2024年6月29日土曜日

犀の角のようにただ独り歩め



 前回、孤独について書いたけれど、仏教の、最も古く、釈

迦の言葉を忠実に伝えているだろうとされる聖典である『ス

ッパニパータ(ブッダのことば)』の中で第一章・第三節、

に【犀の角】と題された41の言葉が有って、どれも〔犀の

角のようにただ独り歩め〕という言葉で締めくくられてい

る。


 私は学者じやないし、仏教学を学んだこともない。ただ自

分で本を買って読んだりしただけなので、こういう経典を読

んでも印象に残る部分を憶えているだけです。そしてこの

『スッパニパータ』の中では、〔犀の角のようにただ独り歩

め〕という言葉が強烈に印象に残っている(というより、こ

れしか憶えていない😅)。それは、この言葉が私の感覚から

するととても重要だったからでしょう。

 〔ただ独り歩め〕

 その言葉が、私を、迷いから本来あるべき位置へ引き戻

す。


 【犀の角】という節では、「人(世の中)と交わると妄執

に害されるので独りでいなさい」ということが繰り返し語ら

れるのだけど、釈迦はインドの行者のように隠遁生活をしろ

などと言っているのではない。

 「わたしたちの命は本来独りなのだから、いつもそのこと

に心を落ち着けていなさい」

 「独りであることを忘れずに、世の中と関わってゆきなさ

い」

 そう諭しているのだと思う。


 わたしたちは、本来、独りです。独りで生まれて来て、独

りで死んでゆくのですから、それは間違いないことでしょ

う。その本来性に深く落ち着くと、そこは世の中とは一切関

わっていないことが分かる。世の中というアタマの作り上げ

ているお話しから、まったく独立していることが分かる。そ

こには苦しみも悩みも無い。だから〔ただ独り歩め〕。


 以前に『不幸になってみよう!』(2020/4)という話の

中でも書きましたが、わたしたちはストーリーを持たなけれ

ば不幸になれません。悩み苦しみはストーリーの中に有る。

悩み苦しみはストーリーの中だけで生まれる。ストーリーの

外には静けさと安らぎだけが有るのです。だから〔ただ独り

歩め〕。


 自分の「独りである」という本来性を大事にし、社会に誘

い出されることなく、世の中のお話し・アタマの作るストー

リーに気付いているならば、わたしたちは本来、平安なのだ

からと。


 〔犀の角のようにただ独り歩め〕


 それは何も淋しいことじゃない。本来そうなのだから。

 それは何も虚しいことじゃない。本来そうなのだから。

 それは何も恐ろしいことじゃない。本来そうなのだから。


 〔犀の角〕のように独りで歩むことで、どこかにたどり着

いたり、何かになろうというのではない。わたしたちは本来

〔犀の角〕がイメージさせるような、堂々として、揺らぐこ

とのない〔独り〕という存在だ。世の中のお話しに惑わされ

ているので、それを忘れているだけ。だから〔ただ独り歩

め〕


 そして本来の〔独り〕に落ち着いたとき、逆説的だけどわ

たしたちは独りではなくなる。世界と一つであることを知る

から。


 (ああ、『スッパニパータ(ブッダのことば)』を読み返  
  してみよう・・・)





2024年6月23日日曜日

孤独はからだに悪いのか?



