《ひとりの人を愛する心は
どんな人をも憎むことができません》
これが誰の名言だったのか忘れてしまいましたが、ずいぶ
ん昔
この言葉を逆に考えると、「ひとりの人でも憎んでいる人
は、誰ひとり真に愛していません」ということになるんです
が、そうなると世の中のほとんどの人は、誰ひとりも真に愛
していないという事になります。
この言葉に出会った事は、私の恋愛観や人間関係に対する
考え方に、大きな影響を与えましたね。影響を与えられたと
いうより、大きな制約が出来たというべきかも知れません。
「気安く、〈愛〉なんて言葉を使ったり、愛したつもりに
なったりするなよ」というわけです。
この言葉を正しいとすると、常識的な世の中の見方から外
れてしまいます。
例えば、子供を殺された親が、犯人を「憎む」とすれば、
その親は我が子を愛していない事になってしまうからです。
とんでもない話ですね。
とうてい、世間では受け入れられないでしょう。
また、イスラム原理主義者やキリスト教原理主義者が、互
いに相手を「憎んでいる」としたら、彼らの自身の宗教に対
する「愛」(信仰)は偽物だと見做すことが出来ます。
・・・とてもじゃないが公の場では口にしにくい話です。
世の中には、「“憎しみ” の強さは、 “愛” の強さに比例す
る」といった見方がありますが、それは違うと・・。
正しくは、「“憎しみ” の強さは、“エゴ” の強さに比例す
る」ということです。
そして、「“憎しみ” を持つ者は、“愛” を持っていない」
ということです。
ほんとに、とんでもないことを書いてますが、最初の言葉
を言ったのは、私じゃないですからね。(ムダな言い逃れだ
な・・)
おかげで私自身、若い時から “気楽な恋愛” が出来ずに来
ました。それは気の重い事でしたが、同時に幸福な事でもあ
りましたけどね。
前にも話題にした、浄土真宗のお坊さんの藤原正遠さんの
著作の中に、次の様なエピソードがあります。
女子大生が誘拐され、殺されるという事件があって、その
父親の話が報道された際に、その方はこう仰った「その男が
ほんとうに憎い。先方にも訳があったであろうが、ほんとう
に憎い。娘がかわいそうである」。
正遠さんは、この方の《「先方にも訳があったであろう
が」という言葉に胸を打たれた》と書いておられる。
自分の娘を殺されて、普通「先方にも訳があっただろう
が・・」とは言えませんよ。
この方の中には「ひとは皆不完全であり、いつ罪を犯すか
分からない」という深い認識があり、娘を殺した男に対する
憎しみの中にありながら、罪を犯す因縁にあった男に対する
慈悲がある。
この方には「この男を心底憎んでしまえば、娘に対する
“愛” を汚してしまう。そうなれば、娘がさらに可哀相だ」
という想いがあったのでしょう。もちろん、はっきりとそう
考えていたわけではないでしょうが・・。
愛するものを損なわれて、その損なった者を憎むことは、
とても人間的なことに思えますが、人間以外の動物も、自分
の縄張りや子供を奪われそうになると、とても怒りますか
ら、人間的と言うよりは動物的なのでしょう。
冒頭に書いた言葉が発せられたのは、「人として、〈愛〉
というものを動物のレベルに止めて置くべきではない」とい
う想いからでしょうね。
ここで言われる〈愛〉は、「神の愛」や「仏の慈悲」とい
ったものであって、普通ひとが口にする “愛” ではない。
普通ひとが口にする “愛” は、仏教で言うところの「渇
愛」であって、「執着」なので、それに気付き、それに振り
回されない様にしなければ、しあわせには生きられない。
だから、この名言を言った人は、一言釘を刺しておきたか
ったのでしょう。
《ひとりの人を愛する心は
どんな人をも憎むことができません》
けれど、仏様にでもならなければ、《どんな人をも憎ま
ず》に生きることなど出来ませんね・・・。
でも、《出来るだけ憎まず》に生きることで、自分の中の
〈愛〉がその分豊かになります。それは、しあわせな瞬間が
増えてゆくことでもあるだろうと想うのです。
〈愛〉というのは、何かロマンティックなものや、高尚な
感情といったものではなくて、“肯定する姿勢(在り方)”
といったもので、人に本来在るものです。だから、自分の中
に〈愛〉が豊かになるほど、世界が肯定的に見えてくること
になります。
世界が肯定的に見えれば見える程、人はしあわせですよ
ね?
「憎まない」ということは、自分の中に〈愛〉(しあわ
せ)が占めるスペースを広げてゆくことなんですね。
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