2017年11月30日木曜日

「ライフサイド」に立って


 「アタマが悪い」と言い続け、“世の中” を基本的には否

定し、〈エゴ〉の仕事は「否定する事」などと書き連ねて来

たのだけれど、「“世の中” を否定しているのは、私の〈エ

ゴ〉に過ぎないんだろうか?」という疑問が湧いてきてしま

いました。


 これはいけません。

 大問題です。

 どんな結論が出るかは分からないけれど、そのままにして

おくわけにはいきません。

 今日は、それを考えてみましょう。


 私が “世の中” を否定するのは、私の〈エゴ〉なのか?


 “世の中” はわたしたち個人の中に入り込み、わたしたち

の考え・行動に決定的な影響を与えていますが、その影響の

内容は、個人の欲圧、価値観の誘導、個人のエネルギーの搾

取であって、個人の本質的な幸福の為にはならない事で、ほ

ぼ占められています。

 特に、現代にあっては、個人の幸福に繋がる様なものが、

“世の中” から提出される事はありません。

  個人からの影響が “世の中” を通して、別の個人に伝わる

ことはありますが(テレビや本やネットや)、それは “世の

中” を通して来たというだけで、個人から個人への影響で

す。“世の中” が個人の為に、何かをすることはありませ

ん。“世の中” に〈情〉は有りませんから。

 “世の中” は、“世の中” を再生産するシステムでしかあり

ません。“世の中” にとって、個人は “世の中” を維持する為

の道具でしかないのです。

 “世の中” は、個人の幸福など眼中にありません。


 何故、私が “世の中” を否定するのか?

 それは、私の〈エゴ〉ではないのか?


 以前のブログで、「エゴサイド」「ライフサイド」という

言葉を使いました。

 「エゴサイド」とは “世の中” 側、「ライフサイド」とは 

”個人・自然” 側ということなんですが、私が “世の中” を否

定するのは「ライフサイド」の側からです。

 わたしたちは、あまりにも「エゴサイド」側に立ち過ぎて

いて、その為に多くの問題と苦しみを生み出しているので、

「『ライフサイド』に戻るべきだ」

「『ライフサイド』から、自分と世界を見なければならな

い」

 と言いたいのです。

 それは、“世の中(エゴ)” の否定という形を取ります

が、実際は「否定」というより、「エゴサイド」から「ライ

フサイド」に立ち位置を移すということです。「エゴサイ

ド」との関係を、制限することです。

 だから、《世の中なんか、たしなむ程度にしておきなさ

い》ということになるわけです。


 「エゴサイド」を否定しきれてしまえばいいのでしょう

が、そうすると当然ながら “世の中” は崩壊します。

 そうなると、社会的な生き物である人間は生きられませ

ん。“世の中”・「エゴサイド」は必要悪です。

 頭の痛い話ですが、“世の中” を受け入れつつ、上手に付

き合う智慧を持つしかないのでしょう。


 “世の中” ・「エゴサイド」の活動原理は「否定」です。

 わたしたちが「エゴサイド」に立って、さまざまな事に対

して「否定」という意識を持つほどに、“世の中”は、〈エ

ゴ〉は、勢いを増して個人・自然という「ライフサイド」を

押しやり、エネルギーを奪います。
 

 個人として、本来あるべき幸福を望むのなら、「否定」す

ることを止める必要があります。

 「否定」しない時、わたしたちは自然に「ライフサイド」

の側にシフトしています。
 

 〈エゴ〉の活動を肯定する事は出来ませんが、〈エゴ〉の

存在そのものは否定できません。実際に在るのですから。

 「〈エゴ〉さえも、その存在自体は肯定できる」

という所まで行ければ、わたしたちは大きな安らぎを手にす

ることが出来るのでしょうが・・・。


 (すこし、「言い訳がましい」というか「言い逃れ」の

  ように聞こえますが、「否定」ではなく、「関係を制

  限する」という事だそうです・・・。後は、知らん顔

  ということで・・・




0 件のコメント:

コメントを投稿