2018年11月11日日曜日

“安らぎ” と “苦しみ” の場所


 毎回、口から出まかせを書いている。

 書いている事に責任は持てないし、そもそも責任が無い。


 人それぞれの思惑とは無関係に、日々無数の出来事が起こ

り、誰もが毎日の様に、それをどう受け止めるか苦心するこ

とに出会う

 その様な出来事が起こることは、誰にも責任など無い。

 たとえ、誰かがしでかしたことであっても、起こった事は

元に戻せない。その誰かの責任を追及したところで、時間を

戻せるわけでもない。その出来事によって変わった状況を引

き受けるしかない。

 ケチをつけて、文句を言って、グチっているうちに “今” 

は消えて行く・・・。“今” は浪費されて行く・・・。

 ああ、もったいない。

 それは、この世で最ももったいないことだろうと思う。


 たまたま、私の「口から出まかせ」に出会ってしまって、

不快な思いをする人もいることだろう。「下らない」と思っ

て、時間をムダにしたと思う人もいるだろう。

 けれど、私は信じている。私の「口から出まかせ」に救わ

れる人がきっといると・・(そんな大袈裟なもんじゃないけ

どね)。


 人というものは、たまたまタイミングが合えば、コンビニ

で立ち読みしたマンガの一コマや、電車の中吊り広告の宣伝

コピーに心を開かれることだってある。

 ましてやこのブログは、世の中に上手くなじめなくて、生

きることを重苦しく感じている人達に向かって書かれてい

る。「誰かの助けになる可能性は結構あるだろう・・」、と

本人は思っている。

 たとえ1000人が不愉快に感じても、1001人目がほ

んの少しでも「心が軽くなった」と思うのなら上出来だ。


 たとえば、《「正しい」とは、そういうことにしておけ

ば、気が済むということである》というのは、私の考えの核

心になるものですが、人が悩むのは「自分は正しくないので

はないか?」という思いに捕らわれる為なので、「『正し

さ』なんて、人それぞれの都合でしかないんだよ」と言って

くれる人がいれば、気が楽になるはずなんです(ただし、自

分の「正しさ」もグラグラになりますが)。

 その言葉一つをとっても、きっと役に立つ。役に立って欲

しいなぁ・・。
 

 わたしたちの意識には、社会が浸潤して来て、〈アタマ〉

というものを形作ります。

 その〈アタマ〉は、人の思考・行動を、個人や自然よりも

社会を優先するように向かわせるプログラムです。

 社会というものは、本来、人々がしあわせに生きてゆける

ようにするためのプログラム、あるいはツールであるはずな

んですが、古い昔に社会の方が人を飲みこんでしまって、わ

たしたちは社会を動かす為のパーツに成り下がってしまっ

た・・。


 今や、世界の人口や社会の在り方を考えると、個人と自然

が、社会から主導権を取り戻すのは不可能に思えます。

 でもそれは、釈迦の生きた2500年前でも、すでにそう

だったのでしょう。だから釈迦は、個人に向けて法を説い

た。


 私も、個人に向けてこのブログを書く。

 もう、社会の支配から世界  個人の集まりとしての  

を解放する事は、釈迦の時代以上に誰にも出来ない。(もし

かすれば、インターネットが奇跡を起こすかもしれないけれ

ど・・・)

 出来る事は、個人個人が、それぞれに意識の上だけでも社

会から自由になって、人が本来持つべきはずの安らぎを持つ

事だけでしょう。


 「そんなこと言って、こんなブログを書いてるアンタ自身

は安らいでるのかよ?」

 
 そう問われると、苦しい。

 私は、釈迦でも老子でもないですからね。

 「安らぎながら、苦しんでる」というのが、正直なところ

でしょうか。


 でも、その “安らぎ” は、「社会の感じさせる安らぎとは

違う深さと広さを持つものだ」ということはハッキリ言える

し、私の中で “苦しみ” が占める〈意識〉の場所も違う。


 “安らぎ” は、個人としての私の中に在るし、”苦しみ” は

社会のパーツとしてのわたしの中のものです。

 たとえ、その “苦しみ” に呑み込まれ、亡ぼされてしまう

としても、亡ぼされてしまうのは社会のパーツとしてのわた

であって、本来の私ではない。

 私の言う “安らぎ”・“苦しみ” は、〈アタマ〉の見せる 

“安らぎ”・“苦しみ” とは違う次元にあるものです。それは

決して、オカルト的なスピリチュアル系の妄想や自己暗示で

はない。逆に、社会がわたしたちに幻想を見せているので

す。


 それは落ち着いて考えてみればすぐわかることです。社会

的な価値が有ることって、すべては約束事でしょ?

 飢え死にしそうな時に、ダイヤの指輪が何になります?

 大切な人が死んだ時に、金メダルが慰めになりますか?

 自分が死を迎える時に、社会的地位が天国行きを保証して

くれますか?

 社会に思い込まされた “安らぎ”・“苦しみ” 、そして “し

あわせ” って、思い込まされているに過ぎません。

 〈アタマ〉から、自分の〈ハート〉を解放してやらなけれ

ば、わたしたちの一生は「社会」というプログラムのパーツ

で終わってしまいます。


 わたしたちは「社会」から逃れることは出来ませんよ。

 「社会」の中で生きて行かざるを得ませんよ。

 でも、わたしたちが「どこに意識を置いて生きて行くか」

で、その生は変わる・・。

 もしかしたら、「社会」をわたしたちの “ツール” として

位置付け直すという奇跡が起こるかも知れません(ほとんど

不可能だと思いますが)。


 「社会」をどうこうしようなどという妄想は止めておきま

しょう。

 そんなことより、今、偶然にもこれを読んでいるあなたに

言いたいんです。


 「〈アタマ〉に振り回されて、本来の自分を見失っていま

せんか?」


 「本来、自分が居るべき場所に安らいだことがあります

か?」って・・・。


 「“アタマが悪さをすること” を、『アタマが悪い』とい

うのですよ」って・・・。




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