2017年6月26日月曜日

勘ぐりは下衆

 時々、山を歩きます。今は月に1~2度しか行けません

が、昔は憑りつかれた様に、年に100回以上も行っていまし

た。


 私のスタイルは、「山登り」ではなく、「山歩き」という

感じで、「高く・遠く・速く」ということは考えず、「のん

びりと、植物や虫や鳥や地形なんかを見ながら、気分の良い

所まで行って、簡単な昼食をとり、昼寝をしてから、美味し

い紅茶を飲んで帰って来る」というものです。山菜や食べら

れる実があれば、採って帰ったりもします。

 「何か目的を達成しよう」というものではなく、ただ気持

ちの良い事を求めての山歩きです。


 「山」なんかに興味の無い人からすると、「山歩き」なん

て疲れるだけの、無意味なものと思えるでしょうね。実際、

そんな風に言う人にも、何人も出会いました。「一度、誘わ

れて行った事があるけど、しんどいばかりで、何も面白くな

かった。二度と行かない!」という人も結構います。連れて

行ってくれた人が、「山屋さん」だったりすると、そんな目

に会いやすいですね。山に登ることを “チャレンジ” としか

考えていない人で、日本には沢山います。日本人の嫌なとこ

ろで、「気楽に楽しむ」「のんびりする」ということを知ら

ないんですね。アタマの固い目的志向で、そこら中にいま

す。

 昔、山の中腹の見晴らしの良い場所で、横になって空を眺

めていたら、通りかかったオッサンが声を掛けて来たので、

「これから昼寝します」と答えると、「何言うてんねん!も

っと歩かな!出世できひんで!」と言われました。

 たくさん歩くと、出世できるそうです。出世したい人は、

どうぞお試しを。



 それはともかく、なぜ山に行くと気持ちがイイのか?

 「空気が良い」「景色が良い」などと言われますが、私の

結論は「山(自然)にはウソが無い」ということです。

 「ウソが無い」というよりは、「隠し事が無い」というべ

きでしょうか。


 自然の中には隠し事もウソもありません。

 昆虫が葉っぱや木の皮に擬態していたりしますが、別にウ

ソをついているわけではなくて、こちらに見つける目がない

だけです。子育て中の生き物が子供を物陰に隠したり、リス

やカケスがドングリを隠したりすることはありますが、それ

以外は隠し事と言えるものはまず有りません。自然は “ある

がまま” に、すべてをオープンにしています。自然に対して

は、観察し、理解し、洞察力を働かせるといった事も必要と

されますが、“勘ぐる” 必要は一切ありません。

 ウソは無いし、隠し事も無い。見えるまま、聞こえるま

ま、嗅ぐまま、触れるまま・・、すべてが額面通り、そのま

ま受け取れます。

 毒キノコや毒草、危険な場所や生物。そういったものも存

在するわけですが、それらは隠されているのではなく、こち

らが知っておかなければならないだけです。知ってしまえ

ば、もう隠されることはありません。“自分が知らない何か”

は無限に有り、永久に無くなることはありませんが、“自分

が知ることを拒まれている何か” というものはありません。

そこが、気持ちイイのです。
 

 翻って、人の世界はウソや隠し事で溢れかえっています。

 憶測・推測・妄想・偏見・偽善・欺瞞・見栄・詐欺・保

身・妬み・恨み・威嚇・差別・強欲・ケチ・怖れ・などなど

から、真実とは言えないことを、個人も組織も日夜撒き散ら

しています。

 そんな世界にどっぷりと嵌まり込んで、自分も加担して生

きていると、わたしたちの心とからだは疲れ切ってしまい、

ウソやうわべの残した滓(おり)のような物が、自分の中に

溜まってしまう。それをそのままにしておくと、やがて心と

からだが蝕まれてしまう。比喩ではなく、実際にそうだと思

っています。

 自然の中に身を置くと、そんな作り事と小芝居の馬鹿らし

さから解放されて、ほんとに清々します。



 私は人と話をしていて、「人間ばっかり相手にしてい

ると、頭がおかしくなる」という話を時々します。

 人間を相手にしていると、「相手が何を考えているか?」

ということを常に意識していなければなりません。(自分が

どう思われているかという事も含めて)

