2017年10月24日火曜日

百済観音を想う


 “仏像好き” なら誰でも知っていますが、法隆寺に “百済

観音” という仏像が有ります。

 有名な仏像はいろいろあって、私にもお気に入りの仏像が

いくつもあるのですが、その中で一番心惹かれるのが “百済

観音” ですね。
 

 法隆寺が発行している『百済観音』という本があって、明

治以降の “百済観音” に関する随筆・評論、俳句・歌、写真

をまとめたものなんですが、名だたる文筆家・写真家が、

“百済観音” にオマージュをささげるという体の本です。

 その本の写真を時折眺めては、その不思議な存在感に言葉

を失います。他のどんな時代のどんな仏師の作風とも違う、

唯一 “百済観音” だけの特異な造形。

 何が「特異」と言って、“百済観音” の存在感というの

は、「存在してない様に思える」という存在感なんです。


 実際に法隆寺で実物を観ると、まったく “力” というもの

を感じない。

 “百済観音” を語る時、よく言われるのが水瓶を持つ左手

の「軽やかさ」で、「水瓶の口に指先で触れているだけで、

今にも落としそうなほど力を感じさせない」ということなん

ですが、左手だけではなく、「すっ」と差し出された右手

も、その体躯も顔も、まるで “夢まぼろし” のように力無

く、見ている間に霧散して消えてしまいそうな気までしてく

る。展示室の出口で振り返ったら、消えてるんじゃないか

と。

 それほど現実感を感じさせない姿なのに、それ故に圧倒的

な存在感がある。本当に不思議です。よくもまぁ、こんなも

のが作れたもんだなぁと・・・。
 

 私は、特に “百済観音” の右手に目を奪われるのですが、

先の『百済観音』という本でも最初のページは、“右手” の

クローズアップです。

 掌を上に向け、まったく力を入れずに「すっ」と、やさし

く差し出された右手。


 その手が差し出しているのは、《宇宙のすべて》なんじゃ

ないかと思えてくる。

 それと同時に、私も含めた《宇宙のすべて》を預かろうと

している様にも思える。


 そんなこと、ただの妄想でしか無いのかも知れない。

 けれども、その右手を観ていると、自分の雑念が吸い取ら

れて心が穏やかになってゆくのを感じます。

 その手を、姿を観ていると、自動的に瞑想させられてしま

う様です。


 『何時、誰が造ったのか? 何処にあったのか? 何も分か

らない “謎に包まれた仏像” 』

 そんなエピソードを知らずとも、その特異な姿にはどんな

ストーリを当てはめることも出来ない。

 “力” を感じさせないだけではなく、“物語” も感じさせな

い。

 ただ、ひたすら〈存在〉だけがそこに在る。


 “百済観音” を観ていると、私の “アタマ” が「バツが悪そ

うに」席を外して行くのです。
 

 仏像を観て、「諭される」とか「戒められる」とか「見守

られてる」とか、人それぞれに様々な感想を持ちます。私

も、他の仏像を観る時に、そんな感じを持ったりしますが、

“百済観音” だけは違う。

 何か、ダイレクトに〈存在そのもの〉に向き合わせられる

ように思います。

                    
                                                                合掌。
 
 

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