2017年10月7日土曜日
そういう事情なんです。
一昨日、《 誰にでも事情がある 》と書きましたが、こ
れは随分前から思っていたことで、私としては新しいことで
は無かったんです。ですが、あのように書いたせいで考えが
少し進んだので、「事情」について、さらに書いておこうと
思います。
《 誰にでも事情がある 》というより、
「事情の中を生きている」と言った方がいいだろうと。
さらに言えば、人間は「自分という事情を生きている」
と。
《 世界という「事情」の中で
自分という「事情」が生きている 》
世界は、自分もひっくるめて、その時その時の「事情」が
存在しているのあって、個々のものが自律的に存在するので
は無い。
《 世界は惰性で動いてる 》というのを、言い換えた形
なんですけど、もう少し分かり易いのではないかと思いま
す。
「事情」というのが、“何の為の事情” か “どんな事情” か
なんて知りませんが、“そういう事情” なんでしょう。
“そういう” なんて、まったく掴み所の無い言い様です
が、そういうしかないですね。
例えば、勤め先が倒産したのなら、“勤め先が倒産したと
いう事情” ですね。
頭が悪いのなら、“頭が悪いという事情” です。
「ガンになった」のなら、“ガンになったという事情”、
これから氷河期になるのだとしたら、“これから氷河期にな
るという事情” です。
世界がどうあろうと、自分がどんな人間で、どんな生き方
をしようと、“そういう事情” だということです。
喜ばしいことが起きても、喜び難いことが起きても、“そ
ういう事情” なんだから、「そういうことね。」と受け止め
るしかないのだろうと。いや、そう受け止めた方がいいだろ
うと思います。
ニュアンスとして分かってもらえると思いますが、「そう
いうことね。」と呟く時、その言葉の中には “寛容” と “ユ
ーモア” と “覚悟” が含まれています。
この、“寛容” と “ユーモア” と “覚悟” には、「事情」を
自分の物にしてしまう働きが有ります。
「世界という事情」と「自分という事情」から〈出来事〉
が生まれ、自分のあずかり知らぬ働きで動いて行きますが、
むやみにそれに抗ったり、コントロールしようとしたりする
と、その〈出来事〉に巻き込まれてしまい、「自分という事
情」が、「世界という事情」の中で形を失ってしまいます。
「自分」を見失います。
ですが、“寛容” と “ユーモア” と “覚悟” をまとえば、そ
れがライフジャケットの様な働きをして、〈出来事〉の流れ
に揉みくちゃにされずに、〈出来事〉と共に流れて行くこと
が出来ます。「そういうことね。」と、〈出来事〉を眺める
余裕が生まれます。
世界は、自分の都合に合わせて動いてくれません。
自分自身も、自分の都合に合わせてくれません。
どんな「事情」であろうとも、「そういうことね。」と一
歩引く事が出来るのは、人間だけだろうと思うのです。
その時、「一歩引く」ことが出来るのは私たちの〈意識〉
だけですが、この “一歩引いた〈意識〉” こそが、自分に与
えられた〈あるべき自分〉であって、その〈意識〉の中に居
ることが、「本当のしあわせ」なんだろうと思いますし、
“自分がその〈意識〉を持てる” というのは、「最も幸運な
事情」なんだと思います。
《 「そういうことだよ。」と世界が言う。
「そういうことね。」とわたしが言う。
宇宙の中で、なにかがほほ笑む。 》
分かってもらえるかなぁ。この感じ・・・。
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