 そのこと自体は別に大した事ではありませんが、相手との

間に少しでもネガティブな要素が入ると、それはすぐに “勘

ぐり” というものになります。

 「下衆(ゲス)の勘ぐり」という言葉がありますね。これ

は「下衆は、勘ぐりをする」という意味ですが、「下衆が勘

ぐると、ロクな事考えない」といった捉え方もされていると

思います。「勘ぐる」こと自体には、まだ良し悪しがあると

いう感じで。

 でも、“勘ぐり” はすべて愚劣です。 
 
 ですから、私の場合はもっとダイレクトに、

 《 勘ぐりは下衆 》

 と言います。

 私の実感としては、そうです。

 勘ぐった瞬間、人は〈下衆〉になるのです。


 ですから、人と関わり、日々を送っていると、私は事ある

ごとに「自分は下衆だ!」と思い知らされ、自己嫌悪を蓄え

て行くことになるのです。参ります。

 「そんなの、考え過ぎ!」と思われるかも知れませんね。

でも普通の神経の人なら、自分で気付いていないだけで、同

じ思いを溜め込んでいると思いますよ。


 人には、“英雄願望” というものがほとんどデフォルトと

して存在します。自分で自分を「価値ある人間」「良い人

間」と見做したい、という思いです。

 そのため、自分を「下衆」と感じさせる思考は、無意識の

うちに自己嫌悪を生み出しています。 

 人の感じるストレスの中で、この自己嫌悪が占める割合は

かなり大きいと思います。5割ぐらいは、これじゃないかと

思います。それに加えて、「勘ぐり」のキッカケとなる “不

安” のストレスもセットになっていますから、「勘ぐり」が

人に与えるダメージは相当なものになっているはずです。


 私は、こういった事をある程度意識の上に置いていますか

ら、「勘ぐりは下衆!」と自分に言い聞かせることで、その

ダメージを回避しようと心掛けています。それでも、やっぱ

り自己嫌悪は溜まってくるので、自然に目を向けて心とから

だのバランスを取らなければなりません。


 「人間ばっかり相手にしていると、頭がおかしくなる」の

ですが、それは生身の人間ばかりではありません。

 “人間の作った仕組み”を通して、間接的に人間を相手にし

ていても少しおかしくなります。五感の使い方が偏るせいで

しょうね。


 ただね、人間相手でも、自然を常に意識して、「自分も自

然の一部に過ぎない」という認識を持っている人が相手であ

れば、あまりストレスを感じずに居られます。そういった人

は「人間なんてものは所詮ね、・・・。」という謙虚さや、

ユーモアを持ち合わせているからです。



 ちなみに、『ゲス不倫』が話題になっていた時、その当事

者たちの事を「あれや、これや」と勘ぐっていた人たち

は、“同じ穴のムジナ” 。“ゲス” だったのです。

 「下」の「衆」。つまり、「下らない、その他大勢」だっ

たということですね。


(「かんぐる」って打ち込みながら、「『Google』に似て

 るなぁ」とか思っていました。いろいろ勘ぐるには、

 「Google」はもってこいのツールですね。下衆がパワー

 アップします。 おぉ~怖っ!)








2017年6月24日土曜日

やる気スイッチ OFF



 私がこれまで書いてきたことといったら、「世界は惰性で


動いてる」とか「人並みの人には、人並みの努力しか出来な

い」とか「自由意志は無い」とか、個人を否定する様なこと

ばっかりで、こんなブログを読んでいるとやる気が無くなる

かも知れません。

 なんで、こんな事ばっかり書いているかというと、「やる

気をなくさせよう」と思っているからです。


 “やる気” ってなんですか?

 何を「やる」んですか?

 “やる気” というものを肯定し過ぎていませんか?

