2019年3月12日火曜日

「復興」が、人を迷わせる



 人間って、ホント、歴史から学ばないよね。 

 《 人は歴史から学ばないということを、私は歴史から学

んだ 》

 以前、そう書いた。

 何の話かというと、さっき東日本大震災からの復興の問題

点についてテレビでやっていて、阪神大震災の後と同じ問題

をかかえているのを知った。

 どうせそうなるんだろうとは思っていたのだけど、「いっ

たいなにやってんの」と思うね。

 阪神大震災後の復興策の失敗やゴタゴタ、後手後手を他の

自治体は知っているはずだし、知らなくても被災地の担当部

署や、再開発の当事者の住民に聞けば分かることなのに、阪

神大震災の時と同じことをやって「問題だ」と言っている。

 「孤独死」がどうとか、「住民が戻らない」とか、この二

十年何をしてたんだろう。学びなさいよ。
 

 阪神大震災の後、何年も、「この震災を教訓に・・」とか

「この震災から学んで・・」とかさんざん言われて、「われ

われ被災者は、“教訓” でしかないんだな」と思っていた。

それでも、「まぁ、“教訓” になるのなら、それはそれでい

いか」と、生身の身体で震災後を生きながら、そんなことも

思っていた。ところが、結局 “教訓” にもなっていないんだ

ね。ほとんど「話のタネ」で終わってたんだね、やっぱ

り・・・。ホント、人間ってやつは・・・。


 「お涙頂戴」の人情ネタや、「理想論」の再開発や復興施

策を語ることを否定しはしないけど、人間って不合理で情緒

的な行動を執るものですよ。突発的に自分の進路を塞がれた

り変えられたりしたらなおさらです。

 人は理屈で生きているんじゃない。

 “生(なま)” の感情や衝動に動かされて生きているんで

す。ただ、それを都合の良いように合理化するだけです。先

に「合理性」を持って来て、それに合わせようとするのな

ら、それ相当の懐の深さというか、人の「不合理」をも抱き

込む “遊び” が必要です。


 それに、「復興」だとか「元の暮らしを取り戻す」だとか

言って、感情論で災害後の人生を生きようとする人に対して

は、その感情を汲んであげつつ、冷静に暮らしを見つめる視

点を持てるような関わり方をしてあげられないか?


 「合理性」に寄り過ぎても、「感情」が先走り過ぎても、

後で大きな問題を抱えることになるのがほとんどですよ。

 人の暮らしは「生もの」ですし、暮らしを取り巻く社会は

「無情」です。

 その相反するものの間でバランスを失わない為には、良い

意味での “中途半端さ” や ”テキトーさ” が必要だと思いま

すね。


 「復興」

 「元の暮らしを取り戻す」

 災害が起きた時の決まり文句ですね。

 こんなことを言うと嫌われるでしょうが、元には戻りませ

んよ。

 あんなことが起っちゃうと、人の暮らしは大きく変わって

しまう。戻せない。

 「変わった」ことを前提に、新たに生きるしかないんで

す。「変わった」のに、それを受け入れずに過去や自分の人

生のイメージにこだわり続けると、当然問題を生み出しま

す。

 阪神大震災の後、「元の生活に・・・」と急いで自宅を再

建した人の多くは、その後の区画整理の対象になって立ち退

きを迫られたり、二重ローンを抱えてどうにもこうにもなら

なくなったりして、自殺した人もいる。ほとんど語られませ

んけどね。

 東日本大震災で被災した人たちには、その轍は踏んでもら

いたくなかったですけど、同じような事が起っている。


 「八年も経ってからそんなこと言うな!」と思われるしれ

ませんね。

 でも、阪神大震災後に “生身” で生きていた私たち

は、“教訓” の「添え物」の情報として、歴史の中に埋め込

まれました。それは、なにやら悔しさを覚えることでした

が、先に書いたように「“教訓” になるなら、それならそれ

でいいか」と思ったのです。ところが、“教訓” にさえなっ

ていなかったことが分かってしまった・・・。“教訓” にし

てくれるんじゃなかったのか?

