2024年2月12日月曜日

極悪人をやっている人へ



 「あなたは極悪人だ」という前提で、今日の話を始めま

す。
 

 あなたはもう何年も極悪人として生きている。

 自分の欲望を満たし得をする為には、誰が困ろうが死のう

が気にしない。他人を平気で利用し、搾取し、必要があれば

法律に触れないような方法で人を殺しもするし、法律に触れ

ても捕まらなければ人を殺してもいいと考えている。完全に

自己中心的で、すべては自分のために利用するものでしかな

いと考えている。「良心」などという言葉を聞いても、まっ

たく理解できない。いや「良心って、自分の快楽のことでし

ょ?」などと本気で思っている。

 あなたは極悪人である。


 と、ここまで書いて来たところで、引っかかる言葉がいく

つも目に付く。

 「欲望」「搾取」「法律」「自己中心的」「利用」「良

心」「理解」「快楽」「本気」、そして「極悪人」。

 何が引っかかるかというと、それらの言葉は本当は何を指

しているのかということ。それぞれの言葉が一般的に持たれ

ているポジティブイメージやネガティブイメージや意味は妥

当なものなのか?「理解」という言葉は、ちゃんと理解され

て使われているのか? 「良心」とはいったい何か? そんなこ

とが引っかかる。


 普段はそこまで引っかからないけれど、今日やたらと引っ

かかってしまったのは、「極悪人」のことを書こうと思った

からだろう。一人の人間を「極悪人」として扱うからには、

非常に公正な態度が求められる(はずですが・・)。言葉の

意味、軽さ、重さ、イメージなどを十分考慮して書かなけれ

ばいけないので、書き始めた文章を見てみると、普通の意味

合いで気安く使うわけにはいかないなと思ってしまった。定

義の検証が必要だと思ったけれど、10個もの言葉を検証し

ていたら、10個のブログを書くことになってしまう。やっ

かいなものだ。


 やっかいなものだといっても、そんなことをやっかいに思

うのは私のような変わった人間だけで、普通の人は思わな

い。“「良心」は「良心」だ” 、“「極悪人」は「極悪人」だ” 

と思うだけのことだろう。言葉というものは、それぞれ、あ

る確固としたものを表していると普通は考えているだろうか

ら。

 しかし、私はそうは思っていないので、こんなところでい

ちいち引っかかる。言葉というのは、とても恣意的なものだ

と私は思っているから。思っているというよりも、そういう

ものだと生理的に身に沁み込んでいるぐらいだから、特にも

のの「善・悪」を語るような時には無視できないようだ。


 誰もが自分勝手に言葉を使う。自分勝手に言葉を使ってい

ることを気付いてもいないので、世の中には誤解、無理解が

あふれることになるけれど、誰もが理解しているつもりでい

る。

 恣意的な意味付けで言葉を使い、恣意的な意味付けで言葉

を聞き、恣意的な意味付けで理解し、恣意的な判断を下

す。・・・書いていて恐ろしくなった。


 さて、ここまで書いて来て、ようやく「極悪人」のあなた

へ向けて書くことが見えて来た。「善・悪」とは、恣意的で

あるかどうかではないのか?

 「恣意性」をできるだけ排除する態度が「善」で、「恣意

的」であればあるほど「悪」なのではないか?


