「集中力を養う」とか言って、マスコミやネットや書籍な
んかでも、いろいろな方法が紹介されたりしますよね。
ああいうのを見てると、「たぶん無意味だな」と思いま
す。
この間も、「『けん玉』をしてると集中力が付く」なん
て、TVで言ってる人がいましたけど、「けん玉」に集中し
たからって、他の事にも集中できる様になるとは思えないで
すね。虫嫌いの “けん玉チャンピオン” に、ゴキブリの研究
をしろと言っても、集中出来るとは思えません。
人は、自由自在に、集中したい時に、何にでも、集中でき
るわけでは無いでしょう。興味の無い事には集中しません
し、興味のある事には意識せずとも集中してしまうもので
す。
女性はネットやTVにダイエットの話題を見つけると、す
ぐに手を止めて見入ってしまいます。
美人プロゴルファーが、ミニスカートでグリーンの芝目を
読むためにしゃがんだら、ほとんどの男たちは素晴らしい集
中力を発揮します。
ことさら「集中力を高めよう」としなくても、興味があれ
ば自然と集中するものです。
大事な事は、その人が「何に集中するか?」でしょう。
なんであれ、その人の「楽しみ」「喜び」につながる事で
あれば、それでいいんじゃないでしょうか。「どれだけ集中
力を発揮できるか」ということよりも・・。ただし、「後味
が良ければ」ですが・・・。
「集中」というと、このごろ話題になるのが「マインドフ
ルネス」ですね。
「ヨガ」や「座禅」からの流れでしょうが、(「座禅」も
「ヨガ」の一種ですね)普段の仕事や生活の中で「思考」し
すぎて疲れた脳(意識)を、「感覚」に集中させることで休
ませるんでしょうね。
ものを考え過ぎる現代人には、結構な事だと思います。
ただ、世界的な企業に取り入れられたりしているのを見る
と、「仕事のパフォーマンスを上げるためのツール」と見做
されているフシがあるので、その辺は「ちょっと、どうな
の?」と思いますね。
「マインドフルネス」のやり方の代表的なものに、“呼吸
を意識する” というのがあるようです。
「吸って、吐いて・・・」の繰り返しを静かに見守る。身
体が呼吸している動きに集中する・・、というやり方です
ね。「禅」で行われる「数息観(すそくかん)」というもの
と同じだろうと思います。他に “歩きながら、歩いている動
きを意識する” というのもある様で、これも「禅」の「経行
(きんひん)」でしょう。あと、“物を食べることに集中す
る” とかあるようですが、結局は欧米に広まった「禅」が、
日本に逆輸入されて来たんでしょうね。
「元からあるものを、あまり有り難がらない」という、日
本人の国民性は何なんでしょうか? なぜか “外ばっかり向い
ている感” がありますよね。でもまぁ、「マインドフルネ
ス」が広まることは、良いことだと思います。
でもね。「マインドフルネス」って、“「思考」から意識
をそらす” ということが目的で、“「思考」に集中させない
ように、「感覚」に集中させる” という方法のようですが、
“脳の中” から “身体” へ(思考から感覚へ)、〈意識〉を
移してはいるけれど、まだ〈意識〉は「自分」に向いている
んですね。その辺が「仕事のパフォーマンスを上げるための
ツール」、という位置付けで終わってしまいかねない危惧を
抱かせます。もう一歩、先へ進めないか? と。
「集中」するのではなくて、「拡散」(あるいは「拡
張」)させる方が、より “深く” “在る” ことができる様に
思います。
「拡散」とは、どういうことか?
