2018年11月12日月曜日

自殺された側の人間として。


 このブログでは、自殺について度々触れている。今日はそ

の理由などについて書こうと思う。

 なぜ私が自殺について触れるのか?

 それは、子供の頃に父親が自殺したからです。



 私が九歳の時、父親が自ら命を断った。

 仕事の事、お金の事、健康の事、夫婦の事、さまざまな問

題が父親を追い込んだようだ。

 当時、私は子供だったので、詳しいことは知らないし、本

当のところは本人しか知らない。私が大人になってから、

「そのようなことだったのだろう」と推測しているだけで

す。



 言うまでもなく、父親の自殺は私の人格形成に大きな影響

を与えた。

 男の子にとって、父親というのは男として成長して行く為

のお手本です。そのお手本が突然いなくなった・・。しかも

家族を残して、自ら命を断った・・。まだ九歳の男の子にと

って、これは堪える・・・。

 それまで、ヤンチャで明るく、「売られたケンカは買

う!」と言って、しょっちゅうケンカばっかりしていた私

は、突然、引っ込み思案で臆病な人間になってしまった。

 当時は、自分でその事には気付いていなかったのだが、高

校生になったころに小学生の頃を振り返って気が付いた。



 さらに、父親の死から二年程の間、私は心身症になった。

 ちょっとしたストレスが掛かると、息が出来なくて苦しく

なり、学校を早退したり、休んだりするようになった。

 今にして思えば、パニック障害のような症状だけれど、当

時の日本には、「パニック障害」や「心身症」という概念は

無く、「ストレス」という言葉すら、まだ認知されていなか

ったと思う。医者に診てもらっても、私の症状は「気管支系

の問題」という捉えかたをされていた。

 父親の自殺が無ければ、私はまったく違ったパーソナリテ

ィになっていたことだろう。もちろん、かなり違う人生を歩

むことになって、このブログも存在しないだろう。



 そのような子供時代を過ごした私にとって、「自殺」とい

う事柄は、捨て置くことが出来ない問題になった。



 ネガティブ思考の人間となった上に、父親の死によって経

済的な困難を抱えた家庭で成長した私の前には、常に自分の

事としての「自殺」が有った。

 さらに、当時は意識していたわけではないけれど、「自

殺」を否定する事は、自殺した父親を否定する事だった。

 男の子として、「男のお手本」である父親を否定する事

は、この世界で、自分が拠って立つ足場を失うことに等し

い。それはあまりにも恐ろしい・・。

 「父親の自殺」と「自分の事としての自殺」に前後からは

さまれている人生・・・。それゆえに、私は「自殺」という

ものが何であるかを理解して、「自殺」というものを “得体

の知れないもの” のままにして置かない必要にせまられたの

です。



 ことあるごとに「自殺」について考え、「自殺」という事

柄に接するときに自分の中に生まれるフィーリングを検証

し、「自殺とは何であるか?」、その答えを自分の中に定着

させようとして来たのが、わたしの人生の前半だったように

思う。

 その結果、《自殺する人は、死にたいのではなくて、死ぬ

しか生きる道が無かったのである》とか、《自殺は人間の死

の中ではポピュラーなものである》とか、《自殺は「いけな

くない」》《最後の手段として、「自殺」は持っておいてい

い》などということを言うようになりました。


 こういうことを言っていると、私が「自殺」を肯定してい

るように思われがちですが、私は「自殺」を肯定しているの

ではありません。

 私は、「自殺する人」や「自殺したいと思っている人」を

肯定しているのです。

 「自殺する」人は、「弱い人」でも「卑怯な人」でも「は

た迷惑な人」でもない。さらに言えば「不幸な人」でもな

い。

 「自殺する人」は、“その時、自殺する事になった人” だ

というだけだ。


 本人のパーソナリティも含めた、“状況” がその人を「自

殺」に追い込んで行くのであって、「自殺」はその人の “属

性” ではない。

 「自殺する人」は、“自殺する」という状況” に立たさ

れた人のことで、“「自殺する」という状況” を作った人

はない。

 私は、そう認識している。


 自殺する人は、確かに気の毒だし、まわりの人間はかなり

困る(経験者ですからよく分かる)。「自殺」なんて無い方

がいい。

 けれど「自殺」は存在し、「自殺」はこれからも無くなら

ないだろう。

 だから、「自殺」とは何なのかを捉え直し、「『自殺する

人』が “自殺という状況” を作るのではない」のだと考えて

欲しい。その人が「たまたま “そこ(そういう因縁)” に居

合わせた」だけなのだと・・・。


 「自殺」はなくならない。

 だから「自殺した人」を、憐れんだり恨んだりバカにした

りして欲しくない。

 こう言おう、

 《 自殺は、心理的な事故なのだ 


 「自殺する人」を批判的に見る人の心理には、「自分は自

殺しない」「自分は自殺などする側の人間ではない」と自

をカテゴライズすることで、自己肯定感を得ようとするケ

な根性がかくれている。ケチなことは止めとくれ。


 このような「自殺」についての考察は、いつしか私の中で

「人の弱さ」全般に広がって行きました。

 身体の病気・障碍、心の病気・障碍、その他さまざまな社

会適応力の低さなども、その人の “属性” ではなく、その人

の置かれた “状況” なのだと。「強さ」を持つ人も、たまた

まその “状況” にあるだけなのだと。

 強かろうが弱かろうが、人は皆、それぞれに、その時々に

「その人」であるだけなのだと・・・。


 そのようにして、「父親の自殺」を自分の中に位置付ける

作業は、思いがけない発展をみせて、決着を向かえたのでし

た・・・。


 誰にも自殺なんてして欲しくない。 

 自分も自殺なんかしたくない。

 だから知っておきたい。「弱い人」というものが居るので

はない。

 人は「弱さ」の中に立たされてしまう事があって、その中

で「弱さ」に打ちひしがれてしまう事がある。

 でも、それは自分が「弱い」のではないのだ。

 強くも弱くもない、「なんでもない」のが本当の自分なの

だ。

 その「なんでもない自分」に気付いて、そこに立ち返り、

自分を取り巻いている「弱さ」という “状況” が過ぎ去って

行くのをじっと待っていよう。必ずそれは過ぎ去るから。

 「もし過ぎ去らなかったら?」


 死んでもいいですよ。

 人は、何かで死ぬのです。

 「自殺」という事故に遭うこともありますからね。
 

 ・・・まぁ、残念ではありますがね。






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