 「恣意性」が無い。それはエゴの不在と同等だろう。

 「恣意性」が強い。それはエゴが強いということだろう。

 「善・悪」はエゴがどれだけ現れているかということだろ

う。


 さて、「極悪人」のあなたは、エゴむき出しなのだ。エゴ

に何のブレーキも掛かっていないのだ。エゴが生きているの

だ。あなたが生きているのではない。

 あなたが「極悪人」なのではない。あなたなど、もうとう

の昔にいない。生きているのは「極悪人」という亡霊のよう

なものなのだ。それは “世の中” という出来事のネットワーク

の中で、悪目立ちする火花のようなものだ。実体は無い。

 気の毒なことだ・・・。百年生きようが、一年生きたこと

にもならないだろう。もう死んでいるのだ。

 ケンシロウが「お前はもう死んでいる」と言ったのは、秘

孔を突いたからではない。もともと死んでいると言っている

のだ。秘孔を突くのは、「極悪人」を成仏させるためのケン

シロウの慈悲だろう。だから「人間のクズ」を倒しても、ケ

ンシロウは悲しい目をしていて笑ったりはしない。


 ・・・話がそれた。

 あなたが「極悪人」をやっているのは仕方がない。どうし

ようもない。それが必然なら「極悪人」を続けるしかない。

それは決して幸福なことではない(と私は思っている)が、

しようがない。

 あなたは生きていない。

 あなたは死んでいる。

 エゴには生命は無い。

 あなたは世の中の動きの一部でしかない。実体は無い。実

感も無い。亡霊としてさまよって行く。救いは来ない。


 あなたは生きていない。

 あなたは生きていない。

 あなたは生きていない。

 あなたは生きていない。

 ・・・・・・・・・・



 「極悪人」として扱って失礼しました。最後の方は気分が

悪くなったかもしれない。自分で書きながら読んでいて気分

が悪くなったぐらいですからね。すみません。


 「極悪人」として扱われた気分はどうですか?

