2017年10月1日日曜日

「生かされてる」と言うけれど


 「わたしたちは、生かされて、生きている」

という言葉をよく耳にします。私も「生かされている」とい

う事に異論はないんですけど、あまりこの言葉は使いません

し、このブログの中でも、たぶん使ったことは無いんじゃな

いかと思います。  

 「異論はない」のに何故使わないのかというと、この言葉

には、あまりにも手垢がついてしまっているからなんです。

だから、「使わない」というより「使いたくない」。

 “手垢” というのは、「持つところが決まってる」「使い

方が固定されてる」ということですけど、その “手垢” の、

「持つところ」「使い方」に対して、「ちょっと違う気がす

るなぁ・・・」という思いがあるわけです。

 なので今日は、「生かされている」という言葉を捉えなお

して、私的に抵抗なく使えるようにしたいと思います。



 「生きている」というのは、〈自力〉です。

 「生かされている」というのは、〈他力〉です。

 「わたしたちは、生かされている」と言う人は、「自分の

力で生きているんじゃないんだよ」と言いたいわけですね。

 片や、「生きている」と言う人は、「基本、自分の力で生

きている」と思っているわけです。運とか、ツキとかはある

にせよ、それを使うのは自分だと。

 この両者を較べた時に、「生かされている」という人は、

やはり謙虚に見えますし、「生きている」という人は、あま

り謙虚に見えない。ヘタをすると傲慢に見えるし、“明らか

に傲慢な人” のメンタリティは、 100% そうです。「生か

されている」と考えている人は、傲慢には成り得ない。



 と、ここまで来たところで、私の中で “STOP” がかかる

のです。

 「『生かされている』という言葉の中に、僅かながら “傲

慢さ” が隠れているような気がする。『生かされている』と

思う事が、もうすでに 傲慢 なんじゃないだろうか?」と。

 ちょっとシビア過ぎるのは分っているんですが、そこの所

を突き詰めてみたい。


 「生かされている」と思うからには、“生かされている自

分” というものが有って、その自分を肯定出来ているわけで

すが、“自分” が有るという事が、もう、傲慢ではないか?



 「いや、いや。自分は有るでしょうが!」



 普通はそう思います。(スミマセン。私、普通じゃないん

で・・)

 でも、「生かされて、生きている」なんて言葉を使うのな

ら、そこに有る “自分” までも、立ち退かせなくてはならな

いんじゃないかと。



 “自分” が「在る」、のならいいんですが、「有る」のは

少し問題なんです。

 私が勝手に言葉を使い分けているんですが、「有る」とい

うのは “所有” の ”有” です。

 「在る」というのは “存在” とか “臨在” の “在” です。

 この、「有る」と「在る」の言葉の違い、感覚の違いで、

大きな差が生まれます。



 「自分が有る」と言った場合、この身体と心を “自分” が

所有している。「自分のものである “自分” が、生かされて

いる」という感じ。

 「自分が在る」と言う場合は、この身体と心が存在してい

るところに、“自分” という意識が「おじゃましている」。

そんな感じに思うんです。



 言葉にするのが、本当に難しくて、私の感じているところ

が、どの程度伝わるのか分かりませんが、「わたしたちは、

生かされている」と言った場合、“見習いが、いっぱしの口

を利いてる” という風な感じがするんです。

 心底「生かされていること」を感じてしまうと、もう「生

かされている」とは言えなくなるだろうと。

 「わたしたちは、生きさせられている」というのが、近い

んじゃないかと思います。

 わたしたちの “命”   肉体的な意味だけではなく   は

自分の物ではなく、自分の管理下にはない。

 自力で生きているのでもなければ、何かに生かされて “自

分” をやっているのでもなく、何かに “自分” を生きさせら

れているのだと。


 三十代の時、私の幼なじみが死にました。

 長らく会っていなかったので、突然知らせを聞いて驚いた

のですが、身体を壊して長く寝込んでいたらしい。

 私は、今もこうして生きている。

 私が「生かされている」のなら、何故、彼は「生かされな

かった」のか?「生かされている」のなら、この違いは一体

何なのか? 彼には「生かされる」価値が欠けていたとでも

言うのか?
 

