2017年10月7日土曜日

そういう事情なんです。


 一昨日、《 誰にでも事情がある 》と書きましたが、こ

れは随分前から思っていたことで、私としては新しいことで

は無かったんです。ですが、あのように書いたせいで考えが

少し進んだので、「事情」について、さらに書いておこうと

思います。



 《 誰にでも事情がある 》というより、

 「事情の中を生きている」と言った方がいいだろうと。

 さらに言えば、人間は「自分という事情を生きている」

と。



 《 世界という「事情」の中で

   自分という「事情」が生きている 》



 世界は、自分もひっくるめて、その時その時の「事情」が

存在しているのあって、個々のものが自律的に存在するので

は無い。

 《 世界は惰性で動いてる 》というのを、言い換えた形

なんですけど、もう少し分かり易いのではないかと思いま

す。



 「事情」というのが、“何の為の事情” か “どんな事情” か

なんて知りませんが、“そういう事情” なんでしょう。

 “そういう” なんて、まったく掴み所の無い言い様です

が、そういうしかないですね。



 例えば、勤め先が倒産したのなら、“勤め先が倒産したと

いう事情” ですね。

 頭が悪いのなら、“頭が悪いという事情” です。

 「ガンになった」のなら、“ガンになったという事情”、 

これから氷河期になるのだとしたら、“これから氷河期にな

るという事情”  です。

 世界がどうあろうと、自分がどんな人間で、どんな生き方

をしようと、“そういう事情” だということです。



 喜ばしいことが起きても、喜び難いことが起きても、“そ

ういう事情” なんだから、「そういうことね。」と受け止め

るしかないのだろうと。いや、そう受け止めた方がいいだろ

うと思います。



 ニュアンスとして分かってもらえると思いますが、「そう

いうことね。」と呟く時、その言葉の中には “寛容” と “ユ

ーモア” と “覚悟” が含まれています。

 この、“寛容” と “ユーモア” と “覚悟” には、「事情」を

自分の物にしてしまう働きが有ります。



 「世界という事情」と「自分という事情」から〈出来事〉

が生まれ、自分のあずかり知らぬ働きで動いて行きますが、

むやみにそれに抗ったり、コントロールしようとしたりする

と、その〈出来事〉に巻き込まれてしまい、「自分という事

情」が、「世界という事情」の中で形を失ってしまいます。

「自分」を見失います。

 ですが、“寛容” と “ユーモア” と “覚悟” をまとえば、そ

れがライフジャケットの様な働きをして、〈出来事〉の流れ

に揉みくちゃにされずに、〈出来事〉と共に流れて行くこと

が出来ます。「そういうことね。」と、〈出来事〉を眺める

余裕が生まれます。



 世界は、自分の都合に合わせて動いてくれません。

 自分自身も、自分の都合に合わせてくれません。

 どんな「事情」であろうとも、「そういうことね。」と一

歩引く事が出来るのは、人間だけだろうと思うのです。

 その時、「一歩引く」ことが出来るのは私たちの〈意識〉

だけですが、この “一歩引いた〈意識〉” こそが、自分に与

えられた〈あるべき自分〉であって、その〈意識〉の中に居

ることが、「本当のしあわせ」なんだろうと思いますし、

“自分がその〈意識〉を持てる” というのは、「最も幸運な

事情」なんだと思います。



 《 「そういうことだよ。」と世界が言う。

   「そういうことね。」とわたしが言う。

    宇宙の中で、なにかがほほ笑む。  》



 分かってもらえるかなぁ。この感じ・・・。



2017年10月6日金曜日

ボブの絵画教室が好きだった


 「ボブの絵画教室」というテレビ番組をご存知ですか?