 わたしたちは多かれ少なかれ「悪」です。「悪」はわたし

たちのエゴの部分で、それは常にある。そして「悪」は死ん

でいる。生きたいのなら(しあわせでいたいのなら)「悪

(恣意性)」に乗っ取られないようにしなければなりませ

ん。そうしなければ命は無い。


 「極悪人」はこんなブログ見ないけれど、もしも、もしも

あなたが本物の「極悪人」ならば、私は心の秘孔を突いてあ

げたい。


 あなたはもう死んでいる。


 成仏してもらいたい。

 そして、もう一度、本当に生きてもらいたい。せっかく生

まれてきたのだから。




2024年2月11日日曜日

ただの人



 「気楽に生きられない人へ」と題した昨日の話は、タイト

ルにそぐわない大袈裟な話になってしまった。アタマが悪い

ね。

 けれど、気楽にしていられるようになるには、一度徹底的

に真剣になってみる必要があるのでしょう。例えば、仏教の

歴史の中でいわゆる「悟り」をひらいたような人は、大抵大

きな不幸に遭っている。その苦悩から解放されたいと、生き

ることや世界というものを徹底的に考え抜き、感じ取ろうと

した結果「悟り」をひらいた。ようするに「気楽」になっ

た。


 私は以前まで「悟り」というものを大袈裟に考えていまし

た。なにやら高尚で、人の到達し得る最高に格の高い境地の

ような・・・。努力を重ね、妥協を排除し、ほとんど命懸け

のように真剣に取り組んで到達し得るものだというような。

けれど、いまは違っている。ほとんど真逆に考えている。

 努力をやめ、妥協しまくり、ほとんどテキトーに、ゆるゆ

ると、なりゆきにまかせることで「ああ、なんだぁ、そうか

ぁ😀」と思い当たるものだと考えている。それは、ある意味

「徹底的に・・」ということではあるけれど。


 「悟りを得る」「悟りをひらく」という “求める心” が、努

力に繋がるわけですが、「悟る」ためには “求める心” はどう

考えても邪魔でしょう。それはエゴだから、どんなに努力し

ても、“求める心” が最後に障壁として残ってしまう。だから

悟りたいのならば悟ることを放棄した方がいい。

 立派な人になろうとか、徳を積もうとか、「自分を良い人

間と思いたい」という欲求を投げ出して、「自分はひとりの

人間で、だから当然出来損ないで、良くなり切るなんてこと

は不可能なんだから、カッコつけてもしょうがない」と、い

まのまま、あるがままにまかせてしまう。努力をやめ、妥協

しまくり、ほとんどテキトーに、ゆるゆると、なりゆきにま

かせる・・・。


 「そんなことしてたら落伍者(古い言い方ですけど)にな

ってしまう・・・」と思われるかもしれないですけど、そう

なったとしても、それは「カッコつけようとしている人々の

中での落伍者」ということなので、むしろ地に足の着いた、

落ち着きのある状態でしょう。


 落伍すればいいのです。落ちればいいのですよ。

 「悟り」とかいうと、誰でも「上にある」というようなイ

メージを持つことでしょうけど、「悟り」は下にある。

 上がろうとしないで、望みにしがみつかないで、手を放し

て落ちて行ったところに「悟り」はある。

 落ちるといっても 1 mmもない距離です。いま、ここで、

いま、ここに落ちる・・・。

 努力をやめ・・・と書きましたが、「上がろうとするのを

やめる」「手を放す」というのは「努力」のうちに入るのか

もしれません。でも、まぁそれぐらいはしましょう。一歩歩

く程度のことです。


 はじめの方で書きましたが、「悟る」とは「気楽になる」

ことです。それだけのことです。昔の人たちがもったいぶっ

て大袈裟に考えてしまっただけのことです。

 まぁ、昔の人には昔なりの事情があったでしょうから、責

める気もバカにする気もありませんが、気楽になればいいの

です。

 どうせ生きて死ぬだけです。何をしたって、済んでしまえ

ば何ということもないのです。世界を征服したってしばらく

したら寿命は尽きる。それだけのことでしかないのです。何

ものかになる必要なんてないのです。ひとかどの者になった

ところで、それはそれだけのことです。聖人も極悪人も、つ

まるところ「人」です。一番望ましいのは「ただの人」であ

ることのように思います。徹底的に「ただの人」を謳歌する

ことだと。


 もしかすると、なりゆきで立派な人になるかもしれませ

ん。聖人とあがめられるようになるかもしれません。それは

それで悪いことでもありませんが、「それだけのことだ」と

気付いていなければなりません。つまるところ「ただの人」

なんだと。

 まぁ、極悪人にはならないようにした方がいいでしょう

が、もしなってしまっても気楽に極悪人をやったほうがいい

でしょうね。





 

2024年2月10日土曜日

気楽に生きられない人へ



 今日たまたま、テレビから「気楽に生きられない・・」と

いう言葉が聞こえて、「あっ、これでブログを一つ書こう」

と思ったのですが、まだ何も考えていない。書きながら考え

てゆきます(気楽だ)。


 「気楽に生きられない人」とは、どんな人か? 当然、その

ような人は物事を大袈裟に、深刻に捉える人なわけですが、

物事が本当に大ごとで深刻なら、誰でも気楽にはしてられな

いので、「気楽に生きられない人」というのは、大したこと

ではないことを大ごとに感じてしまっている人ですね。尚且

つ、自分が気楽にしていられないことに対して問題意識を持

っている人のはずです。自分が気楽にしていられないという

ことを気楽に受け止められるなら、その人は結構気楽な人で

しょうからね。


 で、ここまで話が進んで来ると、“「気楽に生きられない」

ことを「気楽に受け止められない自分」に問題を感じている

人” が、問題意識を払しょくして「気楽に生きる」糸口が見

えてきます(面倒くさくてゴメンナサイ)。

 「気楽でない」のは、問題意識を持ってしまうからです

ね。様々なことをむやみやたらに「問題」にしてしまうわけ

です。ならば「問題」にしなければよいということになりま

すが、その為には「なぜ、問題にしてしまうのか?」という

ことがあきらかにされなければなりません。そもそも「問

題」とは何か? 