 「復興」という言葉が、そらぞらしく、胡散臭い・・・。
 

 生きていると理不尽なことは起こる。ほとんど、どん底ま

で落とされたりもする。二度と元には戻れなかったりもす

る。世界も自分も変わって行く・・・。

 変わる世界に翻弄されない為の最善の方法は、自ら変わっ

て行くことしかない。

 どんなに “今” が愛しくても、誰も変わる事を止められな

い。


  「復興」よりも、「改興」すべきじゃないかと思う(もち

ろん、そういうことも行われてはいるけどね・・)。

 「元の暮らし」ではなくて、「新しい暮らし」を築いて欲

しい。



 嫌われることを承知でもう一度言わせてもらいますが、

には戻れないんです。人生は。



2019年3月11日月曜日

3月11日。



 また3月11日が来た。あの想像を絶する津波と原発事故

から8年が経ち、被災地以外の場所では、日本にはそんなこ

となど無かったかのように人々が暮らしている。

  被災した人からすれば、そのような日常の光景は「震災

の記憶が風化していく・・」という疎外感を抱かせる面があ

るだろう。

 「自分たちはあんなに苦しい思いをし、それは今も続いて

いるというのに、なぜみんなそんなこと無かったかのように

笑っているんだ」と・・・・。


 阪神淡路大震災の後、オウム真理教がサリン事件を起こ

し、世の中の目が一斉にそちらに向いたせいで、震災につい

ての報道などが急激に縮小してゆき、その中で、被災した人

たちは、自分たちの苦しい現状が無視されて、置き去りにさ

れるような感覚を覚えた・・。

 私も、世の中のそのような流れに、いくらかの腹立ちと無

情さを感じた。

 人は誰だって、自分が苦しい時に周りから無視されたくは

ない。

 気に掛けてもらっていると思いたい。

 けれど、当事者にとってどんなに大きな出来事でも、他の

人にとって、自分の事ではない事はやはり “他人事” です。

 記憶としての重さも全然違うし、そもそも「体験」と「情

報」は違う。
 

 「体験」は、その人の中、奥深くに刻み付けられるものだ

けれど、「情報」は人の表面に仮置きされてるようなもので

す。それが「情報」に留まっている限り、それは風にさらさ

れ形を失って行ってしまうさだめです。それを止めることは

できませんね。当事者にとって、どんなに心細くて、悔しく

ても・・・。


 「あの震災を風化させない・・・」そんな言葉はよく聞か

れますが、でも、風化するんですよ。日々刻々、新たな出来

事が人々の前に起き続ける。その “出来事の風” とでも呼ぶ

ような力は、過去の出来事の形を失わせて行く・・・。社会

は新たな出来事に対応を迫られ、それを無視する事はできま

せんからね。その出来事の只中に居た人にとって、どれだけ

非情に思えても、それはもう済んだことなんですね。

 そして、その当事者にとっても、その「体験」の記憶は変

わってゆく。

 どんなに、それの重さを知っていて、それをないがしろに

できないと思っていても、それは変わってゆく・・・。でも

それは、「情報」が風化するのとは違う。変質してゆくので

す。

 「体験」はその人の中で、その在り方を変えて行く。


 世界は刻々と変わって行く。生きている限り、人も刻々と

変わって行く。

 変わって行く世界の中で、人はその「体験」との折り合い