 テロリストや犯罪者に、やる気を持たれたら困りますよ

ね。
 

 「おい。テロリストや犯罪者なんて異常なものを引き合い

に出すのは、おかしいだろう!」

 そう思われるでしょうね。


 その通りなんです。異常な事に “やる気” を持つ場合が問題

なんですが、テロリストや犯罪者が「異常」と見なされるの

は、彼らが短期間の内にその異常性を表わすから(異常性が

濃く表れるから)なんです。もしIS(イスラム国)が同じ思

想を50年かけて、武力ではなく政治的に広めたとしたら、

異常さは表立たなくても、結果はイスラム原理主義の差別的

で不合理な社会です。日本が太平洋戦争をした時も、長い年

月をかけて軍国主義と強固なナショナリズムが浸透したため

に、ほとんどの人間に異常さが分からなかった。「戦争を始

める」ところまでは、抜き差しならない時代状況があったの

だと思いますが、「学徒動員」や「特攻隊」、「竹槍訓練」

に至っては、“異常” を「異常」と見ることが出来なかったと

しか言えません。

 当時の日本で “異常” を成立させていたのは、日本人のほぼ

全員です。ひとつひとつの「小さな異常」が集約されて「大

きな力を持つ異常」になっていたのですね。

 《 “異常” は、日常の中に擬態している 》のです。


 私が「やる気をなくさせよう」とするのは、よほど気を付

けていないと、わたしたちは “異常” にエネルギーを注ぎ込

んでしまうからです。

 “やる気” を出す前に、わたしたちの思考が何処を向いてい

るかをよくよく吟味しなければなりません。まず問題なの

は、わたしたちの方向性です。「何をやるか」です。


 経済活動に “やる気” を出し続けた結果が、環境破壊です。

 CO₂の問題にしても、化学物質による汚染にしても、森林

破壊にしても、それらは経済活動による収奪と、ゴミ問題で

す。

 また、過労死、鬱病、格差の拡大なども、経済に “やる

気” を出し続けた結果です。

 個人的な事柄では、「やり過ぎ」がさまざまな問題を作り

出すのは、例を挙げる必要もないでしょう。

 「わたしたちは、どちらを向いて進んでいるのか?」

 それを注意深く見定めていないと、取り返しのつかない事

を引きおこします。

 子供の将来を案じて、レベルの高い学校に入れようとす

る。その時に、子供の能力や適性、20~40年先の社会状況

を考えて方向付けをしているのか?(そんなこと誰にも出来

ないと思いますが)

 「どっち向いてんの?」

 そんな「自問自答」が常に必要です。



 そして、“やる気” そのものについてですが、《 “過剰” こ

そが悪 》と書いた通り、“やる気” があるほどに、人は “過

剰” になって行きます。正常なことでも、度を越せば “異

常” です。

 ちょっとみんな “やる気” を減らすべきです。

 “やる気” というものを、無条件に崇め過ぎです。

 人間がしあわせに生きるだけのことに、それほど “やる気”

は要らないはずなんですけど。むしろ、現代は “やる気” が

人を不幸にしている割合が大きいと思いますけどね。


 「人は未来を見通せない」という事。

 「良い事さえ、度を越すと異常になる」という事。

 この二つは事実です。

 ですから “やる気” の使用には注意が必要です。



 と、ここまで書いといて何なんですが、以前女性の芸能人

か作家の人が、子育てについて、こんなことを言っていたん

です。

 「子供なんてものは、若くて何も分からないうちに、訳も

分からずに、産んで育てちゃうものよ」って。


 これを聞いた時に、凄く納得しちゃったんですよね。

 「子供を産む」ってことは、一人の人間をこの世に送り出

すって事です。これは、とてつもなく責任の重い、「恐ろし

い」とも思える行為です。自分が生きていて、「どう生きた

ら良いのかハッキリ分からない」、「しあわせだと、自信を

持って言えない」、「イイ世の中だと手放しでは言えない」

といった状況で、新しい人間をこの世に生み出すのです。よ

く考えてたら、恐ろしくって子供なんか産めません。なので

「仰る通り」と思いましたね。(とはいうものの、「よく考

えて子供を作れ」というのもホントだと思います。「何も分

からず  」というのも、どちらも正しいと思います。矛盾

してますけどね)

 それに、「やる気をだすな」、「どちらに行こうとしてい

るのか考えろ」とか言いましたが、そんなこと言ったって宿

業みたいな事がありますからね。無理ですよね。
 


「じゃあお前は、グダグダと今まで何を言って来たんだ!」

 というお叱りを受けそうですが、「“やる気” を怪しむ」と

いう考えを持っ方がよいと思うんです。

 「“やる気” =善」みたいな世の中の空気が胡散臭い。 

 「生きることを、そんなに大層に煽って、余計なエネルギ

ーを使わせようとするんじゃないよ」と思うんです。

 そんな、大袈裟なことなんですか? 生きるって?

 「大事(だいじ)にし過ぎる」から、「大事(おおごと)

になっちゃう」んじゃないんですか?


 人類が誕生してから、百数十億人ぐらいがこの地上を歩い

たでしょうが、4~5000年前までは「生きて、死ぬ」こと

がもっと淡々として在ったんじゃないかと・・。

 特に現代は、「生きて、死ぬ」ことに余計な意味付けをし

過ぎて、必要のない苦悩を抱え込んでいると思うんですよ。

 もっと力を抜いて、「特別でもない人生を『生きて、死

ぬ』」方が、人は幸せなんじゃないかと・・・。


 ですから、私はこれからも「やる気をなくす様な」ブログ

を書く様に頑張ります!   ←(こういう “やる気” は許される

であろう)



2017年6月20日火曜日

自分というストーリー

 人は皆、それぞれに〈自分〉です。

 自分として生まれてきます。当たり前すぎて、いちいちそ

んなこと考えたりしません。考えませんが、それに関わるよ

うなことは誰でも考えます。

 「自分は、何者か?」ということです。

 「『何者か?』って、自分じゃないか」

 そんな、声が何処かから聞こえたりします。

 でも、そんなことで簡単に納得する人はいません。

 「自分は、何者か?」という問いに、納得のいく答

えは出て来ません。何故でしょう?