 「問題」とは、「こうあるべきだ」「こうなってほしい」

という欲求と、現実との落差に対する不満・危惧が、その解

消を求めて来ているということでしょう。

 よく似たものに「課題」というものもあります。こちらは

「問題」よりも少し現実的で、自分の欲求というより、状況

からの要求という部分が強いでしょう。まぁ、完全に区別す

るのは難しいでしょうけど、基本的には「自分発」のもので

はないでしょうね。なので、ここでは「課題」はスルーしま

しょう。問題は「問題」の方です。


 「問題」を生むのは、欲求です。語弊を怖れずに言えば、

欲です。

 我が家は築五十年で、阪神淡路大震災にかなり揺さぶられ

てもいるので、能登の地震のようなのが来たら本当にヤバ

い・・。問題です。けれど、「壊れてほしくない」と私が思

わなければ、問題ではありません。「そうなったらしようが

ない」と私が肚を括ってしまえば、たんなる想定のひとつに

過ぎません。「壊れてほしくない」というのは、私の欲で

す。そんなことを考えて「問題」にしているのなら、「壊れ

ないように耐震補強をしよう」と「課題」にして解決を図る

のが大人の態度でしょう。


 和尚(ラジニーシ)の本の中にある小話でこういうのがあ

ります。


 ある夜、夜中に妻が目を覚ますと夫が起きてそわそわして

いる。

 「どうしたの?」と妻が訊くと、

 「明日、借金の返済日なのに返す金が用意できてなくて眠

れないんだ」と夫が言う。

 「アンタ馬鹿なの?お金が返してもらえなくて困るのは向

こうの方じゃない。さっさと寝なさい!」

 それを聞いた夫は「ああ、そうか!」と安心して眠った。


 これはジョークですけど、わたしたちの「問題」というの

は、大なり小なりこういうものです。さしあたり有効な打つ

手のない現実に対して、わたしたちの欲求が「望ましいスト

ーリー」を盛ろうとするので、自分で落差を生んでしまい、

実際には無い壁が立ちはだかることになる。


 ずっと前に書いたような気もしますが、「脳」という字と

「悩」という字には「月偏」と「立心偏」の違いがあります

けど、ものを(脳で)考える時に、そこに「心」を介入させ

ると「悩」になるわけです。そのように「課題」に「心」

(欲)を介入させると、「問題」になるわけですね。「こう

あるべきだ」「こうなってほしい」と。ようするに自分で考

えて大ごとにするわけです。

 まぁ、実際に大ごとだったりすることもあるのでしょうけ

ど、さしあたり有効な打つ手が無いのであれば、それが大ご

とであっても肚を括るしかないというのが現実でしょう。


 さて、わたしたちがいろいろなことを「問題にしてしま

う」のは、欲があるからであり、現状を受け入れようとはし

ないからだということが見えてきました。であるのなら、

「気楽に生きられない」という、むやみやたらと物事を「問

題」にしてしまう人は、欲の強い人だということになりま

す。普段は結構気楽に暮らしているという人でも、気楽にし

ていられなくなるような時には、欲が出ているわけです。


 人間の最も強く、根本的な欲は「死にたくない」というこ

とでしょうけれど、「明日死んだって別にかまわない」とい

う人ならば、死さえ「問題」にしていないのですから、それ

以外のことなど、はなから「問題」になりません。そこから

逆算すると、気楽に生きられない人というのは、「死にたく

ない」という欲が強いのだろうと考えられます。( ”「死に

たくない」というのが欲か?” という、反論がありそうです

けど・・・)