 もう二十数年前に、NHK BSで放送されてた、アメリカの

番組です。

 ボブ・ロスという画家が、三十分の放送時間の中で、油絵

の美しい風景画を一から描き上げるという番組で、その絵の

クオリティの高さと手際の良さ、話の面白さから結構な人気

があった様です。


 初めて観た時、ボブさんの筆先から、魔法の様に山や木や

川や雲が生まれて来るのに、ビックリしてしまいました。そ

んな絵の描き方があるなんて、考えてみたことも無かったか

らです。

 残念ながら、ボブさんは52歳で亡くなり、番組も終了。

 でも、今でもいくつかの作品と話は覚えています。


 ボブさんがよく、こう言っていました。

 「好きなように描いて良いんですよ。あなたの絵なんです

からね。わたしは、やり方をお教えしているだけです。気楽

に、楽しんで描いて下さい。あなたの世界なんです」

 単に、絵のことだけを言っているのではないだろうと思い

ます。

 それと、とても印象に残っている言葉があります。

 「失敗なんかありません! すべては、楽しいハプニン

グ!」

 実際に、失敗した絵を潰して、それを元に新たな絵を描き

上げるという回もありました。


 ミスや想定外の出来事を、「トラブル」と呼ぶか「ハプニ

ング」と呼ぶかで、対応の自由度は大きく変わると思いま

す。想定外の出来事だからこそ、上手に対応すれば想定外の

結果を得られる場合もあります(ペニシリンの発見だと

か)。想定通りに進めば、想定通りの結果しか出ませんもの

ね。もちろん、想定通りに進まなければ困ることの方が多い

わけですが。


 考えてみれば、わたしたちが想定出来ることは、ほんの僅

かな事でしかありませんし、それはあくまで「想定」であっ

て、「確定」ではありません。

 わたしたち現代人は、「想定」を「確定」と思い違いして

いる節がある。次の瞬間、何が起こるか分からないのに。


 車で街の中を走っていると、旅客機の部品が落ちて来て車

にぶち当たるといった事が起ります。

 そんな極端な話でなくとも、売り出し商品を目当てにスー

パーに出かけたら、早くに売り切れていてブツクサ言う羽目

になるなんていうのは、日常茶飯事ですね。


 このブログも、書き進めてゆくと、書こうとしたことが何

処かへ行ってしまう事がよくあります。「これ、どうなっち

ゃうんだろう・・」と思いつつ続けていると、書いてる本人

が「なるほどな・・」と、感心してしまう文章が生まれて来

ることがあります。自分の書いた文章に、自分が教えられて

しまうのです。まさに「楽しいハプニング!」。(この事か

らも、“自分が考えてから動いているのでは無い” というこ

とが分かります。ある “考え” を生み出す為に、考えさせら

れている様です)


 とはいえ、「ハプニング」ばかりでは困ってしまいます。

 何も想定通りに行かなくなってしまいます。
 

 「何も想定しなけりゃいい」というのも、 “有り” かも

知れません。想定しなければ、「ハプニング」も「トラブ

ル」も起きようがありません。が、そんな事は無理ですね。

 想定無しに生きたら、そう長く命は続かないでしょう。

 その日の内に、車にはねられそうです。
 

 やはり、想定無しには生きられません。

 ですが、「想定」や「予定」にこだわり過ぎて、「こうで

なければいけない」とか「○○であるべきだ」とか、たいへ

ん窮屈になっているのが、今の日本の社会だと思います。

 コントロール願望が強すぎて、いろいろな軋轢を起こして

います。思い通りにしたがり過ぎです。


 《 思い通りになっても、思い通りになるだけです 》


 ボブさんの言うように、「すべては楽しいハプニング!」

という気構えで居れば、人生は思いがけず楽しい事にあふれ

ているのかも知れませんね。

 私が「ボブの絵画教室」で教わった、一番役立つ “やり

方” は、「すべては楽しいハプニング!」という面白がり方

だった様です。





 

