみ出さな
いですみます。「共有する」という行為は、社会に対するア
ンカーリング(繋ぎ止め)ですものね。
人は、そうそう感動するものではない様です。
いえ、感動する事が嫌なのです。
外界からの働き掛けに揺さぶられ、自身のコントロールを
失う事が怖いのです。
多くの場合、一見感動している様に見えても、実は自分の
許容範囲の事柄だけを取り込んで、自分に不都合が無い感動
を
ょう。
こういう事を思うようになったのは、昔、社員旅行の際
に、行く先々で、ちょっと良い景色を見ると「わーっ!キレ
イ!」「わーーっ!キレイ!」と、やたらに感動するオバサ
ンがいて、その姿を見ている内に「この人、感動を避けてる
んじゃないのかな?」と思ったのがキッカケでした。
人間って、本当に感動すると、声を失ってしまうもんだと
思うんです。衝撃を受けるんですね。
その事は裏を返すと、感動の言葉を口にする時には、たい
して感動していないか、言葉にすることで感動の衝撃をまと
もに受けない様にしているんだろうと思うわけです。
なぜなら、衝撃が自分の価値観を変えてしまい、今までと
違う生き方に進ませるという面倒を引き起こすかも知れない
からです。
だから、ほんの少しのことで「キレイ!」とか「カワイ
イ!」とか「スゴイ!」とか口走る人は、ほんの少しの感動
さえ怖れている可能性があるわけです。それと同時に、そう
いう人は社会的に認知されやすい感動を、「自分も感動する
んだ」と盛んに表明することで、「自分は社会から外れてい
ない」と承認してもらい、社会の中で安定を保とうとしてい
るんでしょう。
しかし、それは “凡庸” な人間で有り続け、精神的な豊か
さを拒み続ける態度だろうと思います。確かに、表面的な安
定はもたらしてくれるかも知れませんが・・・。
本物の “感動” というものは、自分(エゴ)の中に無いも
のを外に見つけた時にもたらされる衝撃です。知っているも
のの中には有りません。(改めて発見するという事はありま
すが)
“感動” を拒むという事は、自分に新たな物を加えること
を拒み、自分の中の古い物を守り続けるという、成長を拒む
態度です。
息を呑む様な感動や、見慣れたはずの物の中に新たな発見
をする感動を排除し続ければ、精神は停滞したまま、肉体だ
けが衰えてゆき、勝手に変わってゆく肉体を嘆いたり、恨ん
だりする事になるでしょう。
《 言葉を蹴散らせない様なものは、感動では無い 》
「元気をもらった!」とか「勇気をもらった!」とか、
誰でも使う、その時代の常套句で表わされる「感動」って、
お手軽過ぎて信用しませんね。
あの手のセリフを聴く度に、
「ホントに感動した事あるのかね?」
といつも思ってしまうのです
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