 むやみやたらに「問題」を作り出してしまう人は、常に意

識下に「死にたくない」という想いを強く持っているのでし

ょう。

 些細な変化、イレギュラーも、心の底で死の想念と繋げて

しまって不安になる。そいう状態は “死を振り払いながら生

きている” ようなものでしょうから、気楽にしていられるわ

けがない。


 『「死」から生まれて来た』(2019/2)という話を前に書

きましたが、あらゆる生命は「死」から生まれて来る。生命

のベースは「死」です。ですから、「死」を振り払おうとす

ば、生命は「死」から浮いてしまいます。拠り所を失って

まう。

 生命は、「死」という海の表面にひととき現れるさざ波か

渦のようなものです。鴨長明は「泡のごとし」と言いました

が「死」を離れて生命は存在しない。


 「死」がそういうものだと理解してしまえば、“死を振り払

いながら生きる” というようなことは、徒労どころか愚行で

しかないと思えるはずです。


 「死」に身をまかせてしまえば、それ以上に気楽なことは

ないでしょう。ようするに、死ねばいいのです。

 首をくくる必要も、ビルから飛び降りる必要もありませ

ん。自分を「死」にあずけてしまえばいいだけです。


 〈 死せよ、成れよ 〉とゲーテは言いました。生きているう

ちに自分を死なせてしまえば、それ以上穏やかな生き方はな

いと悟ったからでしょう。


 死ねば、楽に生きられる・・・。そりゃそうでしょうね。

「生きよう」と頑張る必要がなくなりますからね。





2024年2月7日水曜日

良い人生を送る方法



 〈 もし、結婚したくなった時、「この人の為に、自分の人

を棒に振ってもイイや!」と思えるなら、その結婚は良い

のになるのだろうと思います 〉


 そう書いたのは『結婚してもしあわせになる方法』

(2017/4)の中ででした。誰かが結婚したり、結婚生活の悩

みや不満を口にしていたりすると、いまでもすぐにこの言葉

が頭をよぎります。

 結婚をしあわせなものにしたいのなら、この考えは必須だ

と思っていますが、今日はこの言葉の適用範囲をもっと拡大

してやろうと思って、ブログを書き始めたのです。こう言い

換えてみましょう。


 「この人生の為に、自分の人生を棒に振ってもイイや!」

と思えるなら、その人生は良いものになるだろうと思いま

す。


 ちょっと意味がわかりませんね。解説してゆきましょう。


 始めに出てくる「この人生」は、生まれてきて死ぬまで

〈とにかく生きてゆく人生〉のことです。後の方の「自分の

人生」は、〈世の中でさまざまな物語に自分を投影しなが

ら、できるだけ望みが叶うようにしたい人生〉のことです。

 ですから、「自分の人生を棒に振る」というのは、〈自分

の望みなんか二の次にしよう〉ということですね。その上で

〈とにかく続いてゆくこの人生を受け入れてゆこう〉と肚を

括ることで、人生は良いものになるというわけです。


 しかし〈自分の望みなんか二の次〉にして、人生が良いも

のになるのでしょうか? 

 なります。


 以前、「ストーリー(物語)を持たなければ不幸になれな

い」ということを書きました。「ストーリーを持たなけれ

ば、人は本来やすらいでいる存在だ」と。(『不幸になって

みよう!』2020/4)

 〈望み〉というのは物語の中で生まれます。〈世の中の物

語に自分を投影して望みが叶うようにする〉というのは、物

語の中に身を置くことですが、物語の中には必ず不幸が発生

します。それは避けられません。そこに身を置けば、人生が

良いものになるはずありません。幸・不幸のシーソーゲーム

で揺れているだけです。刺激が欲しいのならそれでいいので

しょうが、刺激はしょせん刺激でしかありませんし、人は刺

激に慣れてしまうものです。そうなると、シーソーの落差を

大きくしないと物足りなくなるのです。中毒状態になりま

す。そしていつの日にか物語が終わる時が来て思う、人生そ

のものを、落ち着いてしみじみと味わったことが無かった

と。


 《 世の中なんかたしなむ程度にしておきなさい 》と、私は

自分自身に言って聞かせますが、人生もたしなむ程度がいい

のです。〈自分の人生〉を眺めている、もう一つの人生があ

るのです。不幸の存在しない、乱されることのない落ち着き

に満ちている人生が。





2024年1月30日火曜日

孤独な人へ



 孤独だと感じている人へ。


 大抵の人は孤独を感じることがあるでしょうし、常に孤独

にさいなまれている人もいるでしょうけど、孤独ってそもそ

もなぜ感じるのでしょうか?孤独とは何なのでしょうか?

 実は、孤独とは自意識の自家中毒です。
 

 なぜ人は他者を求めるのか?

 自意識が存在する為には「自」と「他」を分けなければ仕

方がないですよね。ですから自意識があるということは、自

分が世界から区切られているということに他なりません。し

かし、人が母親のおなかの中にいる時は世界と区切られてお

らず、世界と一体であるという全能感の中に有ります。そし

てその感覚は、生まれた後に自意識が芽生えたあとも残って

いますから、自分が満たされていないと感じ、他者(自分以

外の世界)と繋がることで全能感を取り戻したいという欲求

が生まれます。その全能感への飢えが「孤独」の正体です。

けれども、本当は自分と世界は区切られてはいません。自意

識の思考が自他を区切っているだけです。孤独は自分が生み

出しているのです。孤独が自分を生みだしているとも言えま

す。


 孤独から逃れたければ、自分と他者(自分の外の世界)と

の間の壁を取り払えばいいのです。それは人との間に壁を作

らず仲良くするということではありません。実質的に一人か

どうかは関係ないのです。孤独は自意識が作り出しているの

だということを認識するだけでいいのです。そうすれば、一

人で居ても、テーブルやコップや椅子や着ている服までもが

愛おしくなるのです。いま手にしているスマホを、あらため

て愛おしむ気持ちで触れてみて下さい。もちろん身体の一部

ではありませんが、それは自分とは別の世界にあるのです

か?