2017年10月5日木曜日

誰にでも事情がある


 この前、チェット ベイカーについて書きましたが、彼が

何故ヘロインに手を出したのか、そのあたりの事情を私は知

りません。別に知りたいとも思っていません。そんなこと知

っても仕方ないですからね。

 本人自身が認識しているかどうかに関わらず、当時ヘロイ

ンに手を出してしまう「事情」が有ったわけです。そして、

薬物を使い続ける「事情」が有り、トランペットを吹き続け

る「事情」が有り、ホテルの窓から転落する「事情」が有っ

たわけです。

 彼には彼の、止むに止まれぬ「事情」があって、あの様な

人生を送った。それを、他の人間がなんだかんだと批判した

り、面白おかしく話題にしたりする。それは、まぁ仕方のな

い事だろう。


 わたしたちは他人の事を話題にする時に、「他にやり様が

無かったのか」とか「一体、何を考えてあんな事をしたん

だ」とか、済んでしまった事をとやかく言うのが常です。

 「何で・・?」と言ったって、当人には当人の「事情」が

有ったわけです。


 誰にでも「事情」が有ります。

 私にも「事情」が有ります。それは、生得的な事、生い立

ち、さまざまな経験、身体の状態、あたまの程度、経済状

況、家庭の状況、友人関係、仕事にまつわる事、興味の対

象、生活環境、今居る所の気象条件、などなど、無数の「事

情」がその時その時の私を取り巻いています。

 それは、あなたも同じ事ですし、金 正恩も、ドナルド ト

ランプも、イーロン マスクも、テイラー スウィフトも、全て

の人間のみならず、おなかの中の大腸菌も、近所の野良猫

も、地球も太陽も銀河も宇宙も、石ころも空き缶も、それぞ

れの「事情」を抱えています。


 他人が「何で?」なんて思っても、当の本人だって「何で

か?」なんて分からない。

 せいぜい、自分を取り巻いている「事情」の一端が分かる

だけですし、「事情の一端が分かった」という事が、“「事

情の一端が分かった」という新たな事情” として加えられる

だけでしかありません。気が付いたら「そうしてしまって

る」のです。


 すごく立派な、思いやりにあふれた行ないをする人もいれ

ば、冷酷非道な行ないをする人もいる。

 それは、その人の「事情」がそうさせるのであって、その

人が「そうしたい」と思った結果であっても、「そうした

い」と思わせた「事情」が有るわけです。


 すべてのものが「事情」に動かされているだけです。

 人が犯罪や犯罪的な行為をするのも、「事情」が有るわけ

だし、その犯罪や犯罪的行為を、非難し、罰を与えたりする

のも「事情」が有るわけです。

 妻にも夫にも息子にも娘にも、それぞれの「事情」があっ

て、どうしようもなく “泣いたり” “笑ったり” しています。


 昨日は、「理由」について書きましたが、わたしたちが自

らを振り返る時。無数の「事情」に取り巻かれ、その「事

情」に押し出される様に “今” を生きている事に気付きま

す。

 言い訳をする時には、言い訳をしてしまう「事情」が有る

のだし、言い訳を不愉快に感じる方にも、不愉快を感じる

「事情」が有る。

 地震が起きるのだって「地球の事情」です。


 《 誰にでも事情がある 》


 どうしようもないのです。
 

 わたしたちは、日々、さまざまな事に悩まされ、困らさ

れ、傷付けられて生きています。

 声を荒げたくなる時。

 溜め息を吐きたくなる時。

 歯ぎしりをしたくなる時

 《 誰にでも事情がある 》

 そう呟いてみれば、「その人」を、「その事」を、そして

「自分」を、すこし許せるのではないでしょうか?

 すこし許せれば、すこし気持ちは安らぐのではないでしょ

うか? すこし生き易くなるのではないでしょうか?
 

 誰もが、「どうしようもなく」生きています。

 本当は、〈善意〉も〈悪意〉もありません。

 “善を行なってしまう人” と “悪を行なってしまう人” があ

るだけです。

 それらの人が、それなりの扱いを受けるのも「どうしよう

もありません」。そういう「事情」です・・・。


 そういえば、種田山頭火がこんな句を遺しているそうで

す。


 【 どうしようもない わたしが歩いている 】


 ただ生きている。ただ生きてゆく・・・。

 ・・・そんな、想いなんでしょうね。



 このブログが、あなたの「少し気持ちが安らぐ “事情”」

 になれば、幸いです。



2017年10月4日水曜日

理由、理由、理由・・・・


 《 しあわせになるのに、理由は要らない 》


 そう書いたのは、もう何ヶ月も前ですが、今日、もうひと

つ気が付いた事があります。


 《 理由を求めるから、不幸せになる 》


 「理由」≒言い訳・釈明・申し開き・言い逃れ・逃げ口上

      説明・証明・反論・成り立ち・言い分・泣き言

      反省・ごまかし・へらず口・屁理屈・・・・ 

       (まあ、こんなもんかな・・)


