〈おだやかであれ〉なんて言うと、「災害が起きないよう
に」とか「恐ろしい事件が起きないように」だとか、「病気やケ
ガをしませんように」とか願っているみたいですが、そうい
うことではありません。もちろん、そうあればありがたいで
すが、今日書こうとしてあるのは、運命に対する願いではな
くて、自分自身に言い聞かせる言葉としての〈おだやかであ
れ〉ということなんです。
昨日の明け方、もうすぐ目が覚めそうな、夢か現かという
状態の時に、『おだやかであれ』という言葉で目が覚めたの
です。
別に、神のお告げだとか言うことではなくて、たまたま夢
に見たというようなことなんですが、その言葉と共に目が覚
めた。
そして、目が覚めた瞬間にこう思った。
「お釈迦さんの伝えていることは、要するにこれだったん
だな」と。
釈迦は多くの言葉を残しているわけですが、結局のところ
『おだやかであれ』といっているだけなんだろうと思います
ね。
『生きることは苦である』
その「苦」の中で、人はなかなかおだやかにはなれない。
けれど、お釈迦さまは「そうじゃないよ」と言った。
「人は、“生きること” とは違う次元で、おだやかさに身
を置くことが出来るよ」と・・・。
わたしたちは「おだやか」であれば、それでいいのです。
自分自身の中にある「おだやかさ」に安住していればいい
のです。「おだやかさ」は自分の中にある。
自分を取り囲む状況が、自分を「おだやか」にしてくれる
のではない。周りの状況に関わらず「おだやか」でいられる
部分が、自分の
以前、「しあわせになるのに理由はいらない」とか書きま
した。(『しあわせになるのに理由はいらない』1017/1)
「理由なんかいらないんです。しあわせになっちゃえばい
い」とか言っていて、今回〈おだやかであれ〉というのもそ
れと同じなんですが、「しあわせになっちゃえばいい」とい
うより、〈おだやかであれ〉という方が、より分かり易いと
思いました。
「しあわせになっちゃえばいい」と言われても、アタマの
考える「しあわせ」しか考えられない人は、自分が(ほんと
うに)しあわせである状態というのは理解しにくい。
けれど、「おだやか」という状態はたぶん誰にでも分か
る。
「天気のいい春の日」とか、「寝ている猫を眺めている時
間」とかというように、「おだやか」という感覚は誰にでも
分かるはずです。その「おだやか」な感覚(気持ち)を自分
の標準にする・・。
常に、「おだやか」であることを起点にして、あらゆるこ
とに関わってゆくようにする・・。
《「おだやかであれ」。
おだやかであれば、すべてが上手く行く》
なんの根拠もなくそう思う。
理由も分からず、そう確信している。
そもそも「おだやか」であるのなら、それは「上手く行っ
てる」ということです。それだけで十分ではあるんですが、
「おだやか」であれば、自分の思考・行動もスムーズになる
だろうし、「おだやかである人」に対しては、まわりの人間
もあまりネガティブな関わり方をしてこないものです。もち
ろんそうじゃないこともありますがね。
そのように、「おだやか」であればすべてが上手く行くで
しょう。仮に、状況が上手く行っていない場合でも、「おだ
やか」であれば、“良くない状況” の影響を免れているわけ
ですから、それは「上手く行っている」のですね。
まず、自分が「おだやか」であること・・。そうすれば無
敵です。そうあることが出来れば、スタートした瞬間にゴー
ルしているようなものです。
「まず、おだやかであれ」
それが、人が生きることの究極の目的なんだろうと思いま
すね。
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