2017年10月4日水曜日

理由、理由、理由・・・・


 《 しあわせになるのに、理由は要らない 》


 そう書いたのは、もう何ヶ月も前ですが、今日、もうひと

つ気が付いた事があります。


 《 理由を求めるから、不幸せになる 》


 「理由」≒言い訳・釈明・申し開き・言い逃れ・逃げ口上

      説明・証明・反論・成り立ち・言い分・泣き言

      反省・ごまかし・へらず口・屁理屈・・・・ 

       (まあ、こんなもんかな・・)


 科学や技術に関することは一応別にして、人間関係の中に

顔を出す「理由」や、その周辺のことは、およそネガティブ

なものばっかりです。


 遅刻した・失敗した・間違えた・やり過ぎた・出来なかっ

た・・・・。わたしたちは、毎日毎日、日に何度も、「言い

訳」する為に「理由」を探し、考えます。

 それは、誰かに対してだけではなく、自分に対しても同じ

です。

 「どう説明しようか・・・」

 それだけのことに、エネルギーと時間を使います。


 遅刻した・失敗した・間違えた・やり過ぎた・出来なかっ

た・・・・。わたしたちは、毎日毎日、誰かに向かって、

「説明」を求め、「理由」を語らせます。

 「納得のいく話を聞かせてもらおうか。」

 時に「不安」に、時に「不機嫌」に、エネルギーと時間を

使います。


 こんなことは、わたしたちが、ごく普通に、日常的に経験

していることですが、“理由を考える時” も “理由を求める

時” も、どちらの場合でも大抵気分は良くありません。


 “理由を考える時” 、わたしたちは “ある人” に「怒られな

い様に」とか「失望させない様に」という思いにかられてい

ます。また、「自信」を失くさないように、自分に対して言

い訳をします。


 “理由を求める時” 、わたしたちは “ある人” に「自分を怒

らせた償い」や「ガッカリさせた補償」などをさせようとし

ています。

 どちらにしても、楽しいものではありません。

 もしもデートに遅刻した時、「どうして遅れたの😊」と彼

女がニッコリ笑ったら? 却って怖いかも知れません。


 「理由」というものが必要になる時は、わたしたちにとっ

てハッピーな状況ではありません。

 しかし、なんだって「理由」を求めるのでしょうか?

 「理由」があったら、良いことがあるのでしょうか?

 考えてみたんですが、「理由」が有ったからと言って、何

か良いことが有るとは思えないんですね。


 人に「理由」を訊ねる時って、何か問題がある時なんです

ね。

 冷静に、「問題解決の為に、ただ事情を知りたい」という

事も、もちろん有りますが、多くの場合は「理由」を訊ねる

時点で、訪ねる方はすでに不機嫌になっています。問題をど

うするこうするという事は二の次で、“自分を不機嫌にさせ

た目の前の人間“ を責めたい訳です。“報復” か “威嚇” であ

り、相手を「否定」しに掛かっている。


 そういう事ですから、逆に、人に「理由」を説明する時

は、“報復” や “威嚇” を怖れて、それを回避しようとしてい

るのです。一言で言えば、「否定されない様に努める」訳で

す。また、自分に言い訳をしている時は、「自分を否定した

くない」という心理ですね。
 

 「理由」を考える側と、考えさせる側が居て、その間に有

るのは「否定感情」です。

 こうして見て来ると、「理由を言う」「理由を言わせる」

という行為は、人間関係における “卑屈さ” と “傲慢さ” の

温床ですね。

 「理由」を考えさせる側は、あいての弱み(失敗など)に

乗じて、自分の優位を確認しようとしているのだし、「理

由」を考える側は、自分の弱みを責められない様に、なんと

か取り繕いたいんですね。どちらにしても、“みっともない”

と思いませんか?


 昔の話になるんですが、私の高校時代の担任の先生は、

“生徒を疑う” という事を一切しませんでした。

 私は、そんなに真面目な生徒でも無かったので、仮病を使

って、しばしば欠席・早退をして、友達と一緒に学校をサボ

っていました。

 早退を申し出る時など、先生に「気分が悪いんで帰らせて

下さい・・」と言うと、言下に「あぁ、そうか。そりゃぁ、

身体が一番大事だ!帰りなさい、帰りなさい!」と、全く疑

う素振りなど見せず、優しく返事をしてくれました。

 誰に対してもそうだった様で、そんな事が三度も続くと、

却って自分が恥ずかしくなって来て、もう仮病を使えなくな

ってしまいました。(とは言っても、その後も何度かはサボ

りましたけどね。三年間、持ち上がりの担任でしたから)


 先生にすれば、生徒の仮病なんてお見通しだったはずで、

「どうせ、残らせても、授業に身が入るわけないんだから、

いじけさせたりするだけ無駄だ。『自分がした事は、自分で

責任を取ることになる』という事に、いずれ自分で気付くだ

ろう」という目算が有ったに違いない。

 ホントに偉い先生でした。

 この事は、私に大きな影響を与えたと思います。

 (高校で学んだ事は、もしかしたらこれだけかも
  
  知れない・・)


 “自分の失敗” や “自分の至らなさ” というものは、本人が

自分で分っていて、身に滲みているものです。

 そして、人は誰でも「失敗し」「自分の至らなさを嘆く」

ものです。

 お互い様でしかないのに、自分が優位に立つや否や、相手

を責め始める・・。情けない根性です。

 そうやって、誰もが他人の “失敗” や “人間的な弱さ” を

責め合うものだから、誰もが自分の “失敗” や “弱さ” を正

当化しようと、その「理由」探しに腐心する。

 自分の “傲慢さ” が、次の時には自分の “卑屈さ” となっ

て、自身を苛むことになる。

 “傲慢” も “卑屈” も、不幸でしょう?


 「理由」なんて求めても、大抵意味が無いんです。人を不

幸にし、人間関係を悪くさせるばっかりです。

 私の高校の先生の様に、「理由」なんか求めない方が、お

互いに良いのです。「理由」が分かったところで、起ってし

まった事は戻せないし、責めたところで、言われる方は恨み

を持つだけです。次の機会には立場が逆転して、倍返しされ

るかも知れません。みんな失敗するんですから。


 途中で書いた様に、「問題解決の為に、事情を知る必要が

ある」といった時以外、「理由」なんて要らないんです。そ

う思いません?


 「理由を言わせる」方が害が大きいと思うけれど、「理由

を考える」のも、ただただムダで、鬱屈するだけです。

 失敗したって、自分の出来が悪かったって、人間ってそう

いうもんだから  みんな出来損ないだから  いちいち言

い訳を探さなくったって、「ごめんなさい」の一言で終る話

なんです。それが通らないとしたら、相手がロクでもないク

ズ野郎なんだから、知らん顔して放って置けばいい。いずれ

『自分がした事は、自分が責任をとることになる』だけだか

ら、その責めは当人に返って来る。


 滲み付いた習慣は、簡単には変えられないけれど、自分の

為、相手の為に、《 余計な「理由」は、クズかごへ! 》


 「理由」を求めない世界は安らかな世界だと思いますよ。







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