 科学や技術に関することは一応別にして、人間関係の中に

顔を出す「理由」や、その周辺のことは、およそネガティブ

なものばっかりです。


 遅刻した・失敗した・間違えた・やり過ぎた・出来なかっ

た・・・・。わたしたちは、毎日毎日、日に何度も、「言い

訳」する為に「理由」を探し、考えます。

 それは、誰かに対してだけではなく、自分に対しても同じ

です。

 「どう説明しようか・・・」

 それだけのことに、エネルギーと時間を使います。


 遅刻した・失敗した・間違えた・やり過ぎた・出来なかっ

た・・・・。わたしたちは、毎日毎日、誰かに向かって、

「説明」を求め、「理由」を語らせます。

 「納得のいく話を聞かせてもらおうか。」

 時に「不安」に、時に「不機嫌」に、エネルギーと時間を

使います。


 こんなことは、わたしたちが、ごく普通に、日常的に経験

していることですが、“理由を考える時” も “理由を求める

時” も、どちらの場合でも大抵気分は良くありません。


 “理由を考える時” 、わたしたちは “ある人” に「怒られな

い様に」とか「失望させない様に」という思いにかられてい

ます。また、「自信」を失くさないように、自分に対して言

い訳をします。


 “理由を求める時” 、わたしたちは “ある人” に「自分を怒

らせた償い」や「ガッカリさせた補償」などをさせようとし

ています。

 どちらにしても、楽しいものではありません。

 もしもデートに遅刻した時、「どうして遅れたの😊」と彼

女がニッコリ笑ったら? 却って怖いかも知れません。


 「理由」というものが必要になる時は、わたしたちにとっ

てハッピーな状況ではありません。

 しかし、なんだって「理由」を求めるのでしょうか?

 「理由」があったら、良いことがあるのでしょうか?

 考えてみたんですが、「理由」が有ったからと言って、何

か良いことが有るとは思えないんですね。


 人に「理由」を訊ねる時って、何か問題がある時なんです

ね。

 冷静に、「問題解決の為に、ただ事情を知りたい」という

事も、もちろん有りますが、多くの場合は「理由」を訊ねる

時点で、訪ねる方はすでに不機嫌になっています。問題をど

うするこうするという事は二の次で、“自分を不機嫌にさせ

た目の前の人間“ を責めたい訳です。“報復” か “威嚇” であ

り、相手を「否定」しに掛かっている。


 そういう事ですから、逆に、人に「理由」を説明する時

は、“報復” や “威嚇” を怖れて、それを回避しようとしてい

るのです。一言で言えば、「否定されない様に努める」訳で

す。また、自分に言い訳をしている時は、「自分を否定した

くない」という心理ですね。
 

 「理由」を考える側と、考えさせる側が居て、その間に有

るのは「否定感情」です。

 こうして見て来ると、「理由を言う」「理由を言わせる」

という行為は、人間関係における “卑屈さ” と “傲慢さ” の

温床ですね。

 「理由」を考えさせる側は、あいての弱み(失敗など)に

乗じて、自分の優位を確認しようとしているのだし、「理

由」を考える側は、自分の弱みを責められない様に、なんと

か取り繕いたいんですね。どちらにしても、“みっともない”

と思いませんか?


 昔の話になるんですが、私の高校時代の担任の先生は、

“生徒を疑う” という事を一切しませんでした。

 私は、そんなに真面目な生徒でも無かったので、仮病を使

って、しばしば欠席・早退をして、友達と一緒に学校をサボ

っていました。

 早退を申し出る時など、先生に「気分が悪いんで帰らせて

下さい・・」と言うと、言下に「あぁ、そうか。そりゃぁ、

身体が一番大事だ!帰りなさい、帰りなさい!」と、全く疑

う素振りなど見せず、優しく返事をしてくれました。

 誰に対してもそうだった様で、そんな事が三度も続くと、

却って自分が恥ずかしくなって来て、もう仮病を使えなくな

ってしまいました。(とは言っても、その後も何度かはサボ

りましたけどね。三年間、持ち上がりの担任でしたから)


 先生にすれば、生徒の仮病なんてお見通しだったはずで、

「どうせ、残らせても、授業に身が入るわけないんだから、

いじけさせたりするだけ無駄だ。『自分がした事は、自分で

責任を取ることになる』という事に、いずれ自分で気付くだ

ろう」という目算が有ったに違いない。

 ホントに偉い先生でした。

 この事は、私に大きな影響を与えたと思います。

 (高校で学んだ事は、もしかしたらこれだけかも
  
  知れない・・)


