人は何故疑うか?
言葉を使うからだと思います。
言葉は真実を隠します。
現実を覆って見えなくします。
生(なま)のものを加工して変えてしまいます。
言葉で捉えることによって、物事の一部(時には全部)が
隠されたり、削られたりしてしまいます。そのことを、感受
性の強い者は無意識に感じ取り、「腑に落ちない」「納得で
きない」と疑いを持ったりします。感受性の鈍い者であって
も、ひとつひとつの言葉の不具合が組み合わさると、実際的
な問題が出て来るので、「異常(おか)しいんじゃない
か?」と疑いを持ち始めます。
言葉が “疑い” を生みます。
言葉によって世界は “疑い” に覆われます。
さらに人は、“疑い” を取り除こうとするのに言葉を使う
ので、世界はより一層 “疑い” に満ちて行きます。
言葉によって “疑い” の満ちた世界には、安住の場所が在
るはずもありません、人はそこから逃れようとしますが、そ
の為に、また言葉を使って策を練るので、事態はひたすら悪
くなって行きます。
とはいえ、世の中の多数派は言葉の世界にどっぷりと浸か
っているので、言葉が “疑い” を生んでいるなんて思いもし
ません。「疑わしいのは、人だ」と考えています。人をし
て “疑わしい存在” にさせているのは、言葉を使うからだと
は気付きません。
人は日々幾度となく、何万回となく、言葉の隙間から真実
を見ているのですが、それが真実であることが分からない。
それは逆に無思考の狂気の世界に見える。ほんとは、言葉の
世界の方が狂気の世界なんですが・・・。
人は言葉を離れることによってのみ、真実を捉えることが
できます。
ですが、短い時間ならともかく、四六時中言葉から離れて
いては私たちは生きて行けません。
ですから、やはり言葉を「信じない」という身構えで生き
るしかないのかなと。
「信じない」では、何も立ち行かなくなるでしょうから、
「怪しむ」「そういうことにしておく」と言った方が良いで
しょうか。言葉はすべて方便であって、「間に合わせ」でし
かない。
「結局、疑ってるんじゃないか! “疑い” から自由になっ
ていないじゃないか!」
そうですね。疑ってるようにも見えますね。でも、疑って
いるのではありません。
人間の世界は、「常に不完全だ」と考えているだけです。
「ちょっと気を許すと、すぐにとんでもないバカを始め
る」「少々問題があっても大禍なく過ぎれば上出来だ」ぐら
いに考えています。
言葉は不完全。
人間は出来損ない。
世の中はでっち上げ。
《 完璧なんてあると思うな
もしもあったら、まぐれ当たりだ 》
と言ったところです。
「誰それが『ああ言った、こう言った』」とか。
「俺はこう思う」「あいつの言う事はおかしい」とか。
言葉なんかを真に受けて、人間同士がいがみ合うなんてバ
カらしいし、言葉に乗せられて、しなくてもいい、する必要
も無い事に必死になるなんて後世の恥さらしだと思います。
関西弁で言うと、人間は「要らんこと-しい」(余計なこ
とをする奴)です。
その「要らんこと」を考えさせる元凶が言葉ですから、ほ
んとに言葉には気を付けなければ身を滅ぼします。下手をす
れば、世界を滅ぼします。
(このブログもでっち上げ 💓)
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