わたしたちは、他の生き物を食べて生きている。
もしも、他の生き物を食べなかったらどうなるか?
わたしたちは植物の生産したものを食べて生きているが、
それを食べなければ、当然植物は増えてゆくことになる。ま
た、植物を病気にしたり腐らせたりする菌類も、植物を食べ
ているわけなので、菌類も植物を食べないとなると、植物は
病気になって枯れたりしないし、風などの物理的な原因で折
れて枯れても、それを食べる者はいないので、枯れた植物体
は残ってゆく。
その状況が続いて行くと、植物は炭素などの構成要素とな
る物質が無くなるまで増え続け、そしてその活動はストップ
する。活動し続けようにも、もう利用する物質が無いのだか
ら。
また、動物の方はといえば、自分で身体を生産したり、身
体の外にあるエネルギーを直接利用する事は出来ないので、
やはりその活動はストップする。
地球は、生命活動の止まった世界・・、つまり「死の星」
となる。
生命活動は、ある個体が別の個体を食べるという、“個体
の死” が無ければ続かない。個体が死ななければ、すべてが
死んでしまう・・・。
“個体の死” は生命活動に不可欠であり、「生」と「死」
は生命のそれぞれの側面であって、ひとつのものです。
わたしたちのアタマが「“個体” 意識」を持たなければ、
「死」というものは、自然に生命の中に溶け込んでいるもの
でしょう。
「死」も含めた上での〈生命〉であるということを、人間
は素直に受け止めた方が良い。
「自分が死ぬ? そんなの困る!」
まぁ、そりゃそうです。でも、みんな死ななかったら、み
んな死ぬのです。自分も含めた、すべての生命がストップす
ることになる。それじゃぁ、なんの為に「死なないでいた」
のか分からない。
《人は通常、小さな罠を怖れて大きな罠に逃げ込む》
そんな名言がありました。それは、こんな風に言い変えら
れるのかも知れません。
《人は通常、小さな利益にこだわって大きな利益を逃す》
“個体の死” を厭うばかりに、“全体の生” の中に生きる喜
びを逃しているのが、我々人間のようです。
死に代わり、生き代わりしながら、生命全体の流れの中に
身をゆだねることで、命そのものの喜びを得られるのに・・
・・。
人類の偉大な先達たちは、そのことを伝えて来た。
けれど、それを本当に受け取った者はまだまだ少ない。
《死んで生きよ(死せよ、成れよ)》とゲーテは言った。
《放てば手に満てり》と道元は言った。
《南無阿弥陀仏》とは、生命の中に自分を投げ入れてしま
うのであるし、達磨は「あなたは何者か?」と訊かれて、
「知らんな」と答えた。
《生きようともがけばもがくほど、乏しくしか生きられな
いのだ》これは、アメリカのスピリチュアリスト、バーノ
ン・ハワードの言葉。
「“自分” が生きよう」とすることが、真に生きることを
邪魔する。「アタマが生きよう」とすることが、命が生きる
ことの妨げになる。
“自分” は死にたくない。
“アタマ” は死ぬのが恐い。
そうやって必然から逃れようともがくことで、生の流れが
乱れてしまう・・・。
自分は死んでよい。
自分は死なせてしまう。
それこそが、生きる秘訣だ。
先達たちは、そう教える。
《 わたしたちの生は、死ななければ死んでしまう 》
生きることは、生きる喜びとは、「自分を守ろうとして
様々なものにしがみ付くこと」を忘れてしまう 、そんな “お
おらかさ” にあるんではないだろうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