 “自分の失敗” や “自分の至らなさ” というものは、本人が

自分で分っていて、身に滲みているものです。

 そして、人は誰でも「失敗し」「自分の至らなさを嘆く」

ものです。

 お互い様でしかないのに、自分が優位に立つや否や、相手

を責め始める・・。情けない根性です。

 そうやって、誰もが他人の “失敗” や “人間的な弱さ” を

責め合うものだから、誰もが自分の “失敗” や “弱さ” を正

当化しようと、その「理由」探しに腐心する。

 自分の “傲慢さ” が、次の時には自分の “卑屈さ” となっ

て、自身を苛むことになる。

 “傲慢” も “卑屈” も、不幸でしょう?


 「理由」なんて求めても、大抵意味が無いんです。人を不

幸にし、人間関係を悪くさせるばっかりです。

 私の高校の先生の様に、「理由」なんか求めない方が、お

互いに良いのです。「理由」が分かったところで、起ってし

まった事は戻せないし、責めたところで、言われる方は恨み

を持つだけです。次の機会には立場が逆転して、倍返しされ

るかも知れません。みんな失敗するんですから。


 途中で書いた様に、「問題解決の為に、事情を知る必要が

ある」といった時以外、「理由」なんて要らないんです。そ

う思いません?


 「理由を言わせる」方が害が大きいと思うけれど、「理由

を考える」のも、ただただムダで、鬱屈するだけです。

 失敗したって、自分の出来が悪かったって、人間ってそう

いうもんだから  みんな出来損ないだから  いちいち言

い訳を探さなくったって、「ごめんなさい」の一言で終る話

なんです。それが通らないとしたら、相手がロクでもないク

ズ野郎なんだから、知らん顔して放って置けばいい。いずれ

『自分がした事は、自分が責任をとることになる』だけだか

ら、その責めは当人に返って来る。


 滲み付いた習慣は、簡単には変えられないけれど、自分の

為、相手の為に、《 余計な「理由」は、クズかごへ! 》


 「理由」を求めない世界は安らかな世界だと思いますよ。







2017年10月3日火曜日

チェット ベイカーの絶望


 チェット ベイカーという人が居ました。

 「居ました」と言うのは、もう亡くなっているからです

が、アメリカのジャズトランぺッターで歌手、ヘロイン中毒

者で1988年に謎の転落死を遂げます。58歳でした。

 ジャズファンであれば大抵知っている有名なミュージシャ

ンですが、日本のジャズファンには、いまいち評価されてい

ないのではないかという気がします。どちらかといえば、

“キワモノ” という扱いなんだろうなと思います。


 私は、多少ジャズも聴きますが、ジャズのことは詳しくあ

りません。マイルス デイビスとかビル エバンスとかジョン 

コルトレーンといった超大物を知っている程度です。チェッ

トベイカーについても全然知らなかったんですが、三年前

に、You Tubeでルシアナ ソウザという歌手の動画を探して

いた時、彼の動画に出会いました。


 黒いスーツを着た青年が独り、パイプ椅子に座り、うつむ

いてトランペットを吹いているモノクロの写真。

 その雰囲気に惹かれ、動画を再生しました。


 「Almost Blue」Chet Baker。


 ゆったりとして、抒情的だけれど沈んだトーンのピアノが

始まり、20秒ほどして、トランペットが鳴り出したとた

ん、その世界に引き込まれてしまいました。

 なんと暗く、冷たく、孤独な音・・・。


 「絶望」・・・。


 すぐにその言葉が浮かびました。


 この時点で、私はチェットについて(破滅的な人間である

という)何の知識もありませんでしたから、掛け値なしに、

彼の奏でるトランペットが、私に「絶望」をイメージさせた

のです。

 そして、トランペットが終り、チェットの歌が始まりまし

た・・・、「うぅっ・・」と、私は呻いたかも知れません。

 またしても、「絶望」・・・。


 「・・この人は、なんという所に居るのだ・・・」


 そんな想いに囚われました。・・・ですが、不思議に、聴

くのが嫌になるという事はありませんでした。

 暗く、冷たく、孤独で、「絶望」を満たしながらも、嫌悪

感や怖れを感じたりはせず、何故か引き込まれてしまう。

 そして、一年が経った頃、私の手元には三十枚余りのチェ

ットのCDがありました。


 チェット ベイカーの人となりを知り、暗い曲ばかりでな

い事も知り、私が聴いた「Almost Blue」が、チェットの

遺した膨大なプレイの中で、最も「絶望」をまとっている演

奏のひとつだという事も知りました。けれど、私のチェット

に対するイメージは、やはり「絶望」です。

 そんな「絶望」をまとった音楽に、何故これほど惹かれて

しまうのか? チェットの音楽の良さとは何なのか?