を付けようと、「体験」との関わり方を変えて行かざるを得

ない。

 世界と対応する中で自分も変わる。自分が変わる事で「体

験」との関わり方も変わって行く。それが「体験」が変質し

たように感じさせる。


 災害などで、肉親を失くしたりした時。その記憶が薄れた

ように感じてくると、人は罪悪感を覚えることが多い。自分

が薄情で冷酷な人間のように感じてしまう。でも、それは違

うと思う。

 それは、人が生きる上での自然な成り行きで、そうでなけ

れば人は生き続けては行けないだろう。「体験」の記憶が変

質し、薄れて行くことは、その人が薄情で冷酷なことを意味

しない。

 人は、生きている限り変わって行く。

 生きている限り、世界との新たな関係を持たなければなら

ないのだから。


 あの震災・原発事故の記憶は風化して行く。変質して行

く。

 それは止められない。

 誰のせいでもない。


 大事なのは、せめて当事者の中でその「体験」を活かして

(生かして)行くことだろう。それを踏まえた上で自分を生

きることだろう。

 もっとも、そんなことは当事者なら身体でわかる。わから

ざるを得ない・・・。


 どんな出来事も、それは誰のせいでもない。自分のせいで

もない。

 人がしでかしたことでも、自然がもたらしたことでも、自

分がしでかしたことでも、それは出来事としては等価なので

す。

 それが時に温かく、時に非情でも、人はそれらの出来事の

ひとつひとつの中で、自分として生きて行く・・・。泣きな

がらでも・・、感謝しながらでも・・・。


 合掌。




2019年3月10日日曜日

ここは地の果てアルジェリア・・・



 「ここは地の果てアルジェリア・・・」


 なんだか知らないけど急に思い出した。

 昔よく聞いたフレーズだけど、「一体何だろう?」と思っ

てググってみたら、『カスバの女』という歌謡曲の一節だっ

た。しかし、なんだって「地の果て」で「アルジェリア」な

んだろう? 昔の作詞家やレコード会社のプロデューサーは

凄えな。よくこんなの通して、その挙句にヒットさせるよ

な。でも、それを通してしまう日本人の方が凄いのかもしれ

ないけど(最近でも、『マツケンサンバ』とか『にんじゃり

ばんばん』とかあるものね)。


 で、なんで「ここは地の果てアルジェリア・・・」を思い

だしたかというと、「このブログなんか、ネット上の辺境だ

よなぁ」と思ったから。

 「辺境」だか「僻地」だか「秘境」だか知らないけど。こ

こに来る人は、山で迷って、たまたま「ポツンと一軒家」

(©ABC)に出くわしたような感じだろうからね。それで、

出くわすのがこんな話だから、「ヤバイ所へ来てしまっ

た・・・」と思う可能性は高い。



 「はじめまして。このブログは『アタマが悪い』というブ

ログです。人間の不幸の根源は、わたしたちのアタマが悪い

ことです」。一応、ごあいさつしておきましょう・・・。


 「ここは地の果てアルジェリア・・・」

 でも、そこが「地の果て」だろうが何だろうが、わたした

ちのアタマが悪くなければ、すさんだり、不幸になったりす

ることはないだろうな。


 「ここは地の果て・・・」なんて思って暗くなるのは、ア

タマが勝手に何処か別の場所を世界の中心だと考えるからで

しょ?

