2017年10月21日土曜日

「殺す」とは? 捕鯨と精進料理。


 生き物は、日々他の生き物を殺しながら生きている。

 他の生き物を食べることで生きているという事に加え、活

動の過程で他の生き物を死なせることもある。

 歩いているだけで、アリを踏み殺すかも知れないし、草を

踏みつけて枯らしてしまうこともあるだろう。

 人間であればなおさらの事、地面を掘り返せば、地中の虫

が死ぬし、焚火に薪をくべればその中の虫が死ぬ。蚊取り線

香を焚いて蚊を殺し、家を建てる為に木を切り倒す。海を埋

め立ててそこに居る生き物を殺し、住処を奪う。


 そういう事を思うと、宗教的な理由でベジタリアンであっ

たり、精進料理を食べたり、というのは自己欺瞞だし自己満

足でしかないと思う。大豆だってネギだって生きているのだ

し、ご飯を炊く時に使う薪の中にだって、生き物は居る。

 動物質の物を食べないからといって、「命を取りません」

なんて言えないんです。

 血を見ることのインパクトの大きさから逃れ、自分が生き

ることは、他の生命の死の上に成り立っているという罪悪感

を、出来るだけ持たない為の「免罪符」としての、精進料理

やベジタリアンなのでしょう。

 「積極的に生き物を殺して食え」というのではないけれ

ど、精進料理を食べていることで、“殺すこと” から免れて

いると思うなら、そんなことは欺瞞です。

 わたしたちは、他の命を殺めずに生きて行けない。
 

 こういう事を考えていると、「食べる為に殺すのはいい

が、そうでないのはいけない」という発想がでてくるのです

が、「家具を作る為に木を伐るのはどうか?」ということも

ある。人にそう言うと「ムダにするのではないから良い」と

いう返事が返って来ることになる。

 確かにそうだろうし、それでいいと思う。けれど、だから

といって「わたしは(ムダに)殺していない」と話を終え

て、「メデタシメデタシ」という訳でもないだろう。


 捕鯨問題では相も変わらず、反捕鯨原理主義者がヒューマ

ニズムをクジラに適用して、一方的な言い分を喚き立てる。

ヨーロッパでは、ガチョウを脂肪肝にしたててフォアグラを

食うし、日本の「鯛の活け造り」はやはり残酷ではないか?

 食べることに、どこまで娯楽の要素を持ち込んでいいのか

は判然としない。人にとって、ある程度までは仕方のないこ

とだろう。しかし、どこかで線引きをすることが望ましい。

そうでなければ「娯楽」に引き回されて、大事なことを見失

うように思う。



 反捕鯨論者のやり玉に上げられる和歌山県の太地町には、

「くじら供養碑」があつて、毎年〈供養祭〉が行われる。

 日本ケンタッキーフライドチキンは、毎年〈チキン感謝

祭〉という、鶏に対する感謝と供養の行事を行っているが、

本国アメリカの関係者が初めて招かれたときには、「鶏の霊

を供養し、感謝する」という日本人の考えなど想像もつかな

くて、非常に驚いたという。


 殺さずには生きられない。

 けれど、殺すことが当然だとも思えない。

 どうしようもないので、供養する。

 供養して、祀り上げ(くじら様・鶏様)、自分を下の立場

に置くことで、お互いの存在のバランスを取ろうとする。


 書き出しから「殺す」という言葉を使って来たけれど、

「殺す」ことと「命を取る」ことは、イコールではない。

 それは、誰でも感じることだろうけれど、じゃぁその違い

は何だ?

 わたしたちは、生きている限り他の命を取ってしまう。

 そうして各々が自分の命を繋いでゆく。

 どの様な場合に、その行為が「殺す」とよばれるのだろう

か?
 

 私は、「殺す」とは “命を冒涜すること” だと思います。
 

 「じゃぁ、“冒涜” とは何だ?」と言われると、困ってし

まうのですが、“冒涜” とは、「存在を軽んじること・存在

の価値に想いを致さないこと」なんだろうと思います。

 もちろん、ここで言う「存在の価値」とは、「鶏は栄養が

あって、美味しい」といことではありません。「鶏は、鶏と

して、鶏であるべく存在していた」ということですね。

 「自分が他のものを利用して、独立して生きている」とい

う様な思いではなくて、「さまざまの命の関わり合いの中

で、自分というものが在る」という認識が無ければ、その生

き方は “他の命を冒涜するだろう” と。


 私の世代は、クジラをよく食べたので「クジラを食うな」

といわれると、私は反射的に対抗心を持ってしまいますが、

太地町のクジラ漁はともかく、遠洋での捕鯨は、日本の食品

ロスの規模を考えると止めておいた方がいいだろうとおもい

ますね。(“クジラの串かつ” って、最高に美味しいんだけ

どね)

 けども、反捕鯨論者の「クジラのような賢い生き物を殺す

なんて!」という言い草には、いつも腹が立ちます。

 「じゃぁ、お前らは “バカは殺していい” と思ってんだ

な?」と思うんです。

 「牛も豚も鶏も七面鳥もサーモンもピーマンもトマトもト

ウモロコシも、“バカ” で、ただの “モノ” に過ぎないと思っ

てるんだな?」と。

 自分が「人間の友達」と見做したものには、勝手な敬意を

持ち、それ以外は「利用するモノ」としか見ていない。


 日本人は、ものの命を大事にして来た。

 生き物どころか、針や筆まで供養する。

 クジラをダシにして、“自分のヒューマニティ” を主張し

たいだけの人間と、どっちが命を冒涜してるか?


 生きている限り、他の命を奪わざるを得ない。

 その事実を正面から受け止めながら、奪った命に頭を下げ

ながら生きて行く。

 それは、精神的に命を繋いで行くことだろう。
 


 お寺で、精進料理を食べるのは「不殺生戒」があるからだ

けど、それは「肉を食うな」というような薄っぺらなことで

はなくて、「命を娯楽に用いるな」「命を冒涜するな」とい

うことでしょう。

 肉を食べなくったって、ネギを粗末に扱えば、それは「破

戒」となる。

 「自分は、他の命を殺めないから、穢れないんだ」なんて

思うのなら、それは自己保身の為に植物を利用しているので

あって、米や野菜を冒涜している事になるだろう。


 命を冒涜しない。

 他の命も、自分の命も、何かの欲望の為に利用するべきで

はない。

 自身の幸福の為にも。








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