 それは、その答えが「自分は、何者でもない」ということ

だからです。ですから、納得できません。



 「何者か?」と問うているのに、答えが「何者でもない」

では、答えたことになりません。ですが、「自分は何者

か?」という問を発する人が、本当に求めている答えは、実

のところ「自分は何者でもない」という答えです。

 なぜなら、もともと自分でその答えが返って来るのを知っ

ていて「自分は、何者か?」と問うているからです。

 知っているのに、何故問うのでしょう?

 答えが納得できないからですね。

 「“答えた事にならない答え”しか出てこないのは、おかし

い」と思うからです。でも、その“納得できない答え”が正解

なので、何度問うてみても、モヤモヤが消えません。

 そりゃそうですね、〈正解〉というものは、“納得できる

答え”のことですから、全く矛盾しています。

 何故、正解なのに納得できないか?

 答えが“言葉”の守備範囲の外だからです。


 人間は「言葉にならない回答」を「回答」と見做せないと

いう、困った性分を持っています。

 欧米人などは、「言葉に出来ないものは無い」ぐらいに思

っている様です。なにせ『はじめに言葉ありき』ですから。

 それに較べると、日本人は「以心伝心」・「空気を読む」

国の人ですから、「言葉にならないことは色々ある」と誰し

も思っています。ですが、日本人であっても答えを求める時

には、“言葉”としての答えを望みます。(「二十万円貸して

くれ」と言ったら、黙って二十万円差し出された。といった

場合もありますが)

 何故、“言葉”としての答えを求めるのか?

 《 人には“ストーリー”が必要であり、言葉に出来ないこ

とは“ストーリー”に組み込めない 》からです。


 人は誰でも、自分のストーリーを持っています。

 他人にもストーリーを設定します。「A さんはこういう

人、B さんはこういう人、C さんは・・・」といった具合

に。

 世の中にもストーリーを付けます。「日本はこんな国。ア

メリカはこんな国・・。自民党は・・、民進党は・・。イス

ラム教徒は・・、戦国時代は・・、白亜紀は・・、60‘のア

メリカのミュージックシーンは・・、AKBは・・・・・」

きりがありません。


 世の中のキャラクターの一人(出演者=本人からすれば主

役)である自分にとって、世の中のストーリーがあやふやで

は、自分をどう演じればいいのか分かりません。

 配役・設定・舞台装置・小道具がどんなものかを知らなく

ては、演じられません。ですが、恐ろしいことに台本は無い

のです。しかも、舞台の初めからそこに立っていたわけでは

ありません。“気が付いたら”舞台の上に居たのです。

 仕方なく、わたしたちは周りを見廻して、ストーリーを推

測し(ストーリーをでっち上げて!)、おっかなびっくりア

ドリブの演技を続けて行きます。

 まわりと協力し合い、それなりに舞台を進行させてはいま

すが、時に、ふと我に返ります。

 「そもそも、自分は何故この舞台に居るのだ? 自分の役

柄は何だ?」と。

 ところが、答えは「何者でもない」。

 ・・・独りで黙り込むしかありません。

 心許なさに耐えられず、「宗教」や「イデオロギー」や

「占い」などの“脚本”に頼り始める人も大勢いますね。

「こう演じなさい」と確固たる指示を与えてくれますから。

(まわりは、たまったもんじゃないですね。勝手に台本を持

ち込んで、まわりのストーリーと無関係な芝居を始めて、更

には、まわりにも自分の台本に従うように強要してきますも

のね)


 ことほど左様に、わたしたちは“ストーリー”を必要とし、

その中に落ち着く為には、「自分」というものを“言葉”で位

置づけたいのです。しかし、必ず挫折します。

 「自分は何者か?」と問うても、その答えは“言葉”になり

ません。答えは“言葉”の外にあります。“言葉”になりません

から、「自分」をストーリーの中に位置づける役には立ちま

せん。

「この心許なさ、寄る辺の無さをどうしたらいいのだ・・」

 その深い焦燥から逃れる為、また違うストーリーを求める

ということが繰り返されます。それは、恋愛だったり結婚だ

ったり、ビジネスやスポーツや趣味だつたり、家族・友人だ

ったりと、ありとあらゆるものに・・・。

 (「六道に輪廻する」とは、そういうことでしょう)


 どうすればいいのでしょう?

 「自分は何者か?」

 “納得できる答え”は無いのでしょうか?
 

 答えが“言葉”の中に無いのなら、“言葉”の外を探すしかあ

りません。

 「“言葉”の外の自分」に訊いてみるしかないでしょう。

  “言葉”の外に「自分」が在るのは確かです。

 「“言葉”にならない自分」が在ります。


 その「自分」に訊いてみる。ただし、「“言葉”の外」です

から、“言葉”で訊くことは出来ません。むしろ“言葉”は邪魔

になります。では、どうやって?