 分からなくて、ずっと考えていたのですが、ある日、やは

り「Almost Blue」を聴いていて思いました。


 「これは、完全な絶望の故の〈安らぎ〉なんじゃないだろ

うか・・・」


 「完全な絶望」。

 もう、これ以上堕ちる事が無い。

 人生の底に落ち着いてしまっている。

 もう不安に成り様が無い。

 それが、不思議な安らぎを生むんじゃないだろうかと思っ

たのです。


 「達観」とか「諦観」といった高級なものではない。

 「怖れ」に麻痺してしまったと言うのが正解かも知れな

い。


 さまざまなトラブルを繰り返しながらも  死に方はとも

かくとして  薬物に殺されずに演奏を続け、不思議な音楽

の縁によって、類稀なる音を遺した。

 こんな音、後にも先にもありませんよ。きっと。


 破滅的な表現者って、自己破壊的にエネルギーをぶちまけ

て、崩壊しちゃうもんです。

 普通なら、チェットだってヘロイン中毒でもっと早く死ん

じゃうか、演奏者としての道を絶たれたはずなんです。

 ところが、そうは成らなかった。

 ヨレヨレに成りながら、死の直前までトランペットを吹

き、歌を歌い続けた・・・。(「ピンピン、ころり」じゃな

いよ。「ぐだぐだ、ドスン・・」なんだから)
 

 その生き方と演奏技術(テクニックは、凄いというほどじ

ゃない。歌もトランペットも)や、ジャズの世界でのポジシ

ョンなどから、日本では、どちらかといえば “キワモノ” と

して扱われているであろうチェットだけど、その一方でプロ

のミュージシャンや音楽ファンの中には、深く心酔している

者も多い様で、伝記的な映画も二本作られている。


 「自己中心的なヤク中で、救いがたい人間」といった話も

有るようだけど、自身のプレイに対する態度は真摯だったと

もいうし、彼のCDを聴いていると、共演者が彼とのプレイ

を喜んでいる様に感じる。


 マイルス デイビスを引き合いに出すと、怒る人がいっぱ

い居るだろうけど、マイルスの演奏には、途轍もない緊張と

戦いがある(体調の悪い時は、聴けません)。そして、それ

がマイルスの魅力だけど、チェットの演奏にはリラックスと

愛がある。

 チェットが愛を持っているのではなくて、チェットに対す

る愛が伝わってくる気がする。

   最後の作品である「THE LAST GREAT CONCERT」の

ストリングスなんて、愛が溢れてる!


 なんだか、チェットは “お地蔵さん” みたいだね。

 悲しみを浮かべているのか? 笑っているのか?

 表情がよく分からなくなっているけれど、周りから大事に

されている・・・。地蔵菩薩は地獄まで行っちゃうんだし。


 《 完全な成功と、完全な敗北は

         人を同じところに連れて行く 》 


 そんな、言葉が浮かんで来ました・・・。


 チェット ベイカーの音楽は、〈慈悲〉に気付かせる。

 (これは、言い過ぎです!)


 さあ、「Let's Get Lost」でも聴こうか。



 
 

合理的なバカにならない為に


 人は合理的であろうと望むものですが、悲しいかなそれは

叶いません。(「合理的であろう」なんて、思いもしない人

もいますね)

 「ある文脈の中」や「一定の時間の中」でなら、合理的に

考え、合理的な行動を執ることもできるでしょうが、それは

長くは続きません。わたしたちの存在自体が不合理なんです

から。
 

 《 理屈と膏薬は何処にでも付く 》という言葉がありま

す。(若い人は「膏薬」が何か分からないでしょうから、説

明しておきますね。「膏薬」とは、「湿布薬」のことです。

私の親より上の世代の言葉で、昭和40年代ぐらいまで使わ

れていた言葉です)