 「地の果て」というか、「世界の果て」は実際の場所では

なくて、わたしたちのエゴのことですよ。

 自分を特別視し、自分を守ることを大前提に生きてたら、

世界との間に疎外感を感じて「ここは地の果て・・・」なん

て思うことになるでしょうよ。


 このブログは「辺境」にあるけれど、それで私が暗くなっ

ているわけじゃない。

 「ひとりぼっちでも、ここは極楽だも~ん!」なんて、勝

手に決めている。

 むしろ、エゴを立てて、近付きながら距離を取ろうとして

いる世の中で生きてる人の方が、心理的には「地の果て」に

居るのでしょう。だってすぐに「寂しい・・」なんていうで

しょ? 私はもう長いこと、「寂しい」なんて思った事ない

ですから。

 社会からの疎外感を感じる事はあっても(というか、ほと

んど部外者です)、世界からの疎外感は感じないからね。あ

りがたや、ありがたや。


 さて、今、たまたまこのブログを読んでいるあなたは、こ

のブログを「地の果て」の変な所だと思いますか? それな

ら、早くここから出るべきですね。ここはあなたにとってロ

クな場所ではありません。


 「辺境」も「桃源郷」も、「地獄」も「極楽」も、その人

の内面に在るのであって、その “場所” のことではありませ

ん。

 今居る所が「地の果て・・・」のように感じるとしたら、

それはあなたが自分(エゴ)を守ろうとし過ぎてるからで

す。

 逆に、今居る場所が「世界の中心」と感じているとした

ら、それはあなたが仮想現実にどっぷりハマっているからで

す。どんなにたくさんの人や物に囲まれているとしてもね。


 わたしたちが居るのは、「地の果て」でも「世界の中心」

でもありません。

 実は、“わたし” なんてものは居ません。

 “わたし” というものは、人間の “病気の症状” とでも言う

べきものです。


 こんなことを言ってる私の方が病気なのかも知れません

が、それは私には分からないことですし、それならそれでべ

つに構いません。だって、「深刻な “正常人” 」より、「楽

しそうな “精神異常者” 」の方がしあわせかもしれないじゃ

ないですか(それがいつまで続くかというのが大問題です

が・・・)。

 生きて死ぬだけです。機嫌が良いのに越したことはない。


 「ここは地の果てアルジェリア~~」

 なんか、楽しくなって来た。



 ・・・・・なんてことを言ってるけど、強制収容所に入れ

られたユダヤ人たちや、シベリアに抑留された日本人や、今

北朝鮮で飢えに苦しんでる庶民や、紛争地で残虐行為に合っ

ている人、この日本で親に虐待されている子供たち、そうい

う人に対して、〈「地獄」も「極楽」も、その人の内面に在

るのであって、その “場所” のことではありません〉などと

言えるわけが無い。

 「オマエは、余裕があるからそんなお気楽なことが言える

んだよ」と言われれば、「その通りです・・・」と頭を下げ

るしかない。ただ、懺悔・・・。


 しかし、そのような “現実の地獄” を生み出すのは、わた

したち人間のアタマが「自分の “正しさ” を疑おうとはしな

い」からだということは、言いたい。

 「正しさ」が、わたしたちの中にあるものを実体化させる

時・・。それは多くの場合、地獄か、それに近いものです。


 もしも、その “現実の地獄” に囚われてしまったら・・。

 わたしたちは、なんとか心の中を “地獄の外” に出すしか

ないでしょう。

 アウシュビッツの生き残りであるヴィクトール・フランク

ルが言った「態度価値」というのは、そういう事なんだろう

と思う・・・。しかし、虐待される幼い子供には、そんなこ

とは望めないので本当に言葉も無い・・・。わずかばかり胸

を痛める事しか出来ない・・・。


 それでもね、自分の中の「地獄」を生むのも、やっぱり自

分(エゴ)なんですよ・・・。理不尽に見えてもね。酷くて

もね・・・。やっぱりね・・・・。



 




2019年3月9日土曜日

「バカ」はアタマが悪い



 今までに書いたものを読み返すと、「コイツ、ほんと訳わ

かんない」と自分でも思ったりする。これじゃ、何が言いた

いのか伝わんないだろうと思うけれど、それはそれで、まぁ

い。べつに仕事じゃないんだし、誰かに採点してもらう必

も希望も無い。「バーカ!」と思われたとしても、それだ

のことだし。

 そんなことより、全体として訳が分からない文章だとし

も、その中のある一行に誰かが目をひらかれて、気分が良

なる可能性が大事だと思ってる。だから、訳が分かんなく

ろうとも、(世間的に)変な事を書いた方がいい。変なこ

は「引っかかる」からね。スルーしにくい。

 「なんだこりゃ?」と思わせたら、つかみは OK!

