わたしたちは、日々さまざまな物を手に入れ、数え切れな
い程の物に囲まれて暮らしている。例え自分が持っていなく
ても、暮らしの中で多くの物に接して生きている。
食べ物、生活必需品、娯楽に関わるもの・・・、いろんな
物が生産され、暮らしの中へ送り届けられて来る。それぞれ
にそれぞれの価値を持つ物として。
しかし、“物” には本来価値は無い。
価値は、その “物” に関わる “事” の方に有る。
名のある陶工の作った茶碗に、百万円の値が付く。その値
段は、「名のある陶工が作った」という、 “事” に対しての
価値であって、まったく同じものを名も無い陶工が作った
ら、百分の一の値段だろう。しかし、その百分の一の値段さ
え、「陶工が作った」という “事” に対してのものであっ
て、茶碗その “物” の価値では無い。
人は、“事” を評価せずにはいられない。
“事” の評価に人生さえ賭ける。いや、“事” の評価に費や
されるのが、わたしたちの人生というものかも知れない。
“自分が為す事の評価”
“他人が為す事の評価”
その二つの “事” の評価に揺さぶられ、圧迫され、追い立
てられながら生きる。その人生そのものも、また “事” であ
って、その人生が周りにも自分自身にも影響を与えて、お互
いに揺さぶられ合いながら、やがて一生を終える。
“事” だけが人の世界をうごめいて、その中で人は何をし
ているのか・・・。
しょせん人間は、“事” を無視して生きられないし、自分
自身が “事” であるのだから、どんな “事” を「良し」とし
て、どんな “事” を「自分という “事” 」とするかが、人の
幸福に大きな影響を与える。(当たり前の事を、変な言い回
しで言っているだけですが)
とはいうものの、“事” とは《変化し続ける万物の一瞬》
でしかないもので、どんどん次の “事” に取って代わられて
消えてゆく。
“事” が “事” を変え、「変えた」という “事” が新しい
“事” として、次の “事” を生んで行く・・・。
何か、「ある “事”」に心を留めて、そこに安らぎや喜び
を見い出そうとするのは、ミルクの入ったコップを手にし
て、小舟の上でこぼさないようにする様なものだろう。
日大のアメフトの問題に触れるのはこれで最後にするけ
ど、あの選手は「試合に出る事」という価値に囚われてしま
って、「人としてフェアである事」という価値を見失ってし
まった。その事が、あの騒動の根本だろう。
アメリカンフットボールという “事” 。
試合に出るという “事” 。
それに自身の生活を費やしてきたという “事” 。
どれも “事” に過ぎないという視点を持てれば、あんな事
は仕出かさなかっただろう。
彼が居る、あの閉鎖された人間の集団自体が、ある “事”
にがんじがらめになっている澱んだ世界で、その中でその
“事” に動かされてしまったのが、あの一件・・。
「フェアである」という意味の本質は、〈 “事” に揺さぶ
られない〉事ではないだろうか。
“フェア” を日本語にするなら、“公平” ということにする
のが最も適しているだろうが、「公に平ら」だから、「エゴ
を離れて安定している」と言っていい。
なんらかの “事”
が多いが
でなくなる。いや、フェアでないから自身の安定を失うの
だ。
件の彼は最も大事なものを見失ったが、同じ様な事は世の
中にいくらでもある。左遷されたくなかったら違法な事や倫
理的に許されない事をしろと、上司や経営者に言われてやっ
てしまうサラリーマンなんぞ、ざらにいるだろう。みんな
“事” に執着して自分を見失う。
「自分も含めて、すべては “事” に過ぎない」と、肝に銘
じておく方が良い。
大事な “事” は、“自分が自分として安定している事” 。
それを「しあわせ」と言うのだ。
「誕生」という “事” と、いずれ来る「死」という “事”
の間で、いったいどんな “事” が「自分が自分として在る
事」を超えるだろうか?
わたしたちが後生大事に思っている事が、他人から見れば
「そんな事」と一笑に付されてしまったりする。
自分が命を賭けている “事” も、その程度の事なのだ。
“事” よりも大事なことが有る。
“事” 以前に、「自分が在る」ということ。
「“物” には価値が無い」と初めに書いたけれど、実のと
ころ “物” には「在る」という一点で、絶対的な価値があ
る。
どんな価値判断も無意味な、「在る」という絶対性が与え
られていて、それは “物” である私たちひとりひとりにもあ
る。その事に留まるように自分を促すことが、わたしたちの
為すべき “こと” だろうと思うのだが・・・。
さて、日大の彼には、そんな自分であるようなこれからが
待っているのだろうか? そうあって欲しいけどね。若いん
だから。
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