 いまに始まったことでもないけど、「孤独は心とからだの

健康に悪い」というような話を、メディアがよく流します

ね。あれ、私は信用していない。なにせ私は『「淋しい」が

分からない』(2018/1)という人間ですからね。人がひと

りでいることはごく普通のことと考えていて、それが人に悪

い影響を及ぼすなんて思えない。「孤独=いけないこと」と

いうのは洗脳ですよ。


 社会というものは複数の人間がいないと成立しないものだ

から、「ひとりがイイ」という人間は社会にとって役立たず

な上に目障りです。なので、社会は「ひとりでいる」ことに

「孤独」というネガティブなイメージを持たせることで、一

人でいる人に「自分は間違っているのだろうか?」と思わせ

たり、いじめたりするんですよ。そして、社会におびき出そ

うとする。「孤独」というネガティブイメージを真に受けて

はいけないと思います。

 「ひとり」でいたければそうすればいいんですよ。悪いこ

とでも不幸なことでもないし、変なことでもない。「孤独=

いけないこと」という刷り込みをされているせいで、自ら精

神的な負担を生み出してしまって、実際に具合が悪くなった

りするだけのことです。本来、ひとりぼっちは気楽なもので

すよ。


 とはいうものの、ちょっとは適当に社会に付き合ってあげ

るべきだとは思うけれどね。なんだかんだ言ったって、人間

は社会と関わらずには生きて行けなくて、いろいろ世話にな

るんだから、最低限の義務として、そして礼儀としてね。


 私は社会というものは必要悪だと考えていて、必要最小限

の関りは持ちながら生きるのは仕方がないと思っている。

 社会が「必要悪」だなんて思っているのなら、社会と関わ

らず、どこかでひとりで暮らしていれば良さそうなものだけ

ど、人間にはそんなことは不可能だし、さしあたり生きてい

ようと思っているからね。
 

 シルベスター・スタローンが演じたランボーは、ナイフ一

つあればジャングルでも生きてゆけるけど、そのナイフは社

会からもたらされたものだ。完全に社会と無関係では生きら

れない。そのナイフがランボー自身が作った物だとしても、

ナイフの作り方をゼロから発想できるわけではない。そのノ

ウハウは社会からのものだ。そしてサバイバル術も社会から

学んだものだ。ランボーでさえ、社会との関わりなしにひと

りでは生きられない。ましてや普通の人間が自分の本来持つ

能力だけで生きてゆくのは不可能だ。人間に社会は必要だ。


 ところが、「人間が社会を必要とした」はずなのに、「社

会が人間を必要としている」のが社会というもので、人間は

社会を存続させる道具になってしまっている。

 名誉やお金を得るという刺激に目を眩まされて、自分本来

のしあわせを見失って、社会を動かすことに命を賭ける。そ

れは賢明なことだろうか?


 社会は必要だ。社会は大事にすべきだ。ただ、人は本来ど

うあるべきか、どのような存在かを見失っては意味がない。

 そのためにはひとりでいることを大事にすべきなんだ。

 社会の目眩ましに気付いて、社会の道具にされないよう

に。そして何より、生きていることの本質的な喜びを味わえ

るように。




2024年6月16日日曜日

考えないこと



 この前、“仏像は見る人に「余計な事考えてない?」と語り

かけている” ということを書いた。でも、本当は「考えるこ

と」そのものが余計。

 考えることは余計な事です。人間以外の動物は、ほぼみん

な何も考えずに生きているわけですから、人間が異常なわけ

です。余計なことをしている。けれども、人間の本能は不完

全なので、他の生き物のように本能に従うだけでは生きられ

ない。それを補う為には考えざるを得ない。それはもう人間

の業としか言いようがなくてしようがないのですが、その代

償は大きい。もっと「考えること」に対する評価を下げ、

「考えること」の悪影響を認識する方が良い。「いらないこ

とを沢山しているんだ」と。その方が生きていることは楽に

なる。ムダなエネルギーを使わなくて済むし、することが減

れば、問題を作り出すことも減る。とはいうものの、刺激も

少なくなるので誰もが嫌がるだろう。エゴは刺激がなければ

自分を確認できなくて怯えるから。


 なので、「考えること」の悪影響を減らすためには、エゴ

をなだめて安心させてやる必要がある。


 「心配しないでいいよ。そもそもおまえ(エゴ)はイメー

ジだけの存在なんだから滅びることはない。そもそも実在し

ていないんだからね。怖くない、怖くない」(ナウシカがテ

トをなだめるように😊)