 自意識の中にしか孤独はありません。なので自意識(エ

ゴ)の強い人ほど、孤独を強く感じることになります。自分

は世界から独立した存在だという自意識の驕りが、そのまま

孤独へと姿を変えるのです。


 孤独はのりこえるものではありません。誰かと繋がる必要

もありません。孤独はただ「やめるもの」です。自分が作っ

ているのだと意識するだけでいいのです。それだけで、孤独

は消えるものです。

 本当は、この世界に孤独など 存在していないのです。




2024年1月28日日曜日

義務と引きこもり



 この頃、ブログを書きかけても途中で手が止まる。まぁ、

書きたいことはあらかた書いてしまっただろうからしようが

ないだろうなぁ。

 戦争が起きたり、地震が起きたり、酷い事件が起きたりす

るけど、これまでにもそういうことをきっかけにブログを書

いたりしてきたから、それを題材にしてブログを書くと、同

じことの繰り返しになってしまう。まぁ、それでもいいんだ

ろうけど、このブログを義務とか使命のようなものにしたく

はない。ごく自然に、「気付いたら書いてしまった」という

のが望ましいと思っている。アタマ(思考・自意識)の介入

はできるだけ避けたいのです。


 私は義務感とか使命感というものは嫌いです。仕事上で求

められるものは別ですよ。それは引き受けた上で仕事をする

のですから。 でも、個人が自らに義務や使命を課すのは、ナ

ルシズムやマゾヒズムの臭いがして気持ち悪い。アタマの横

暴、自己陶酔だと思う。でも、ほとんどの人は自分に義務を

課すでしょう。アタマは自分に忍び込んだ社会だから、自分

をコントロールしたがる。「ああしろ」「こうしなくちゃ」

と。

 ニートや引きこもりの人なんかも自己否定感を持つでしょ

うが、それは自分の義務を果たしていないという意識がある

からでしょう。社会から離れていたってそういう意識がある

ということは、アタマが社会だからです。

 アタマが言うのです。「お前は義務を果たしていないぞ」

「義務を果たさない者は、社会の無用物だ。お荷物だ。社会

に迷惑をかける犯罪者だ」と。だから、社会から離れていて

も、罪悪感だとか、恨みだとかが心に湧いてくる。自己否定

か社会否定に心を乱される。


 けれど、個人に義務も使命もありません。あるわけがな

い。個人は本来自由です。たとえば、自殺するのも人を殺す

のも自由です。けれど、社会は自由じゃない。人を殺せば当

然断罪される。自殺すればそれなりの評価を下されるけれど

(まぁ、死んでるから気にならないでしょうが・・)、自殺

することができる、人を殺すことができるということは、個

人が自由だからです。何であれ、出来ることは何でもでき

る。自由でしょ? それを社会がどう扱うかはまた別の話で

す。


 私は悪いことをしてもいいとか、自殺してもいいとか言っ

ているのではありません。むしろ、そのようなことをする人

が出てくることは無くなって欲しい。そして、その原因には、

社会が個人に義務感や使命感を刷り込むことで個人の自由が

侵害されることへの反動もあると思うのです。義務感や使命
 
感に圧迫されて苦しいから、自己否定や恨みが生まれてしま

う。


 義務も使命も社会の中にしかない。それを果たせないとい

う「罪」(犯罪って義務の不履行のことです)も社会の中に

しかない。自分の世界で自分がどのようであろうと、自分に

なんの罪もない。もちろん、自分の世界に引きこもり続け

て、社会と断絶し続ければ生存が危うくなるけど、それはし

ようがない。引き受けざるを得ないし社会に文句は言えな

い。社会をないがしろにする人間を社会が面倒をみる義務

無い。けれど、自分を否定する必要は無い。引きこもるなら

悠々と引きこもればいい。そうして自分の自由を味わえば、