 「理屈はどこにでも付けられる」ということを、からかっ

た言葉ですね。

 口角泡を飛ばして、自分の方が筋が通っているとか、

理屈が合っているとか言い立てる人間を、揶揄しているので

す。

 何故、「揶揄する」かというと、理屈を言い立てて自分の

正当性を主張する人間は “胡散臭い” からです。


 人が自分の正当性を言い立てる場合には、二つの理由が考

えられます。

 一つには、「周りが納得していない」。

 もう一つは、「自分で、自分の正当性に確信が無い」。


 一つ目は、当然ですね。周りが納得しているのなら、ギャ

ーギャー言う必要なんて無い。

 二つ目は  心理学者に訊いたわけではありませんが  

自分に自信が無いと、人は力尽くで主導権を獲ろうとするの

で、声が大きく、饒舌になるからです。(私は、この考えに

確信があるので、これ以上説明しません)

 こういった人は理屈を言い立てていながら、理屈の正しさ

ではなく、他者の承認を得ることが目的なのです。

 「理屈」を認めて貰いたいのではなく、「自分」を認めて

貰いたいのですが、建前では「理屈」の正しさを主張してい

る。その “すり替え” が胡散臭いんですね。
 

  余談ですが、“胡散臭い” っていい言葉ですねぇ。私、

大好きです。この言葉の響き・フィーリングと、その意味す

るところの絶妙なフィット感!この言葉が無かったら、この

感じをどう表現するのか・・。“インチキ臭い” というのも

あるけど、少し違うし・・。でも、どちらも “臭い” ですか

ら、人の「ズル」は〈嗅ぎ分けるもの〉なんですね。  


 その “胡散臭い” 人間が、自説に都合の良い「理屈」を付

ける様に、「理屈」はどの様にでも、どこにでも付けられ

る。

 来る日も来る日も、世界中で人々が議論や口論をしていま

すが、皆、「理屈が通るから認める」のではなくて、「認め

たいから理屈を付ける」というのが実情のようです。


 「そんなことを言うのなら、その根拠を示せ」


 と、言われたら困ってしまいますけどね。“「認めたいか

ら理屈を付ける」説” を認めさせる「理屈」を付けるのも、

おかしな話ですから。

 根拠は無いけど、私はそう思います。その方が、皆がしょ

っちゅうケンカしている事に説明が付くからです。
 

 結構な肩書で、論理的に物を考えていそうな人たちが、激

しい口論をしていて、傍から見ると一方の言い分に明らかに

理があるのに、話が収まらない。そんな場面をよく見ます

が、ああいうのを見ると、「理屈」以前に「自分の好み」で

言っているとしか思えませんね。

 当人たちは頭の良い人で、他人の話は筋道立てて解説した

りするのに、自分が当事者になると理性を失う。

 人が合理的でいられるのは、その「理屈」が自分に害を及

ぼさない場合ですね。

 また、人が合理的であろうとするのは、その「理屈」が自

分に快楽を与えてくれそうな時ですね。


 《 都合がいい時は「合理的」

   不都合な時は、平気で「不合理」 》


 生きるのって、面倒だなぁ。


 人が、合理的に考え、合理性に基づいて生きられる存在で

あれば、世の中は平和になるようにも思うのですが、事はそ

う簡単でもないですね。


 人が、合理性だけに基づいて行動しようとしても、「生き

ていること」自体が合理性を越えた事ですから、「生きてい

ること」に考えが及ぶと、合理性は沈黙せざるを得ません。

 本質的に〈生〉は不合理です。

 それを、合理性だけで理解したり、コントロールしたりし

ようとするのは、そもそも無理なのです。


 わたしたちは、「合理性」の適用範囲を制限するべきで

す。「合理性」で語れない所にまで理屈を持ち込むので、話

がムチャクチャになってしまう。「非合理」のゾーンは「感

性」で受け止め、「情緒」に語らせるしかないでしょう。


 「感性」の世界である部分に、「理屈」を持ち込むとはた

迷惑な信念や宗教が生まれます。そこは、そもそも「合理

性」の適用出来ない所なので、“非合理な理屈” で信念や宗

教を合理化することが出来ます。原理主義の誕生です。

 外から見ればどれほど非合理でも、「合理」と「非合理」