 それで「バーカ!」と思われるか、「ふ~ん・・」と思わ

れるかは縁次第だから、私の知ったこっちゃない。どうせ人

は、聞きたい事だけを聞いて、分かりたい事だけを分かろう

とするものだから、自分の言動に対する人の評価なんて、あ

んまり相手にするもんじゃないと思ってる。ただただ、良い

ご縁があれば誰かの為になると思うだけ。『バカと鋏は使い

よう』(こういう言葉は、今や “炎上系” なんだろうな。メ

ンドクセエなぁ)などとも言うし。


 何か意見を言おうものなら、「おまえの言ってる事は正し

い」とか「正しくない」とか、すぐにまな板に載せられる。

「正しい」かどうかでものを判断するアタマの性癖にはほと

ほとウンザリする。だから私は《「正しい」とは、そういう

ことにしておけば気が済むということ》という言葉を用意し

てあるわけです。

 自分の言動をまな板に載せられそうになったら、「その前

にひとまずこれをどうぞ」とこの言葉を差し出す・・。そし

て「さばけるもんならさばいてみろ」と、ほくそ笑む。


 実生活では、実際にはそういう局面はまず無いですけど

ね。

 メンドクサイですからね。そういう局面からは逃げる。意

見なんて言わない。さっきも書いたように、相手がこっちの

話を聞く気があることなんか滅多にないんですから  こっ

ちも聞いてないけどね。


 話し合いや議論が行われても、それが理解し合うことにつ

ながる可能性はとてもとても低い。みんな自分の方が変わる

のはイヤですから。

 人と人が話していても、やってることは “独り言の応酬” 

でしかないというのが実体でしょう。それを議論とかコミュ

ニケーションとか呼んだりして御満悦なのは、横から見てる

とお笑いです。だから、ケンカにならないように、普段して

いる話は、どこかの誰かの噂話か、共通の敵の悪口なんです

ね。自分に関係ない話をしているぶんには、自分が変わらな

ければならない局面には遭遇しませんから。


 みんなそういう風に人と話をしているんだから、自分の意

見を通そうなんて思うのは、とんでもない事だと思うんだけ

ど、自身のエゴが傷付けられそうに感じると、通そうとする

んですよねぇ。みんなワガママだから。ろくでもない結果し

か出ないんだけど。


 「お互いに出来損ないなんだから、ムキにならずにほどほ

どで行きましょう」っていう風になるのが一番いいんだけど

ぁ。

 お互いさまなんだから、自分がバカでもいいのにね。そん

なに、自分を「バカだ!」と評価することを怖れなくてもい

いんだけど、 それこそ、アタマが悪いんだからしょうがな

いか。「自分のアタマが悪い」ということを受け入れられな

い事が、根本的なアタマの悪さだからね。


 ここまで書けば、このブログを見た人が「コイツ、あたま

が悪いな」と気安く断ずることはしにくくなるんじゃないだ

ろうか。

 実のところ、私も「あたまが悪い」とは思われたくはな

い。

 悪いのは、私の “アタマ” であって 、私の “あたま” では

ないですからね。

 みんな “アタマ” が悪いんだけど、それぞれの人とその人

の “アタマ” は別ですから、その人を否定するのはお門違い

です。


 子供が口ゲンカして、よくこう言いますね。

 「バカって言う方がバカだ!」

 あれは、言い得てますよ。

 「バカ」なんていう言葉は、この世に必要なかったんじゃ

ないでしょうか。

 でも、それぞれの言語で真っ先に作られた言葉の一つのよ

うな気がするなぁ。だって、人間のアタマは悪いからねぇ

・・・・・。








2019年3月6日水曜日

“変” は普通だ!