社会の義務や使命を、距離を置いて見ることができるはず。

 「生存の為にはしようがないな。社会の義務の為に、自分

の自由を少し使ってやるか・・」なんて発想もできるのでは

ないかと思う。もちろん、「社会の義務を果たす為に自分の

自由を減らすぐらいなら、野垂れ死んでやる」というのもあ

りです。


 そのように個人は自由であるのに、個人に忍び込んだアタ

マがそれを隠す。

 なにも引きこもりの人だけじゃない。普通に社会に出てい

る人も、必要以上の義務感を持ってしまっていることが多

い。だから過労死や過労自殺なんかや、パワハラの泣き寝入

りとかがある。

 自分に義務を課すのは間違いです。社会の為に何かをする

なら、それは自発的に自然に生まれて来る衝動によるもの

あるべきです。「気が付いたらやっていた」。そうあるべ

だ。


 義務や使命は個人を不幸にする。

 義務や使命から離れて自由な人であってこそ、その人が社

会に関われば、却って良いものをもたらし得るでしょう。




2024年1月13日土曜日

「正義」が発生しないように・・・



 この前の『メンタル弱くて何がいけない?』でもそうだけ

ど、私は「弱くていいじゃないか」ということをよく書く。

書くけれども、「弱者が正義」みたいなことを思っているわ

けではない。

 世の中では弱者であることを盾にとって、「守られるべき

存在(弱者)をなぜ守らないのか!」という論調で他人を非

難し、攻撃する人間がよくいる。そういう人間は、自分のし

ていることが分からない。「こっちは弱いんだぞ!!」と怒

っている姿のどこが弱いんだ?そういう姿、やり口は滑稽で

下品だと感じる。


 そりゃぁね、強い立場の人間が弱い立場の人間を食いもの

にするのは許し難い。そういうのは非難されて当然です。け

れども、人間は比較することで世界を認識し、人間の世界は

比較することで動いて行くものですから、どのような場所で

もどのような状況でも「強い者」と「弱い者」が生まれてし

まうことは避けられない。その不可避の事実をわきまえず

に、「弱い者が生まれるのはおかしい」とでも言わんばかり

に平等を求めるのは浅はかです。そういう人間はたいてい平

等の立場になっても満足しない。立場が逆転して、自分たち

が「強い者」の側になってはじめて納得するでしょう(と、

私が思っているだけかもしれませんが)。立場は弱いかもし

れませんが、エゴは強いのですよ。


 本当に「弱い者」は声も上げませんよ。

 世の中に対してなすすべも持ちませんよ。だって、本当に

弱いのだから。


 「正義」というものは世の中に発生するものです。個人の

中に「正義」はありません。「正義」は、人のエゴの力を集

める器です。エゴの力を集めて強くするために「正義」は発

生し、エゴに利用される。けれども、本当に弱い者は「正

義」を利用する気力さえありません。ただただ圧し潰されて

いる・・・。

 しかし、「正義」の発生する余地さえないことは福音です

よ。エゴがその人を支配する力を失いかけているということ

ですよ。「正義の無い弱さ」の底には救いがある。


 〈 どん底まで落ちたら掘ればいい 〉と言った人がいます

が、「弱さ」の底の底を覗いてみればいいんです。そこには

もう「世の中」の姿も「正しさ」の誘惑もありませんよ。そ

こにあるのは「解放」です。

 一方、「(世の中の)強さ」の先の先にあるのは、もう比

較することから逃れようがないという「束縛」ですよ。


 正しいかどうかなんて問題じゃない。

 損か得かなんて意味が無い。

 生きられるかどうかなんて考えてもしようがない。

 弱ければ弱いままでそれでいい。

 自分の「弱さ」を正当化する必要も無い。

 自分を投げ出して「弱さ」の中に沈んでみればいいんで

す。


 そこでこそ、わたしたちの意識は解き放たれます。