 そんな風にエゴを諭してやらなければいけない。そうする

ことで、「考えないこと」の平穏さが感じられるようになっ

てくる。良く生きるための、最小限で必要十分なことを考え

るセンスが表に出てくる。

 それでもアタマが余計なことを考え続けることは止められ

はしないけれど、それが生きることの本質とは関係がないこ

とを、もう意識は理解しているので、大きな不安や苦悩に巻

き込まれることはない。「ああ、またやってるな」と、平穏

な場所から見ていられる。


 そのような意識の持ち方について、

 「人生というのは、スクリーンに映し出された映画のよう

なもので、自分は客席でそれを眺めているだけなんだ。映画

の中に入り込んでしまって、それを “リアル” だと感じてしま

うから、苦しみが生まれる」

 という表現をする人がいる。それはほぼ正解だと私は思う

けれど、もう一歩進んでみよう。わたしたちの意識は、映画

が映し出されている “スクリーン” なのだと。


 白紙のスクリーン。

 その上で戦争が起ころうと、愛する人との別れがあろう

と、億万長者になろうと、多くの人から賞賛を浴びようと、

貧困に喘ごうと、死を迎えようとも、スクリーン自体は何の

影響も受けないように、わたしたちの人生は、白紙の意識の

上で展開する “お話し” です。


 白紙。それは虚しいと思われるかもしれないけれど、これ

ほど広々として平穏なものはない。ましてや、意識のスクリ

ーンには「ここまで」という限りがないので、そこには完全

な自由というものがある。





 