 夕食を食べながらテレビをザッピングしていると、『ため

してガッテン!』で「レビー小体型認知症」についてやって

いた。幻視などを伴う脳機能障害だそうで、患者で、自身の

体験談についての本も出版されている女性が、「この病気の

症状そのものより、周りに理解されない事の方が苦しい」と

話をされていたが、そりゃそうだろうね。幻視の症状を訴え

る人を、「脳機能に障碍が有りそうだな・・」と見てくれる

人はあまりいないだろうから。普通は「頭がおかしくなっ

た・・・」と思うだけだろうから。確かに、頭(脳)がおか

しくなってはいるんだけどね・・・。


 「こんな病気になったら、そりゃ困るだろうな」と思いつ

つ、「けど、人の苦しみって、そのほとんどが “周りに理解

してもらえない” ってことだよなぁ」と呟いていた。

 病気であれ、価値観の違いであれ、能力の違いであれ、好

みの違いであれ、宗教の違いであれ、周りの理解と配慮が得

られなくて、みんな苦しんでいるんだよね。


 誰もが、「自分を理解して欲しい」と思い。「人を理解し

てやろう」というのは二の次、三の次どころか、考えもしな

い。みんな自分の事で手一杯。「わたしのことを分かって欲

しい・・・。分かって助けて欲しい・・・」というので精一

杯というのが、まぁ普通のようです。


 いったい、誰が自分を理解してくれるでしょう? そんな

幸運、なかなかめぐり会えませんよ。

 今も書いた通り、誰もが自分のことで手一杯ということも

あるけれど、人を理解するなんて、そう簡単なもんじゃな

い。「こんな感じみたいだな・・」ぐらい感じられれば、上

出来でしょう。

 「理解を求める」「理解してあげる」なんて、ちょっと要

求レベルが高すぎるという気がするな。理解されなくても、

理解してあげられなくても、「誰にでもそれぞれの事情があ

るだろうから、“関係の緩衝地帯” をできるだけ広く取って

おこう」という態度でいいんじゃないだろうか。

 「コイツ、変だ!」→「だから、ダメ!」じゃなくて。

 「こいつ、変だ。」→「なんだろう?」というのが、人と

してのたしなみだと思うな。


 「コイツ、変だ!」→「だから、ダメ!」という判断を下

す人の場合、その人は永久に、その時の自分の世界に閉じた

ままです。

 一方「コイツ、変だ。」→「なんだろう?」という受けと

め方をする人の場合だと、その人の世界は拡がって行く。拡

がって拡がって、行き着くとこまで行くと「世界は変だ。そ

れで普通だ。」という悟りに達します。


 今思いだしたけど、アニメの『うる星やつら』のテーマ曲

の一つに、こんな歌詞があった。


  変と変を集めて もっと変にしましょ

  “変” が変な宇宙は 大変だ・だ・だ!


 わたしたちがしょっちゅう抱く「変だ!」という思いは、

誰もがしょっちゅう普通に「そう思う」というだけで不問に

処されていますが、ほんとうはかなり破壊的な反応ですよ。

自分に対しても、自分以外に対しても。

 「変だ!」と思う自分の方が “変” かもしれないのに “変”

を否定していると、自分の足元が揺らいできてしまう。

 「変だ!」の応酬が拡がって行けば、誰も彼も、自分の足

元が不安定になって、世界が不安定になる(なってるでし

ょ?)・・・。


 《 “変” が変な宇宙は 大変だ!》

 だから、みんな、生きてる事が大変なんですよ。


 誰もが日常的に、自分の周りにたくさんの “変” を見てい

るのなら、“変” は「普通」でしょ?



 《“変” が普通な宇宙は 安心だ・だ。だ!》


 ということで今日は絞めましょう。

 (まともな話だったでしょ?)



愛である



 『愛とは何か?』と以前書いた(2018/3)。「エゴ以外

のものはすべて愛である」と。

 愛とは、《絶対の許し。絶対の肯定》だと。

 私的にはそれでいいと思っていますが、でも、ちょっと大

袈裟ですよね。これは「愛」というより「慈悲」ですね。仏

さまの “愛” です。もう少し人間的な意味で「愛」を再定義

してもいいんじゃないかなと思ったので、今回のブログで

す。


 わたしたちは、「愛する」と言う。

 「愛」とは、人が、ある対象を肯定し、“肯定” を前提に

働きかけて関係を持つことだとイメージしている。「愛」

は、「する」ものだと考えているのが普通でしょう。私も以

前はそう考えていた。けれど、和尚(シュリ・ラジニーシ)