 “言葉”から離れることですね。

 よく「無になる」とか言いますけど、そんなの無理です。

“言葉”は止まることなく湧いてきます。(言葉と共に映像や

さまざまな感覚も湧いてきます)「無」になんかなれません

から、“言葉”が湧いて来ても「言葉は言葉にすぎない」と知

っておくことです。“言葉”に力を持たせないようにすること

です。

 すると、どうなるか?

 答えは聞こえて来たりしません。

 答えは〈実際〉として、そこに在ります。

 言葉の外に在ります。

 “言葉”が力を削がれると、〈実際〉が見えて来ます。

 そこに〈自分〉が在ります。〈自分〉を一瞥することが出

来ます。〈自分〉の全貌は見えないとしても・・・。

 そして、“ストーリー”の外にも「自分」が在ることに気付

きます。むしろ、それが「本来の自分」だと。


 「自分は何者か?」

 「自分は自分です」


 ただし、言葉に出来ない「自分」です。


 “言葉”(アタマ)に権限を与え過ぎないことです。

 “ストーリー”は、「余興」だと考えるべきです。

 人生は“オマケ”です。 
 

 さて、あなたは何者でしょうか?



 以前、TVで舞踏家の 麿 赤児 という方が「言葉は病気」

だと仰っていました。ホントにその通りだと思います。

 《 “言葉”は、人間の持病 》ですね。

 上手く付き合うしかありません。

 入れ込まない様に、たしなむ程度に。

 “言葉”に〈自分〉を消されない様に。

 どうぞ“御自愛”下さい。






 

2017年6月18日日曜日

人生の意味 ?

 昨日、〈意味〉について書きましたが、わたしたちはよく

「意味が無い」とか言いますよね。「おまえの言ってること

は意味が無い」とか、「そのやり方じゃ、意味が無い」と

か。

 この場合の「意味が無い」は、「価値が無い」とか「役に

立たない」とかいう意味ですね。

 このような表現をするということは、「価値が有る」こと

「役に立つ」ことを「意味が有る」と考えるのが、一般的だ

ということです。

 「人生の意味」と言う時、わたしたちは自分が「役に立

つ」ことで、人生に「価値」を持たせたいと思っているわけ

です。何故、人生に「価値」を持たせたいんでしょうか?



 「そりゃそうでしょ。誰だって自分の人生が価値の無いも

のだなんて(自分が役立たずだなんて)思いたくないでし

ょ」


 そう思う人が大多数でしょうが、「人生に価値が無かった


ら」いけないんでしょうか?

 価値があったとして、それが何なんでしょう?

 価値が無かったら、何か困るのでしょうか?

 そもそも「人生の価値」・「人生の意味」とは何でしょ

う?

 「自分の人生にどんな価値があったか?」  評価という

のは、過去に対してなされるものです  というのは、死ん

だ時に決定するものですよね。学校の成績の様に、区切り区

切りで評価することもできるでしょうが、それはやっぱり途

中経過でしかないですよね。「六十歳まで真面目に働いてい

た人が、定年離婚されたのをきっかけに、ギャンブル依存症

になって、多額の借金を作って自己破産」なんてケースもあ

りますからね。こんな場合、「二学期までは、オール5だっ

たけど、三学期に成績がガタ落ちして、卒業出来ず」って感

じですね。やはり、「人生の価値」は死んだ時に決めましょ

う。


 というわけで、「価値」を決めるんですが、その為に

は、“評価基準”が必要なわけです。

 いったい、何を以て人生を評価するんでしょうか?

 どんな事を成し遂げたら、評価に値するんでしょうか?

 ・・・今、話の流れで“どんな事を成し遂げたら”と書いて

しまいましたが、「人生の価値(意味)」とは、“何かを成

し遂げること”というイメージが、私の中にも刷り込まれて

いるようです。私の様なへそ曲がりでも、その様に考えてし

まうということは、普通の人(私は普通じゃない!?)の考

えは推して知るべしですね。

 「人生は、何を成し遂げたかで価値が決まる」

 多くの人が、そう思っているんじゃないでしょうか。

 でも、本当にそうでしょうか?

 「何を成し遂げたか」で価値が決まるんでしょうか?

 そもそも、価値が決められるのでしょうか? 



 とりあえず、「何を成し遂げたか」で「人生の価値」が決


まるとしましょう。では、「何?」が、評価に値するのでし

ょう?

