前回書いた様に、今日は “言葉の修正” を。
早速、始めましょう。
(=の後は、私が修正した意味です)
「恋愛」=「恋」と「愛」を一緒にしてはいけません。
「恋」 =性欲にもとずく人間関係で、強い執着と独占欲
を伴い、自分中心のものの見方が顕著になる。
対象者との間で、性欲と執着の利害が合致した
場合は、あたかも利他的な心情を持っている様
に見えることがある。
「愛」 =執着と打算を伴わずに、友好関係を築こうとす
る心理状態で、人間関係を築く上で最も望まれ
る心情である。「恋」から「愛」に移行する事
もあるが、非常に稀である。(本来は仏教の
「渇愛」のことであり、執着を表わす言葉で
あるが、現代の社会通念に則して、執着の意味
を除いた)
「理解」=物事の成り立ちの因果関係を把握すること。
「共感」と混同されて使われることが多く、注
意が必要である。 例・「ヒトラーの考えを
理解する」などと発言すると、「ヒトラーの考
えに共感する」と歪曲して捉えられる事が多
い。
「暴力」=物理的または心理的に、対象となるものを損な
う行為。
一見、暴力と捉えられる行為が、コミュニケー
ションとして成立する場合があり、該当する行
為の対象者が実際に損なわれているかについて
慎重に確認することが求められる。逆に教育、
指導、躾けの名目で、暴力が振るわれる事も多
く、注意を要する。
「友人」=肉親以外で、価値観・センスなどの親和性が高
く、関わりの深い人。生きてゆく上での、有力
な協力者と成ることが多いが、唯の知人を友人
と誤解する人が高い確率で存在する。
人生を歩むにおいて「必ず必要な存在」、と考
える人は多いが、「不要」とする人も一定数存
在する様である。本質的には不要と思われる。
「結婚」=法律上の制度。あるいは似た形態で個人間の約
束による人間関係。社会の基本単位とされる。
幸福な生活をする為の基盤とされるが、実際に
は人間形成の為の修行スタイルの一つ。
「修行」との認識を持たないまま関係を持ち、
その厳しさに挫折、破綻して後遺症に悩まされ
る者が多くを占める。
「離婚」=法律上で「結婚」を解消する事。
「結婚」の条件として、“双方の合意が前提”
とされているにも拘らず、一方が “結婚の合
意” を破棄しても成立しないとされる、不合理
な法制度
為の対策と見られる。
「教育」=子供あるいは、その集団で技能・知識などが未
熟な者に対して行われる指導のこと。能力の向
上と制御を目的とするが、多くの場合、所属す
る集団の価値感・取り決めを刷り込むことに主
眼が置かれる。さまざまな社会問題をもたらす
主原因となっているが、有効な対策が取られな
いまま、数千年間行われ続けている。
「仕事」=人・物の在り方。非常に狭い意味で、“賃金を
得る為の労働” だが、こちらの意味しか無いと
して誤用されることが多い。
「家族」=社会の基盤となり、一般的に血縁に基づいた人
の集団。2~8人程度で構成されることが普通
であるが、まれに数十人に及ぶ場合がある。
生活の為に協力し合う関係であるが、内部に問
題が生じると、関係の解消が困難な為に、最も
大きな生活の障害となる。
「常識」=その集団の中で共有されるべき考え・情報。
「共有されるべき」との前提に拘らず、誰もが
他者に対して平均以上の周知度・習熟度を期待
する為に、「常識が無い人間」の方が多数とな
る宿命にある。
「金」 =人または集団の “社会貢献度” に対して付与さ
れる権利を、数量化したもの。ほとんどの社会
においては、本来の意味が薄れ、“社会習熟度”
“社会活用力” の高い者が、“社会貢献度” 以上
の権利を得るようになる傾向が顕著となる。
永く、幸福度の指標とも見做されて来たが、説
得力に欠ける部分が有り、異論も多い。
「宗教」=人が幸福を目的として採用する信条のうちで、
人より高次元の存在に従って幸福を得ようとす
る考えで、論理的整合性による担保を必要とし
ないもの。さまざまな主義、経済・科学など、
宗教とは区別される信条も、その根拠を突き詰
めると論理的整合性を欠く為、広い意味での
「宗教」と言える。
(論理的整合性による担保を必要としないが故
に、時に反社会的な思想を露わにして、問題を
起こす集団が出て来るが、これらは「集狂(し
ゅうきょう)」と呼ばれる)
「仏教」=三大宗教の一つとされる。無数に存在する宗教
のうちにあって、徹底的に論理性を追求する特
異な宗教。論理的追及を限界まで推し進めるこ
とで、論理の及ばない事象によって世界が担保
されている事を確認し、その中にある人の存在
も同時に担保されている事を感得しようとする
テキストおよびメソッド。
その特異性から、宗教に属さないのではないか
という議論がある。
「平和」=人を不安にさせるものが存在しない状態。
人は、物事を比較する習性が強い為、社会的に
完全な「平和」は、人類史上存在した事が無い
が、個人の中にはごく短い期間断片的に存在し
うる。また極めて稀ではあるが、数年から数十
年にわたって個人の中に「平和」が存在し続け
るケースが有るとされる。「完全な平和」は、
社会的には幻想である。
キリが無いので、今回はこの辺で辞めておきましょう。今
のところ、私はこういう考え方で納得しています。
物事は自分が納得出来ていれば、それで事足りるのであっ
て、間違っていたら、そのうち自分が困るだけの話です。
一つか二つ、“ニヤッ” と笑えてもらえたなら、とっても
嬉しいのですが。
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