〈意識〉を外へ向けます。
「感覚」のセンサーを外へ向けます。
例えば、耳に入って来る音を、一つ残さず聞こうとしてみ
ます。
雨降りの日に窓を開けて、地面や屋根を叩く無数の雨音を
全部聞き取ろうとする。
公園のベンチに座って、鳥の声や蝉の声や子供のはしゃぐ
声を全部受けとめようとする。
他には、肌に触れる風を全身で感じてみる。
目に入って来る物を、すべて見ようとする。
とか、ありますが、いずれにせよ〈意識〉を外へ向けて開
放するのです。
わたしたちの脳は、一度に一つの事しか意識出来ませんか
ら
ですが
る回路が破綻して、〈意識〉が「拡散」してしまいます。
その結果、当然「思考」は停止しますし、〈意識〉は外に
向かっているので「自分」を忘れます。
外に在る「音」や「風」や「光」や「温度」などが、“思
考という「自分」” が不在になった身体の中に流れ込んでき
ます。
外界のものに身体中が満たされ、世界との一体感というも
のが垣間見えます。
もしかしたら、桃の花を見た 霊雲(りょううん又はれい
うん)や、竹の音を聴いた 香厳(きょうげん)の様に悟り
を開いてしまうかも知れません。
要するに「忘我」ということですね。エゴに席を外しても
らいます。
「自分」の中に集中している限り、ビミョーにエゴが覗い
ています。そこからもう一歩外へ出る為には意識を、「拡
散」させた方が良い。
ですが、自分の身体も「思考」からすれば、“外” ではあ
りますから、「マインドフルネス」をもう一歩進めて、身体
の感覚に集中した〈意識〉を、さらにその奥深くまで集中さ
せるという手もあります。中の中まで、突き抜けちゃうんで
す。
「 “宇宙の果て” を目指すか、“ブラックホール” に入って
行くか」みたいなもんですね。どちらにしても「外に出ちゃ
う」ことですね。
「だけど、なんの為に?」
という疑問も出て来るのでしょうけど、「集中」というこ
とが、どうも過大評価されているのではないか? と感じる
んです。それに「ちょっと冷や水を浴びせられないかな?」
と。
「集中してしまう」というのなら、分かるのです。でも、
「集中する」というのは、“功利的” で “エゴイスティック”
な匂いがします。打算が見え隠れします。
ときどき、YouTubeで植芝盛平や塩田剛三といった、合
気道の達人などの動画を観るんですが、あの方たちの動きを
観ていると、「集中している」のではなくて、「集中しない
様にしている」としか思えません。
いちいち「集中」してたら、相手の瞬間的な動きに対応で
きるはずがありません。
「集中しない」ことで、自在に身体が最適に動くのだろう
と思います。
もちろん、その身体・動き・感覚を身に付ける為には、常
人にはマネできない「集中力」が発揮されたでしょう。しか
し、その「集中力」は、「集中しよう」として発揮されたも
のではなくて、「集中してしまった」から生まれたのでしょ
う。
要するに「憑りつかれてしまった」のです。
他の事なんかに、「集中している」暇なんかなかったはず
です。
「集中力を高めよう」なんて、バカげた話です。
人は皆、自分にとって大切な事には「集中力」を発揮する
ものです。それが社会的に見て「良い」か「悪い」かは、ま
た別の話でしょうし、その「集中」の度合も、その人の在る
べき姿でしょう。
「好きこそものの上手なれ」と、昔から言いますけどね。
「好きなもの」にのめり込んで、社会的な賞賛を浴びる人
もいますし、「好きなもの」にのめり込んで、破滅する人も
います。“破滅” は避けたいところですが、さて、自分の望
むがままに「集中力」を発揮できるでしょうか?
幸か不幸か、人間はそうそう社会優先には出来ていない様
です。
《 人は皆、“自分の星” に満足したり、
呪ったりしながら生きて行く様ですが、
“自分の星” は「笑っちゃう」のがイイようです 》
「集中」しなければ、「呪ったり」「満足したり」出来ま
せんからね。
本来は、けっこう「ぼ~っ」としてていいんだと思います
よ。人間は。“ぼ~っとする権利” なんかを人口の3分の1ぐ
らいが主張し始めたら、世界はずっと住みやすくなるように
思います。もちろん、「ぼ~っ」と主張するんですけど。
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