 “社会的成功”でしょうか? 「名声を得る」・「財を成

す」・・・。他に思い浮かびませんが、“社会的成功”という

のは、「財を成す」以外のことは、すべて大なり小なり「名

声を得る」ということで括ってしまえるようです。

 では“社会的成功”の他には何が有るでしょう。

 それは当然“個人的成功”ということになるはずです。

 つまり、「生活」・「遊び」で責任を果たしたり、良く楽

しんだり出来たということになるのでしょう。「良く生活

し」・「良く遊ぶ」と。

 それ以外は・・、思いつきません。おおまかに分けると、

「人生の価値」というのは、この位のカテゴリーしか無い様

です。

 “価値の種類”については確認できたので、それらが本当に

「人生の価値」たり得るのかを考えてみましょう。



 「財を成す」こと=人に羨ましがられます。羨ましがられ

るのが好きな人にとっては、価値のあることですね。 一方

で、「財を成す」為には搾取することが必要です(「少しお

金に余裕がある」程度は別にしておきましょう)。それは、

搾取される側を損ない、非難されることですから、マイナス

の価値といえます

 「名声を得る」こと=人に褒められることです。褒められ

るのが好きな人にとっては、価値が有ることです。褒められ

れば、誰だって嬉しいので、誰にとっても価値のあることで

しょうね。一方で、「名声を得る」と必ず誰かに妬まれま

す。それは、“妬まれる側”・“妬む側” 双方の精神的健康に

害を成すものですから、マイナスの価値です。

 「良く生活する」こと=「良く~」ですから、良いんで

す。価値があります。また、「良く~」ですからマイナスの

価値はありません。

 「良く遊ぶ」こと=やはり「良く~」ですから、良いんで

す。マイナスの価値もありません。

 しかし、「良く生活する・良く遊ぶ」の「良く」とは、何

でしょう? 考えてみると「良く」という言葉には、“質”に

対して肯定的なだけではなく、「長い間」という“継続”を評

価する意味もあるので、「良く」=「安定して継続できる」

とするのが妥当だろうと思います。思いますので、そういう

事にしておきましょう。
 

 では、これらが「人生の価値たり得る」のでしょうか?

 “社会的成功”は、他人の評価がなければ成立しません。

「名声を得る」のは、当然他人からですから言うまでもない

ことです。「財を成す」のも、例え百億円の資産を築いたと

しても、誰も評価してくれなければ、虚しく感じることでし

ょう。どちらにしても、人が「凄いね!」と言ってくれて初

めて、満足が得られるはずです。ですから、他人に評価して

もらいたい人は、こちらの価値を求めるでしょう。

 一方、“個人的成功”は、当然「自己評価」になります。他

人は関係ない。関係があるとすれば、家族や友人  要する

に身内ですが、“身の内”ですから自己評価としておいてよい

でしょう。


 さて、“社会的成功”は「他人の評価」、“個人的成功”は

「自己評価」としたんですが、実は“社会的成功”も「他人の

評価を必要とする」だけで、結局「自己評価」です。「他人

の評価」が得られて初めて「自分で満足する」わけです。

 そして“個人的成功”は、「自分で評価して、自分で満足す

る」のです。どちらにしても、つまるところ〈自己満足〉で

す。

 当たり前といえば、こんな当たり前なこともない訳で、

「人生の価値」とは「人生に満足しているか?」ということ

であって、「自分が満足」ならそれで価値があるんですね。

(えらく持って廻って恐縮ですが、「人生の価値(意味)」

なんていう重たい話ですから、持って廻らずに〈一刀両断〉

にしてしまうと、かなり不愉快な思いにさせるでしょうから

ね)


 (当人から見た)「人生の価値(意味)」というのは、

「自己満足」です。

 「自己満足」ですから、「満足」できれば何でもいい。

 逆に、どんなに凄い事を成し遂げても、「満足」出来なけ

れば、「価値(意味)が無い」。


 例えば、ビル・ゲイツが街を歩いると、通りすがりの女性

が近付いて来て「この、守銭奴!」と罵ったとしましょう。

 彼はたぶん、一生その事を忘れることが出来ず、自分の

「人生の価値」を確信することが出来なくなるでしょう  

彼がサイコパスでなければ。(ビル・ゲイツが「守銭奴だ」

というわけではありませんよ。“自分が持ちすぎていること

に平気な人”だと思うだけです)

 例えば、アインシュタインが広島への原爆投下を知った

時、今まで自分が成し遂げて来た事が、すべて汚染された様

な気がしたことでしょう。

 例えば、何十年も誠実に働き、家族への気遣いも忘れなか

った夫が、高齢になったある日「貴方と結婚したのは、間違

いだった」と妻に言われたら? 自分の人生のほとんどが間

違いだったと感じるでしょう。


 何を言ってるかというと、わたしたちの「自己満足(自己

評価)」というものは、誰かのほんの一言で、何か一つの出

来事で、一瞬に壊れてしまいかねないものだということで

す。

 わたしたちが、常識的に「人生に於いて価値(意味)が有

る」と考えていることの多くは、とても頼りない、脆いもの

です。

 そうして見た時、人生に「価値(意味)」を求めること

が、〈価値(意味)〉の有ることなのか?