 世の中には、本人の努力や誠実さに反して、大変辛い人生

を送っている人が沢山いる。

 しんどい就活を続けて、やっと入った会社がブラック企業

で、長時間労働に上司のパワハラ、同期との足の引っ張り合

いの日々。からだを壊したり、鬱病になったりして、会社を

辞めざるを得なくなる。(勝ち組・負け組の話は、今回はし

ません)

 努力家で、誠実であれば、まともな会社に入っていれば、

信頼され重用されただろうに・・・。

 「生かされている」のなら、この “星のめぐりの悪さ” は

何だ? 当人も、家族・友人もそう思うだろう。

 「『生かされている』のなら、もう少しマシな人生を生き

させてくれ」

 そう言いたくなっても無理はない。


 こういう事を思うと、私は「生かされている」という言葉

を使いにくい。自分の人生を肯定出来ない状況にある人は、

「生かされている」とは思いづらいだろうから。


 他人から見たって肯定しづらい人生があることを思うと、

「わたしたちは、生かされて生きている」のではなく、

「わたしたちは、生きさせられて生きている」と考えざるを

得ないんです。

 わたしたちは、自分の都合とは無関係に「生きさせられて

いる」。
 

 私はなにも、「人生の不公平」について話したいのではあ

りません。人生は不公平に決まっているのです。オマケに当

たり外れがあるのは、子供でも分かっています。

 「生かされている」という言葉を使う人の中に、ハズレじ

ゃなかった人の  その時点での話ですが  余裕とか、甘

さの様なものが見え隠れするのです。
 

 「生かされている」と言う人の中に、「生きさせられてい

る」という意味を込めている人も居るだろうとは思うのです

が、あまりにも使われ過ぎてる様な気がするので、そんなに

深く考えてるとは思えない。「余裕こいてるな。」という感

じがします。

 自分が事故で頸椎を損傷して、からだが動かなくなった

り、災害で家族が全員死んで、自分一人生き残ったりして

も、「生かされている」と、言う事が出来るのか?

 これはかなり厳しい話ですよ。


 他人がそのような目に合った時、「あなたは、生かされて

いる」なんて言ったら、殴られるかも知れません。

 「生かされてしまっている」

 と言うのなら、理解されるでしょうが。

 (「生かさせられている」より「生かされてしまってい 

  る」の方が、分かり易いなぁ・・・。まぁ、いいか。)


 やっと自分が何を話したいのか見えてきました。

 人生で、真に絶望的な局面に置かれたら、「生かされてい

る」では、弱いだろうと。

 「生かされている」という言葉では、その状況を肯定する

為には、まだ足りない物があるだろうと。


 「人生は、あなたの都合に合わせて有るわけじゃない」

 「あなたが『自分の物だ』と思っている “人生” がそこに

在るけれど、あなたは付き合わされているだけだ。四の五の

言うんじゃねぇ」

 “命” が口を利いたら、そう言うんじゃないだろうか。


 虚しいですか?

 考え方次第ですが、“人生” が自分の物じゃなければ、責

任は無いじゃないですか。

 責任が無いってことは、〈自由〉ということです。 

 ドラマでも見る様に、“自分(?)の人生” を眺めていれば

いい。


 《 なんでも見せてみろ。なんでも見てやろう。 》


 そんな好奇心と無責任な明るさが、しあわせに生きるには

(生きている自分を眺めるには)、必要だと思うのです。

 「生かさせられている」とすれば、“自分の人生” を自分

でコントロールしようなんてムダです。

 「まかせるから、ひとつヨロシク!」で、《武士は食わね

ど高楊枝》。やせ我慢で、笑ってしまおう。


 「そんな事言って、大変な時に何もせずにいられないでし

ょう!」
 

 いえ、どうせ人間は止むに止まれず動くのです。「生かさ

せられて」しまってるんですから。

 大変な時は、大変なりに動いてしまいます。その自分の姿

を、面白がってしまえばいいんです。出来ればね。


 “「生きたり」「生かされたり」「生かさせられたり」し

ている自分” じゃない、別の “自由な自分” が居る様です

よ。わたしたちの〈意識〉の奥の奥にね・・・。







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