2017年10月29日日曜日
行列の先に何がある?
私は人が多いのが嫌いです。
何処かへ出かける時も、なるだけ人の少ない日時を選んで
行くし、行きたいところでも、人気があって混んでいると聞
くと、余程の情熱を持てることでなければ取り止める。
行列して何かを買ったり、食事をしたりするなど考えられ
ない。
「あんなに流行っているんだから、大した事ないんだろ
う」
と、考える。
三十分、一時間も並んでいるぐらいなら、公園のベンチで
「ボーッ」としている方がましだ。
実際に「すごく美味しい」などと言われて、行列の出来る
店の物を貰って食べたりしても、「なるほど!」と思った事
がない。「普通だね」と思う事ばかりだし、中には「普通以
下」もある。
ヒトが「イイ!」と言うと、自分も「イイ」と思う人が多
いのだろう(ショッカーの戦闘員だろうか?)。私の経験
上、人口の半分は “味音痴” だと思っているし、同時に美的
センスも無い。要するに、さまざまな面において感覚が鈍
い。
そう言うと、まるで「私は感覚が鋭い」と言っているみた
いだが、そう思っている。すくなくとも、“集まるのが好き
な人達” とは違うことは確かだろう。
《 「大人気」なら、離れて見てる 》
それが私の基本姿勢となっている。
よしんば、それが本当に良いものであっても、「大人気」
に揉みくちゃにされ、「贔屓の引き倒し」に合ってダメにさ
れてしまうことが多いので、そんなバカさわぎの片棒を担ぐ
のは真っ平ごめんだ。
買い物に行くと、店員が「これ、人気ですよ!」と商品を
薦めて来ることがよくあるが、「人気が有る」ことが、なぜ
私に対して薦める理由になるのか?「人気が有る」ことと、
その商品の価値は別だと思うのだが、「人気が有る」ことは
「価値」なのだろうか?
ああやって薦める者が多いという事は、「人気が有る」と
言えば、買う人間が多いのだろう。気が知れない。
中には「人気です!」と言って、服を薦めて来る奴が居る
けれど、「人気!」なら誰でも着ているのだ。街を歩いてい
て、あちこちで自分と同じ服を着ている人間に遭うなんて、
考えただけでおぞましい。
ああいう薦め方が横行しているのだから、自分の感覚では
なく、他の人間が選んでいるかどうかを基準にする人間が、
かなりの数存在するのだろう。
《 流行とは我慢の出来ない “醜さ” の一種だ
だから、半年ごとに流行は変わる 》
と言ったのは、オスカー・ワイルドだけれど、なぜ “醜い”
かというと、自分で判断しないで他人の意見に迎合する人間
たちが「流行」を作るので、「流行」は〈凡庸さ〉と〈無責
任〉で固められている。“加齢臭” や子供っぽい “小便臭さ”
が漂ってきそうだ。
ワイルドが言うように、「流行」はすぐ変わる。
「飽きて」次を求め、また「飽きて」次を求め、また「飽
きて」次を求め・・・・・・・。おもちゃが変わるだけで、
人間はそのまま。そうやって数千年が過ぎ去ったけど、人間
はそのまま・・・。人間自体が、“「世の中」のおもちゃ”
になっているのかも知れない。
わたしたちは、ハツカネズミが回し車の中を走り続ける姿
や、猫がピンポン玉を追い回す姿を見て笑っているけれど、
人間が次から次へとおもちゃを取り替えてゆく姿も、それと
変わりはしない。ハツカネズミが回し車を回すのを急に止
め、静かに座って、窓から見える青空を眺め始めたら面白い
んじゃないかと思う。
自分自身が何を欲しているか?
本当に欲しているのは何か?
自分が欲しがっている物は、本当に欲しい物なのか?
それを欲しがっているのは、本当に自分か?
誰かの動きに釣られているだけではないのか?
それが欲しいと思い込まされているだけではないのか?
自分にとって本当に価値があることなのか?
深刻に考える必要はないけれど、真剣には考えてみなけれ
ばならない事だろう。
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