 《 人生に意味を求めることに、意味は無い 》


 私は、その様に思います。

 必要なのは、「価値(意味)」ではなく「満足」で

す。“肯定すること”です。

 世の中や、誰かの基準を引き合いに出して、「自分の人

生」を評価する必要はありません。もちろん、今、自分の人

生に満足出来ているのなら、それでいいんです。ただ、人と

人との間で認め合う様なこととは違うところに、“揺るぎな

い絶対の価値”があるのです。

 わたしたち一人一人は、この宇宙が始まってから終わるま

での間に、今のほんのひと時しか存在しないものです。

 本来、人間社会の基準で評価したり出来るようなものでは

無いのです。

 そりゃあ世の中には、“世の中の基準”というものがありま

すし、わたしたちはそれを無視して生きては行けません。

 でも、〈自分〉というものの〈意味〉を知ろうとする時、

“人間の約束事”でしかないもので、〈自分〉という空前絶後

の存在を量るのは、愚かな事だと思うのです。
 

 「自分」というものは、望まれたかどうかは知りません

が、「宇宙」が生んだものである事は間違いありません。

 「自分」を肯定していいんです。

 「宇宙」に肯定されたのです。

 それ以上の理由が要りますか?

 
 「価値がある」とか「無い」とか関係なく、「自分」が

〈自分〉を生きて行く。 

 世の中を上手く生きられなくても、負け組でも、それはそ

れ。

 たとえ極悪人であっても、それは社会の中での話で、社会

の評価に預ければいい。それはそれです。

 辛かったり、惨めだったり、わけがわからなかったり、も

しかしたら狂っていたりするかも知れません。早くに死んじ

ゃうかも知れません。でも、それはそれです。

 そういう、世の中の評価よりずっと前に、「自分がある」

のです。わたしたちお互いに。
 

 《 みんな、それぞれ「自分」がある

         それ以上の価値はないのです 》


 そして、

 「自分があること」

 そこに、わたしたちが欲しがるような「意味」は無いので

す。


  

2017年6月17日土曜日

無意味な人生

 ちょっとばかり、〈意味〉の“意味”を考えてみる。
 

 のっけから、いきなり破綻してるんですが、人の考えの根

源的な事柄を考えようとすると、まず最初に破綻します。と

言うか、破綻から入ります。



 「〈意味〉の意味」なんて最悪です。他には、

 「〈正しいこと〉は正しいか?」とか、

 「〈自分〉のことを考えている“自分”とは誰か?」とか。



 それは、もう仕方のない事として、〈意味〉の“意味”です

が、まず漢字を分解してみましょう。



 「意」は、「音」の下に「心」と成っています。(「音」

を「立」と「日」に分解すると、収拾がつかなくなるので、

止めときます。・・・「味」の分解も止めておきましょ

う・・・、・・・えらいことに手を出したみたいです・・)

 ・・・・「意」というのは、“心の音”と採るか、“音の

心”と採るか? 〈音〉は五感の中の一つで、〈心〉の構成

要素か、あるいは〈心〉に入力される情報の一種なので、

〈心〉より下位の概念とした方がよいでしょう。ですから、

ここでは「意」は“心の音”と考えることにします。

 じゃぁ“心の音”というのをどう見るか?

 「心から出てくる音」あるいは、「心に響く音」。

 「心から出てくる」場合には、その時点で(アウトプット

される時点で)もうすでに「意味」を成していると考えるべ

きと思うので、これは採用しません。もちろん「心に入って

来る音」ではありません。入って来る情報に「意味」は有り

ません。その時点では、単なる“刺激”でしかありませんか

ら。

 ですから、「心に響く音」としましょう。(口から出まか

せですね)

 しかし、「心に響く・・」というのが、書いていてしっく

り来ません。・・・・・「響く」というより、「共鳴」とし

た方が良さそうです。心に入って来た刺激(情報)に対し

て、“ある特定の意識的反応”が“共鳴”した時、その刺激がそ

の“意識的反応”にコードされ、「意味」が付与されると。


 心(脳)に入って来た刺激は、最初に〈快〉・〈不快〉に

振り分けられると思います。その後、それぞれのカテゴリー

の中でさらに分類され(快・不快にも色々あります)、その

刺激の強さによって処理される。ここまでは、無意識のレベ

ルでのプロセスです。この時点でも「気持ちイイ」とかい

う、大雑把な〈意味〉はありますが、言葉として機能させて

ゆくような、詳細な〈意味〉が付与されるのはこの後になる

でしょう。

 “何が“・”どのように”・”どれぐらい”気持ちイイのか?

