今までにも度々登場してもらっていますが、浄土真宗のお
坊さんだった藤原正遠さんは、『比較病』という言葉を使わ
れていました。「人は、比べるから不幸になる」と。
わたしたちは、生まれるとすぐに「比べられます」(今で
は、生まれる前から比べられますが)。
そして、物心が付くと「比べること」を叩きこまれます。
正遠さんの言葉を正しいとすれば、親やまわりの大人、教
師などは、子供が不幸になるように教育していることになり
ますね。
比べれば、ほぼ必ず、人はそこに「優劣」や「正・悪」を
付けてしまいます。
優れている者は満足し、さらに慢心したり、劣った者をバ
カにしたりします。
劣っている者は不満を覚え、自分を卑下したり、優れた者
を妬んだりします。
勉強・スポーツ・健康・仕事・・、あらゆることで「比べ
ること」を教え込まれながら、その一方で「人はみな平等で
す。人と仲良くしなさい」などと言われるのです。
「ふざけんじゃねぇ~よ!」と言いたいところです。
人は、生物として自分の置かれている状況を比べないわけ
にはいきません。
「暑い・寒い」「硬い・柔らかい」「強い・弱い」などと
いった事を判断しながら行動しなければ、生存の危機に直面
することになるでしょうからね。
そういう意味で、人にとって「比べること」は必要です
が、そこに人間関係が加わってくると、「比べること」は却
って人を害することになります。
自分が優れていれば劣った者を侮り、自分が劣っていれば
優れた者に引け目を感じる。どちらにしても平静
で静かな心
そして、ある面でどんなに優れた能力を持っていても、他
の面では他者より劣るでしょうし、優れていることでも、い
つまでも優れたままではいられません。その能力が落ちて行
くことや、自分より優れた者の出現に不安を覚えることでし
ょう。「比べること」に安住の時は無いのです(あったとし
ても、ほんの束の間です)。
そもそも人間関係の中で
味ではありませんよ
生きて行くということでは、実質的な意味を持ちません。
もちろん、人と比べられて仕事を失うといったことは起き
ますが、それは本質的なことではありません。そのようなこ
とは、人が生きて行く上でのある一面でしかありません。
ところが、わたしたちは「比べること」を子供の頃から叩
き込まれているので、ある一面で比べられ、他の者より劣っ
ていると評価されると、自分のすべてを否定された様に思い
込んだりしてしまいます。
「すべてにおいて優れている人などいない」という、当た
り前の事に想いが至らない。
「人はみんな出来損ない」という事実に気付けない。
仮に、社会的に自分の 100% を否定されたとしても、
「今、生きている」ということは、〈命〉は自分を肯定して
いるということです。
〈命〉と〈社会〉。どちらがこの世界の本質でしょうか?
比べられて悩み、比べて悩み、そうしてほとんどの人は落
ち着くことなく一生を終えてしまう・・・。
「比べること」は人間の病気である。
「比べること」は社会の側の都合でしかない “お約束” で
ある。
そのことに思い至れば、わたしたちはもう少し楽に息をつ
けるのではないでしょうか?
『東京オリンピック』が近付いて来て、何かを達成した人
を、「輝いてる」などと持ち上げたりすることが増えて来て
いるように思いますが、人に誇れるような事を達成してない
人は「輝いていない」のでしょうか?
輝かなければ、その人は価値がないのでしょうか?
「輝く」って、なんでしょうか?
ひとりの「輝いている人」の向こうには、数百人・数千人
の「輝いていない人」がいるわけです。
そのように人を比較して、ごく一握りの人間を褒め称える
社会は果たして “良い社会” なのでしょうか?
その一握りの「輝いている人」に自分を重ねて(ファンと
かですね・・)、自分の「輝いて無さ」から意識をそらそう
とする人がたくさん生まれる社会とは、“健全な社会” なの
でしょうか?
輝けない「その他大勢」の何でもない人達をダシにして、
社会を “誇れるモノ” のように宣伝するのを見るのは、もう
飽きが来た・・・。
人はみんな、「それぞれ」ですよ。
人はみんな、それぞれに「精一杯」ですよ。
人はみんな、社会の都合に合わせてばかりはいられません
よ。
もうそろそろ、社会の方が人の都合に合わせてもいいんじ
ゃないんですか?
もちろん、人
必要ですけどね。
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