女子高生が二人、校舎から飛び降りて死んだらしい。心中
のようだ。
自殺した事について批判する気は無い。それが彼女たちの
「必然」だったのだから、仕方がないことだ。けれど、自殺
するということは、しあわせには生きていなかったという証
しなので、やはり自殺するという境遇は可哀相だね。
誰も、自ら命を絶つつもりで生まれて来はしない。
誰でも生きたい。
けれど、皮肉な事に、その「生きたい」という想いが、時
として人を自殺へと追い詰めてしまう。
《自殺する人は、自殺するしか生きる道が無かった人》だ
から。
わたしたちが本来持っている、〈生物としての命〉は、決
して自ら命を絶つという方向へは向かわない。死のうとする
のは「社会的な命」である〈エゴ〉です。
その〈エゴ〉(個人のストーリー、又は自己イメージ)
が、社会の中で、他の〈エゴ〉とのせめぎ合いから居場所を
失ってしまい、“生きる為に社会の外へ逃れる行為” が自殺
ですから、その人は
い」から命を絶つのです。
死ななくても、生きているこの世界に違う場所はあるので
すが、観念の塊である〈エゴ〉には、それが分からない。
「自分がこの世で生きられる場所は、ここしかない」と思い
込んでいる。だから「わたしが生きる為には、ここを出るし
かない・・・」と考えて、この世界の外へ出る・・・。
“自分のストーリー” が強固である人ほど、その人からす
れば “社会のストーリー” も強固に見える。
「自分は、この自分しかいない」
「社会は、この社会しかない」
そう強く固まっている〈エゴ〉にとっては、死ぬしか “違
う世界” へ行く方法がない。だから「生きる為に、死ぬ」。
いや「死なない手段として、違う世界へ行くために自殺す
る」という方が適切でしょう。
今回、心中した子たちが、そんな強固な〈エゴ〉
イストということではないですよ
立ちや、心中するに至る直近の経緯などは知る由も無いし、
知っていたところで、私に何が出来たわけでもない。ただ、
そのことは「不運だなぁ・・」と思うだけです。何かが少し
違っていれば、その人生は気楽で楽しいものになったかも知
れない・・。
わたしたちの〈エゴ〉、つまり自我は社会によって作られ
ますが、その過程で「社会の絶対性」といった感覚を持たさ
れます。“強固な〈エゴ〉” とは、「社会の絶対性」とそれ
に対応する「自分の絶対性」を “強固” に感じているという
ことです。
「死にたい」と思っている人に、その個人の事情に対して
働きかけるのは、有効なこともあるけれど、難しいし、ケー
スバイケースだから、とても手が回らない。
それよりも、自殺を減らしたいのであれば、すべての子供
に対して、思春期の頃に「社会は絶対的なものではないんだ
よ」という意識を持たせることの方が重要だと思う。
「社会の在り方は、いろいろ有るんだ」
「自分の在り方も、いろんなのが有り得るんだ」
「社会の価値は、ひとつの約束事なんだ」
そういう気付きを、誰もが持っている方がいい。けれど、
世の中は逆です。
「社会の中で、価値のある人間になれ」という教育をす
る。社会の中で価値が有ると認めた人間を賞賛し、持ち上
げ、「社会の絶対性」を強化する。
これじゃあ、「死にたい」人がいなくなるわけが無い。社
会の約束事からはみ出た人に、立つ瀬が無い・・・。
そりゃあね、社会の方も必死ですよ。
「社会なんて、単なる約束事だ」なんてみんなが思うよう
になったら、社会の方の命が無い。社会がむちゃくちゃにな
る・・。
でもね、ほんとに「社会がむちゃくちゃになる」でしょう
か?
私はそうは思いません。縛りがゆるくなるだけで、社会は
成り立つでしょうし、その “縛りのゆるい社会” の方が、人
は生きやすいだろうと思うのです。
「世の中はこうでなければ!」
「自分はこうでなければ!」
そんな刷り込みから逃れて、「まぁ、この程度で手を打ち
ましょうよ」、「ムキになるなよ・・」、そんなおおらかさ
を人々が誠実に持てるのなら、それは良い社会だろうと思う
のです。
心中した女の子たちに、
「だいたいでいいんだよ。世の中も、他の人たちも、“何
が正しいか” なんてほんとは知らないんだからね」
そんな想いを持てる出会いが有ったのなら、彼女たちは自
殺しなくてもよかっただろうと思う。
〈生物としての命〉ではなく、「社会的な命」である〈エ
ゴ〉の方を死なせるという考えも、持てただろうから・・。
もちろん、彼女たちの “自殺も含めた人生” を否定する気
も、批判する気も無い。
ただ、ちょっと残念だったね。しんどかったね。そう思
う。
私は、後は黙って手を合わせるだけ・・・。
しんどかったんだろうなぁ・・・。
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