 そのようなことを認識する為には、わたしたちが受け取る

さまざまな刺激にラべリングする必要があります。

 単純な一次的ラべリング。それらを幾つか組み合わせた二

次的ラべリング。二次的ラべリングをさらに組み合わせた、

高次のラべリング。そうやって、それぞれの刺激に〈言葉〉

を対応させて定着させます。

 単漢字を組み合わせて、熟語ができ。熟語を組み合わせ

て、四文字熟語や文となる。(四文字熟語も文ですが)

 それらの、ラべリングが“意味付け”の工程ですね。ラべリ

ングしなければ、さまざまな刺激が混沌として区別できませ

ん。そのままでは、刺激(情報)のカオスのなかで、わたし

たちは自分の立ち位置が分からなくなってしまいます。

 “意味付け”は、わたしたちが自分の座標を定める為に、ど

うしても避けては通れないことです。


 「意味のない事」や「意味が理解出来ない事」に、わたし

たちは不安や不快を覚えます。“何か分からない物が空を飛

んでいる”時、分からないままにしておくより、〈UFO〉と

いう意味付けをした方が落ち着きます  〈UFO〉というの

も“何か分からない”ということでしかないですけどね。それ

で落ち着くのですから、人間はカワイイものです。

 そのように、わたしたち人間は“意味付け”をせずには、不

安で生きられません。ですから、どんな事にも〈意味〉を見

出そうとするのですが、その対象は人によって違ってしまい

ます。それが“社会性の違い”ですが、“個性”と呼んでも良い

場合もあるでしょう。


 株式に興味の無い人は、株に関する事柄の意味を保持しよ

うとはしませんし、サッカーに興味がなければ、DF・MF・

FDなどという記号に意味を求めません。生きて行くうちに

社会の中での自分の座標が固定されてゆき、その座標の枠か

ら外れたものには、意味を持たせる必要がなくなります。

「それが無くても、それが何か分からなくても、生きて行く

のに問題が無い」と判断するんですね。ブラック企業の経営

者には、“従業員の健康”なんかには「意味が無い」。人それ

ぞれに、自身の人生の座標があって、それ以外は「意味が無

い」し「重要ではない」。この、“座標の違い”が世の中に

様々な問題を生むんですね。  〈座標〉を〈価値観〉と言

ってもいいでしょう。


 〈意味〉とは“グラフの目盛”、あるいは“地図の区画や記

号”といったものですね。「わたしたちを世界の中に安定さ

せ、考え・行動する指標となるもの」・・・の筈なんです

が、困ったことに個々人の座標より世界は遥かに広い。その

上に、ひとりひとりが違った(そして不正確な)地図を頼り

にしているので、常に衝突し、さまざまな問題が止めどなく

起り続ける。(あなたの家は、土建屋からみれば「撤去すべ

き無用の建物」で「本来、空地であるべき場所」かも知れま

せん。使ってる地図が違うのです)


 わたしたちは自分の地図(意味付け)が、かなりいい加減

なものだと意識する必要がある。もともと、この世界には

〈意味〉など存在していない。〈意味〉を求めるのは、人が

人間の根源的な不安から逃れたい為で、それこそが人間の

〈業〉に他ならないわけですね。


 〈意味〉を求め、“意味付け”をして不安を消そうとするの

ですが、その〈意味〉が却って問題を生み、それどころかよ

り一層不安を増大させる・・・。仕方のないことです。

 しかし、人はその苦悩から逃れたい。そこで様々な宗教を

生み出し、数々の哲学者・思想家が現れ、占いに縋った。

「苦悩を具体的に消そう」と科学や政治に力を与えて来た。

しかし、それらは結局「大きめの座標(地図)」でしかな

く、座標の周縁で、より大きな問題を生みだしてさえいる。

 その苦悩から自由になる為には、〈意味〉から離れるしか

ないのでしょう。


 “意味の無い世界”に立つ。

 自分たちを取り巻く“意味”から離れて、世界を観る。

 “意味”から離れては生きられないのですが、“意味の無い

世界”を生きるベースとして、そこから“意味の世界”(世の

中)に意識を送り出して、具体的な暮らしの事柄をこなして

生きて行く。そこに、人が本当に求めるべき幸福があるんじ

ゃないかと。

 仏教や老荘思想の教えるところの根本は、そういうことで

しょう。


 《 世界は無意味です。  おあいにくさま。

             そして、おめでとう! 》