の緩衝地帯で知らぬ顔をしていられます。手の打ちようがあ

りません。


 信念や宗教を持つ人は、「理屈」ではなく、「感性」が主

体であることをハッキリと自覚し、「合理的」に正当性を訴

えたりする事には、慎重であるべきでしょうし、「合理性」

の世界からは、信念や宗教を「理屈」で批判したりすべ

きではないでしょう。どちらも問題を起こすだけです。

 「非合理」の世界に重きを置く人も、「合理性」の世界に

重きを置く人も、お互いの在り方に理解を示すべきでしょう

ね。どちらも、確かに存在はしていますから。


 ですが、現代は「合理性」の側に片寄り過ぎていると思い

ます。信仰を理屈で支えたりするぐらいですからね。「アタ

マ」優先です。

 「生きている」という、わたしたちの根本が「非合理」な

のに、世の中の「非合理」を嗤う。それは、「生きている」

という事を嗤うことにならないか? 


 「合理性」とは、“世界の見方” でしかありません。

 「合理的に説明できる」と言って、それで何か役に立つ事

が出来たとしても、「非合理」の中の問題には無力です。


 「どうせ死んでしまうのに、なぜ生きなければならないの

か?」


 そんな問いに「合理性」は答えられません。

 「合理性」は、社会の色々な問題に、一応の解決を与える

事が出来るけれど、一番肝心な事には手が届きません。足場

にはなるけれど。(なぜ「一応の解決」かと言うと、どんな

問題も、いずれは不合理な所へ入り込まざるを得ないからで

す)


 「非合理を大事にする」と言うと、なんだか怪しい事にな

りそうな気がしますが、わたしたちが一番大事にしているの

は、〈命〉という「非合理」なものでしょう?

 「幽霊」とか「超能力」とか、“存在する” とか “存在し

ない” とか言い合っている様なものはともかく、〈命〉が存

在しているのは確かなのだから、そういうものには「合理

性」では無い〈理解〉が必要でしょう。


 「合理性」から離れて、“感じること” を大切にしなけれ

ば、わたしたちは大事なものを失うでしょうね。





2017年10月1日日曜日

メンドクサイのが嫌いな方へ


 毎度々々、分かり難くて、面倒くさいことばかり書いてい

ます。でも、仕方がないんですよね。


 私の言いたいことは、「機嫌良く生きられれば、それでい

いんじゃない?」ということなんですが、その為には “面倒

くさい世の中” を煙に巻く必要があるのです。

 世の中が面倒くさいので、それを煙に巻くのにも面倒な手

順が必要になってしまうわけです。

 私の話が面倒くさいのは、世の中の方に原因があるので

す。


 私は、実は “面倒くさがり” なんです。それなのに、何故

わざわざ面倒なことをしているのか? 

   世の中と付き合ってる限り、永遠に面倒くささは続くので

す。ですから、世の中を「見切って」しまって、もう面倒と

はおさらばしたいと思って、さしあたりの面倒に取り組んで

います。

 世の中との間合いの取り方を身に付けてしまえば、あまり

面倒に巻き込まれずに済むし、もしかしたら二度と面倒な思

いをせずに居られるかも知れません。その一心なんです。


 ところが、さらに面倒な事に、世の中は「私の外」と「私

の中」にそれぞれ有るので、面倒くささは二倍です。(あ

ぁ、メンドクサイ!)

 もっと面倒だというのは、世の中は「過去」と「未来」に

もそれぞれあったりして(自分のアタマの中にですが)、

「ああだ、こうだ」と干渉して来ます。面倒くささは六倍で

す。いや、六乗かも知れません。もう、面倒くさすぎて発狂

してしまいそうです。(実際に、異常しくなる人もいます

ね)



 「これをどうするか」

 ということなんですが、一番イイ方法は、ゼロを掛ければ

いいんです。

 世の中が六倍だろうが、六乗だろうが、ゼロを掛ければ

ゼロです。消えてしまいます。

 自分がゼロになってしまえば、世の中は消えます。
 

 凄い!分かり易い!

 今までのブログで、一番スッキリしてる!

 面倒くさくない!


 で、「どうやって自分をゼロにするのか?」は、今までの

面倒くさいブログを読んで下さい。




 ( それで分かる保証はありません・・・ )