《 しあわせになるのに、理由は要らない 》
そう書いたのは、もう何ヶ月も前ですが、今日、もうひと
つ気が付いた事があります。
《 理由を求めるから、不幸せになる 》
「理由」≒言い訳・釈明・申し開き・言い逃れ・逃げ口上
説明・証明・反論・成り立ち・言い分・泣き言
反省・ごまかし・へらず口・屁理屈・・・・
(まあ、こんなもんかな・・)
科学や技術に関することは一応別にして、人間関係の中に
顔を出す「理由」や、その周辺のことは、およそネガティブ
なものばっかりです。
遅刻した・失敗した・間違えた・やり過ぎた・出来なかっ
た・・・・。わたしたちは、毎日毎日、日に何度も、「言い
訳」する為に「理由」を探し、考えます。
それは、誰かに対してだけではなく、自分に対しても同じ
です。
「どう説明しようか・・・」
それだけのことに、エネルギーと時間を使います。
遅刻した・失敗した・間違えた・やり過ぎた・出来なかっ
た・・・・。わたしたちは、毎日毎日、誰かに向かって、
「説明」を求め、「理由」を語らせます。
「納得のいく話を聞かせてもらおうか。」
時に「不安」に、時に「不機嫌」に、エネルギーと時間を
使います。
こんなことは、わたしたちが、ごく普通に、日常的に経験
していることですが、“理由を考える時” も “理由を求める
時” も、どちらの場合でも大抵気分は良くありません。
“理由を考える時” 、わたしたちは “ある人” に「怒られな
い様に」とか「失望させない様に」という思いにかられてい
ます。また、「自信」を失くさないように、自分に対して言
い訳をします。
“理由を求める時” 、わたしたちは “ある人” に「自分を怒
らせた償い」や「ガッカリさせた補償」などをさせようとし
ています。
どちらにしても、楽しいものではありません。
もしもデートに遅刻した時、「どうして遅れたの😊」と彼
女がニッコリ笑ったら? 却って怖いかも知れません。
「理由」というものが必要になる時は、わたしたちにとっ
てハッピーな状況ではありません。
しかし、なんだって「理由」を求めるのでしょうか?
「理由」があったら、良いことがあるのでしょうか?
考えてみたんですが、「理由」が有ったからと言って、何
か良いことが有るとは思えないんですね。
人に「理由」を訊ねる時って、何か問題がある時なんです
ね。
冷静に、「問題解決の為に、ただ事情を知りたい」という
事も、もちろん有りますが、多くの場合は「理由」を訊ねる
時点で、訪ねる方はすでに不機嫌になっています。問題をど
うするこうするという事は二の次で、“自分を不機嫌にさせ
た目の前の人間“ を責めたい訳です。“報復” か “威嚇” であ
り、相手を「否定」しに掛かっている。
そういう事ですから、逆に、人に「理由」を説明する時
は、“報復” や “威嚇” を怖れて、それを回避しようとしてい
るのです。一言で言えば、「否定されない様に努める」訳で
す。また、自分に言い訳をしている時は、「自分を否定した
くない」という心理ですね。
「理由」を考える側と、考えさせる側が居て、その間に有
るのは「否定感情」です。
こうして見て来ると、「理由を言う」「理由を言わせる」
という行為は、人間関係における “卑屈さ” と “傲慢さ” の
温床ですね。
「理由」を考えさせる側は、あいての弱み(失敗など)に
乗じて、自分の優位を確認しようとしているのだし、「理
由」を考える側は、自分の弱みを責められない様に、なんと
か取り繕いたいんですね。どちらにしても、“みっともない”
と思いませんか?
昔の話になるんですが、私の高校時代の担任の先生は、
“生徒を疑う” という事を一切しませんでした。
私は、そんなに真面目な生徒でも無かったので、仮病を使
って、しばしば欠席・早退をして、友達と一緒に学校をサボ
っていました。
早退を申し出る時など、先生に「気分が悪いんで帰らせて
下さい・・」と言うと、言下に「あぁ、そうか。そりゃぁ、
身体が一番大事だ!帰りなさい、帰りなさい!」と、全く疑
う素振りなど見せず、優しく返事をしてくれました。
誰に対してもそうだった様で、そんな事が三度も続くと、
却って自分が恥ずかしくなって来て、もう仮病を使えなくな
ってしまいました。(とは言っても、その後も何度かはサボ
りましたけどね。三年間、持ち上がりの担任でしたから)
先生にすれば、生徒の仮病なんてお見通しだったはずで、
「どうせ、残らせても、授業に身が入るわけないんだから、
いじけさせたりするだけ無駄だ。『自分がした事は、自分で
責任を取ることになる』という事に、いずれ自分で気付くだ
ろう」という目算が有ったに違いない。
ホントに偉い先生でした。
この事は、私に大きな影響を与えたと思います。
(高校で学んだ事は、もしかしたらこれだけかも
知れない・・)
“自分の失敗” や “自分の至らなさ” というものは、本人が
自分で分っていて、身に滲みているものです。
そして、人は誰でも「失敗し」「自分の至らなさを嘆く」
ものです。
お互い様でしかないのに、自分が優位に立つや否や、相手
を責め始める・・。情けない根性です。
そうやって、誰もが他人の “失敗” や “人間的な弱さ” を
責め合うものだから、誰もが自分の “失敗” や “弱さ” を正
当化しようと、その「理由」探しに腐心する。
自分の “傲慢さ” が、次の時には自分の “卑屈さ” となっ
て、自身を苛むことになる。
“傲慢” も “卑屈” も、不幸でしょう?
「理由」なんて求めても、大抵意味が無いんです。人を不
幸にし、人間関係を悪くさせるばっかりです。
私の高校の先生の様に、「理由」なんか求めない方が、お
互いに良いのです。「理由」が分かったところで、起ってし
まった事は戻せないし、責めたところで、言われる方は恨み
を持つだけです。次の機会には立場が逆転して、倍返しされ
るかも知れません。みんな失敗するんですから。
途中で書いた様に、「問題解決の為に、事情を知る必要が
ある」といった時以外、「理由」なんて要らないんです。そ
う思いません?
「理由を言わせる」方が害が大きいと思うけれど、「理由
を考える」のも、ただただムダで、鬱屈するだけです。
失敗したって、自分の出来が悪かったって、人間ってそう
いうもんだから
い訳を探さなくったって、「ごめんなさい」の一言で終る話
なんです。それが通らないとしたら、相手がロクでもないク
ズ野郎なんだから、知らん顔して放って置けばいい。いずれ
『自分がした事は、自分が責任をとることになる』だけだか
ら、その責めは当人に返って来る。
滲み付いた習慣は、簡単には変えられないけれど、自分の
為、相手の為に、《 余計な「理由」は、クズかごへ! 》
「理由」を求めない世界は安らかな世界だと思いますよ。
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