2024年6月15日土曜日

「やりたいこと」信仰



 「自己表現」という言葉があるけど、私はあれが大嫌い

で、「“自己” なんて陳腐なもの表現されたら不愉快だ」と思

っている。“自己” なんてものは、せいぜい表現の為の足場で

あって、表に出すようなものじゃない。それを何を勘違いす

るのか「これがわたしだ!」みたいに表に出してくる輩がい

る。そういうのを見ると、呆れるし不快になる。勘弁してほ

しい。


 例えば歌を歌ったり楽器を演奏したりするとき、表現すべ

きはその曲の世界なのに、「わたしはこんなに声が出るの

よ!」「オレはこんなにテクニックがあるんだ!」というよ

うに、自分の能力を見せようとする人間が結構いる。そし

て、そういう輩を「凄い!」と評価する連中もそこそこいる

ものだから、気持ちの悪い「自己表現」とやらが絶えること

が無い。困ったもんだ(本当は困りはしないけど😅)。

 ああいうのは承認欲求が強すぎるんだろうな。それだけ自

分に自信がないのだろう。


 良い表現者は上手に “自分” を消す。 “自分” は表現の邪

魔だから。時には “自分” を消し過ぎて、 “自分” が窒息して

しまい、破綻する場合もある。マイケル・ジャクソンが死ん

でしまったのはそういうことなんだろうと思っている。〔マ

イケル・ジャクソン〕というアイコンが独立し過ぎて、本人

は本当に消えてしまった。

 そういう例はたくさんある。その時代の流れにモロに巻き

込まれて食いつぶさたり、表現にエネルギーが流れ過ぎて、

自分が疲弊してしまうのだ。


 一方で「自己表現」をしたい人間は、そもそも “自分” が

不安定なので ”自分” を確認しようと必死だ。 “自分” に何

よりも関心があるので、 ”自分” を表に出して、「他の人が

それを認めてくれたら安心できる」と無意識に思っているの

だろう。


 「そんなもの見たくないよ」

 冷たい言い方だけど、「自己表現」なんてことをしている

人間には、誰かがそう言ってあげた方がいい。「自己表現」

なんて、その人に何ももたらさない。薄っぺらい張りぼての

自己像が大きくなるばかりで、大きくなった分、張りぼては

風に揺さぶられやすい。その “自己” は世の中の変化や自分自

身の変化という風に、かえって揺さぶられやすくなるだけ

だ。そんなことより、自分の中に、表現なんかする必要のな

い自己を探す方がいい(探すというよりは確かめると言った

方が適切だろうけど)。


 そもそも「表現」という言葉も気に入らない。そこには作

為的な匂いを感じる。個人から世の中にもたらされる “良い

もの” は「表出」するものだろう。自然に出てくるものだろ

う。

 個人は「表出」するものの単なる通り道であるだけだ。そ

て、自分から “良いもの” が「表出」する幸運に出会ったの

なら、自分がその通り道になったことを喜び、光栄に想えば

いいのだ。


 そして、こういうことを考えていると頭に浮かぶのが「や

りたいこと」というやつ。

 「自分がやりたいことをできるのがしあわせ」だとか、

「やりたいことをすることに、人間の価値がある」みたいな

風潮があるけれど、それ本当かい?

 “自分” という、得体のしれない、それでいて凡庸であるこ

との多いものが「やりたいこと」ということが、本当に生き

る上で重要なのか?

 《 自意識というものは、社会が脳に浸潤してきたもので、

どちらかといえば自分ではなく社会に属するものです 》

 いままでに何度かそう書いているけれど、「自分のやりた

いこと」というのは、実は「社会がわたしたちにやらせたい

こと」なのではないのか?

 「やりたいことをせよ」という教義を絶対視する、一種の

信仰ではないだろうか。


 「やるべきことをする」

 「やらざるを得ないことをする」

 「やることがやぶさかでないことをする」 


 そのように「“自分” が求めること」より、「世界」と「身

体」と「意識の深い部分」から求められることに、この “自

分” を使ってゆく・・・。その方が “自分” が活きるのではな

いだろうか?


 世界の中で “自分” を出そうとすればするほど、 “自分” は

世界から浮いてゆくだろう(社会という、元々世界から浮い

ているものとは繋がるだろうけど)。そしてわたしたちの不

安定さは増して行く。


 前に『信じる者に救いはない』(2023/10)という話も書

いたけれど、「やりたいこと」を疑ってみるのも自分の為で

はないだろうか。




2024年6月8日土曜日

人の皮を被った・・・



 今日は仏教のお話しです。


 仏教では、如来も菩薩も「一切衆生を救うのが目的」と教

えています。仏は、善人も悪人も地獄にいる人も残らず救お

うというわけです。

 ところが、仏教の開祖であるお釈迦さんは、悟りを開いた

ときに「我と大地と有情、同時成道」と言った。「自分と世

界、すべてが救われている」と悟ったのですね。

 というわけで、少なくともお釈迦さんが悟った2500年

前からは、善人も悪人も地獄にいる人も全員救われているの

ですから、如来も菩薩も仕事が無いというのが本当のところ

なんです。じゃあ、如来と菩薩は何をしているのか?