の言葉に出会ってから、「愛」の定義が変わった。「愛」は

「する」ものではなくて、「ある」ものだと。


 和尚はこう言っている。

 《愛は関係性ではない。愛は存在のひとつの在り方だ。た

だ、愛でありなさい》


 《愛でありなさい》というのは、「肯定する」というより

もっと謙虚に、「否定することから離れなさい」と捉えてお

けばよいだろう。自分には、どんな存在も、肯定したり否定

したりする資格も権利も無いことに気付けば、おのずとそう

なる。


 実際、いったい誰に「何かを肯定したり否定したりする資

格や権利」がある? そんなものが存在するのは、社会の約

束事の中だけ。本来のわたしたちの〈生〉には無いもので

す。エゴが、自身の安定を図ろうとして、否定と肯定のバラ

ンスゲームをしているだけ。

 あるものの否定は逆のものの肯定で、あるものの肯定はそ

の逆のものの否定で、エゴはバランスを取ろうと四六時中あ

っちへ行ったりこっちへ行ったり、休む事無く動き回る。落

ち着くことなど出来ない。

 《愛でありなさい》というのは、エゴを黙らせることで

す。「ちょっとおとなしくしてなさい」と、エゴを下がらせ

ることです。


 なにもかもをあるがままにさせておく。

 あるがままを眺めている。

 善悪、要不要、優劣、好悪などの価値判断をお休みにし

て、それと共に在ること・・。

 働き掛けることは止めて、ただそれと共に在ること・・。

 春のそよ風を肌に感じて、その心地よさに、ただ無心にひ

と時を過ごすような・・・。


 春のそよ風に限らず、どんな生命であれ物であれ、それが

そこに存在しているという不思議に目を開くことができれ

ば、エゴは退散してしまう。思考の出る幕が無いので・・。

 すべては、わたしたちの思考以前に存在している。

 すべては、意味付けされなくてもそこに在る。その大前提

を前にすると、アタマは黙ってしまう。


 《愛であること》は、言葉を介さずに世界を感じること。


 静かに壁に触れてみる。

 黙って、夜の音に耳を傾けてみる。

 街を行き交う人を、アリの行列を見るようなつもりで眺め

てみる。

 頭の上には、無限の宇宙へと開かれた空がある。その無限

の空間を見通してみる。

 自分の手を優しく撫でてみる・・・。


 言葉以前の世界は、何も拒んでいないことが分か

る・・・。それは《愛》じゃないですか?

 そして、その世界の一部である自分も、言葉から主導権を

取り戻せば《愛》ですよ。

 ちょっとロマンティックに過ぎるかもしれませんが、そう

いうことですよ。


 あなたも《愛》なんです。その本質は。

 アタマに脅され、そそのかされ、惑わされなければ、「お

だやか」で「なごやか」で「静か」で「おおらか」で「寛

容」で「満ち足りている」存在です。

 本当ですよ。

 たとえそれが妄想や自己暗示でもイイじゃないですか。世

の中の妄想やマインドコントロールよりは、ずっと上品で気

が利いてると思うな。


 自分の手を撫でてみて下さい。

 撫でてる手と、撫でられてる手は、なぜそこに在るのです

か?

 撫でられてる手は気持ちよくありませんか?

 撫でてる手には、言葉に出来ない想いが流れ込んでいる様

に思いませんか?

 その「静か」で「やさしい」感覚は、人が持って生まれた

ものじゃないでしょうか。


 エゴ以外のものは、すべて《愛》なんですよ。やっぱり。


 (再定義に失敗したようです)