 ほとんどの人間は自分が救われているのに気付いていない

ので、わたしたちの知らないところでそれに気付かそうとし

ているのかもしれませんが、実のところ「何もしていない」

ようです。

 「救われてるんだから、もうそのままでいいよね」

 そんな感じなんじゃないでしょうか。

 救われてるのを知らない人も放ったらかしです。「なるよ

うになってるんだから、それで良い。なるようにしかならな

いんだし」と。

 お寺へ行って仏像を見ると、如来はおおむね無表情で、菩

薩はほんのかすかな笑みを浮かべてじっとしているだけ(じ

っとしてて当然ですが)。することが無いからでしょう。そ

してたぶん、仏像は見る人にこう語りかけている。「余計な

事考えてない?」。


 「成る」

 「する」でもなく「為す」でも「成す」でもない。

 すべては成るべくして成る。成り続ける。常に完成してい

て、次の完成を生んでゆく。

 完成しているんだから、救われているわけですね。みんな

成仏している。それが何を意味するかというと、誰もが仏だ

ということです。実は如来も菩薩もわたしたちのことなんで

すよ。とてもそうは思えないけれど、そうなんです。人の皮

(人というストーリー)を被った仏なんです。被ったという

より、被らされているという方が近いでしょうけど、おかげ

で仏が表に現れてこない。それは残念な事ではあるけれど、

まぁ、救われているんだからべつに良いのです。


 さまざまな仏がいます。

 助平菩薩、嘘つき菩薩、ねたみ菩薩、泥棒如来、人殺し如

来・・・その他諸々・・・。

 ムチャクチャ言っているようですが、そういうことなんで

す。表面上はそう感じられなくても仏なんです。「悉皆成

仏(しっかいじょうぶつ)」と言ったりしますけどね。


 「人の皮」の後ろにあるもの。そこを意識すれば、その時

のわたしたちのまなざしは、仏像に表現されているあのまな

ざしなんです。自分の中の仏が現れるんです。

 それは、そのまなざしを向けられるものと、自分自身に救

いを感じさせます。


 悉(あまね)く、皆が仏(ほとけ)成(な)り




 
 

2024年6月2日日曜日

「徳」とはどういうものか?



 宗教やスピリチュアルの話で、「徳を積む」という言葉が

よく出てくる。なんとなく言ってることは分かるけれど、あ

らためて考えると「徳」というのはよく分からない言葉で

す。

 「良い考え」「良い行い」と捉えておけば良いのでしょう

が、何が「良い」のかということについては、自分の価値

観・気分で判断するか、あるいは世の中の基準に依るしかな

い。果たしてそれが「徳」なのかどうかは怪しいところで

す。

 怪しいのですが、怪しいことは不問のまま人は徳を積もう

などと考え、それなりの行動をとります。「徳を積むと得を

する」と思っているのでしょう。しかし「得をしたい」とい

う「欲」からの行いが、果たして「徳」と言えるものなので

しょうか? さらに、「徳」というものは積めるものなのでし

ょうか? 私は「徳」は積むことはできないと思っているので

すが・・・。


 航空会社のマイルを貯めて地上の楽園に行くことはできる

でしょうが、「徳」を貯めて極楽に行ったりはできません。

「徳」は積むことができません。貯めることはできません。

私は「徳」というものは、「そのとき」「それっきり」のも

のだと思います。その時々で完結するものだと思います。


 以前書いたようにも思うのですが、山岡鉄舟の逸話にこう

いうものがあります。


 ある時、弟子が鉄舟にこんな話をした。

 「先生、“バチがあたる” なんて言いますが、あれは嘘です

  ね。わたしはこの前、神社の鳥居に小便をしましたが、

  何も起きませんよ(笑)」

 それを聞いた鉄舟は

 「この大バカ者!鳥居に小便をした時点で、お前は “鳥居

  に小便をする人間” になっておるのだ!」

 と𠮟りつけた。


 人を殴れば、その時 “人を殴る人間” になっている。

 人の悪口を言えば、その時 “人の悪口を言う人間” になって

いる。

 人に優しくすれば、その時 “人に優しくする人間” になって

いる。


 行いの報いは、行いと同時に在る。それは恐ろしいことで

あると同時に、とてもありがたいことでもある。いま良い事

をすれば、いま良い人であることができる。いまその場で救

われる。積んだり貯めたりする必要はない。そもそも、それ

はできない。


 幸福も不幸も、未来にあるのではない。

 救いも苦悩も、未来にあるのではない。

 極楽も地獄も、未来に赴くのではない。

 それらはすべて、いま、自分から生まれる。


 はっきりと「これが “徳” です」ということはできないけれ

ど、いま、自分を心から救うことなら、それは「徳」なのだ

ろう。

 そして、「徳」は積めない性質のものだけれど、いまここ

で「徳」を現わせば、その「徳」は、次の「徳」が現れる触

媒となる。自分の周りに「徳」が伝わる機会となる。「徳」

は積むことができない。けれど「徳」は繋がる。将来に、周

りに。


 どうすれば「徳」が現れるか?

 「得」をしようとしないことだろう。