2019年3月3日日曜日

春を探す~「諸行無常」


  春は名のみの風の寒さや 谷のうぐいす歌は思えど

                   「早春賦」


 近所で春を探す。春を感じる。

 ホトケノザ、ヒメオドリコソウ、オオイヌノフグリ、ハル

ノノゲシ、スミレ・・・、春の花が道端で咲き始めている。

我が家のクレマチスの芽も動き始めた。空の青さも冬とは少

し違ってきている。


 春になるから花が咲くのか、花が咲くから春なのか。

 「暖かくなったおかげで花が咲くんだから、“春になった

から” 花が咲くんだよ」、そう言う人も多いだろう。でも、

もし暖かくなっても花が咲かなかったら、それを “春” と感

じるだろうか? スミレが咲くこと、暖かくなること、さま

ざまな自然のはたらきすべてで、“春” なんだろうなと思

う。


 どういう必然なのかは知らないけれど、常に自然に目が向

く。「人間ばっかり相手にしていると、頭がおかしくなる」

と昔から思っている。目が、耳が、鼻が、肌が、自然と自然

を求める。生活をしていると “作為” に疲れるのだろう。だ

から “無為” の自然に、安らぎを求めるんだろうな。すぐに

疲れちゃうんですよ、私は。人と人との “作為” の関係

に・・・。


 自然は、「自ずから、然らしむる」という言葉の通り

“そのまま” ”ありのまま” で、わたしたちの周りにある  

わたしたちそのものでもある。そこには何の計算も企ても無

い。フラットで、プレーンで(同じ意味か・・)、そのまま

を受け取ることができる。そのことが私を落ち着かせる。


 自然は言う事を聞かない。でも、文句も言わない。その

「文句を言わない」のがイイ。

 こっちの言うことを聞いてくれないことは、「文句を言わ

ない」ことの前では取るに足りないことだ。お互いに文句を

言わずに “ありのまま” でいられるのだから。


 何年か前に『アナと雪の女王』の主題歌が流行ったね。

〈ありのままの~〉ってやつ。

 あれは個人主義者の言う「ありのまま」だから、エゴの

「ありのまま」で、欲望の臭いがプンプンしていてウンザリ

した。「“ありのままの自分” を、知ってるのかよ?」と思

い、「まだこの上に我儘を積み上げる気か?」とね。

 昔、〈ありのままに生きようとしたアリは、アリのままだ

った・・・〉と、〔あのねのね〕は歌ったけれど、それが 

“ありのまま” っていうことです。“ありのまま” って、自分

から動こうとしないことです。自分から動いている様に見え

ても、それは動かされているんです。まぁ、エゴにそそのか

されて動くのも “ありのまま” と言えば “ありのまま” なん

だけどね・・。収拾が付かないなぁ・・・。


 エゴに動かされる “ありのまま” は、どんどんと “作為” 

の世界に入り込んで行き、常に状況の仕掛けに注意を払って

いなければならなくなる。でも自然の “ありのまま” に向き

合う時は、何も考えなくていい。素直で、清々しくいられ

る。どちらも “ありのまま” だけど、自然に向き合える “あ

りのまま” でいられるほうがラッキーだと思う。

 その点、私はラッキーだ。オオイヌノフグリの空色の花を

見て、スッと気分良くなれるんだから。


 春はうれしい。

 冬だってうれしいけどね。やっぱり花好きとしては、春は

格別です。


 大島弓子の『綿の国星』の中で特に印象深い一節がありま

す。


  ひとつの事を考えつめようとしても

  もう次の考えにうつってしまいます


  外のけしきが一日一日とうつりかわってゆくからです


  おばけのような桜がおわったかとおもうと

  遅咲きの八重桜


  すみれや れんぎょう 花蘇芳(はなずおう)


  黄色い山ぶき 雪柳

  なんとすごい

  なんとすごい

  季節でしょう 



 春が来るたびに、この一節を思いだします。

 春はすごい!


 この世界は「諸行無常」です。人はそれを「諸行無情」と

受け止めがちです。

 でも、春のダイナミックな移り変わりは、「諸行無常」の

美しさや驚異や奇跡を教えてくれるように思います。「諸行

無常」だからこそ、この世界は美しいし、わたしたちは喜び

を感じられるのでしょう。



 春、さまざまな命が、“移ろい” の力によってこの世界に

押し出されて来る・・。“美しさ” という「問い」をたずさ

て・・・。


  なんとすごい

  なんとすごい

  世界でしょう!