毎日、暑くて暑くて、パソコンに向かう気になれずに、し
ばらくブログを書いていませんでした。
パソコンって、熱いでしょ? あまり触る気になりませ
ん。でも、まあそろそろブログを書こうかなと。
この前、「輪廻」の話を書きました。「私には関係ない」
とか「魂が生まれ変わったりしない」とか書いたわけです
が、ああいう事を書くと、科学的でない事は信用しない人間
の様に思われるでしょう。まぁ、そうなんですが、その一方
で、人に話したら「あたまがおかしい」「何を言ってるのか
理解出来ない」と思われそうな事も考えています。で、ずい
ぶんと迷ったんですが、今回は私なりの「輪廻」の話を書い
てみます。
最初に言っておきたいのは、「あなたは私で、私はあなた
だ」ということです。
いきなりヤバイですが、その理由はおいおい明らかになり
ます。
随分と前の話ですが、ある日こんなことを考えていたんで
す。
「もしも、自分ではなく、他の人に生まれていたらどうな
っていたんだろう?」
ありがちな考えですよね。誰でも時々は考える事だと思い
ます。
自分より幸せそうな人と較べて羨ましく思ったり、自分よ
り不幸そうな人と較べて「よかった」と思ったり。私もそん
な風に考える事が多かったんですが、この時はそれまでと違
いました。
「もしも、自分がキムタクに生まれていたら?」(その頃
は、キムタクの絶頂期でした)
「そうしたら、キムタクの身体を持って、キムタクに生ま
れて来るんだから、それは俺じゃなくて、やっぱりキムタク
だな。逆に、キムタクが俺に生まれていたら、それはキムタ
クではなく、俺だな」
「ということは、俺がキムタクに生まれているとしても、
キムタク本人にはそんな事分からないまま、キムタクとして
生きているわけだから、〈 あそこに生きているキムタクは
俺だ 〉ということも “有り” だな」
分かってもらえます? このニュアンス?
やっぱり、分かりません?
なんども、読み返してみて下さい。きっと、分かって来る
と思うんですが。
前に、一緒に働いていた女性に、この話をしました。その
人は双子の妹なので、私はこんな風に説明しました。
「あなたが、お姉さんに生まれて、お姉さんがあなたに生
まれていても、別に不思議じゃないでしょ?」
そう言うと彼女は、「それ、分かる!分かる!」と頷いて
いました。
たまたま、“自分” だから〈自分〉だけど、“あっち” だっ
たら〈あっち〉なんだと。
分かります?
分からないかも知れませんが、先へ進みます。
「あそこに生きているキムタクは俺だ」と思った私は、さ
らにこう考えました。
「だったら、俺がマイケル ジャクソンでもイイわけだ」
「だとしたら、自分が吉永小百合だと言うこともできる」
「もっと言うと、ヒトラーも徳川家康もコロンブスもケネ
ディも歌川広重も、今、アフリカの何処かで飢えて死にかか
ってる赤ん坊も、広島の原爆で殺されてしまった小学生の女
の子も、今朝うちの前を学校へ歩いて行った男の子も、幼な
じみのアイツも、窓の外のスズメもハチも、電信柱も瓦も石
ころも、みんな俺かも知れない。いや、みんな俺なんだ。」
そう思った瞬間。私の中に、宇宙のすべてが “〈宇宙とい
う大きなひとつの魂〉のそれぞれの現れ” であるという、大
きなイメージが生まれました。その、始まりから終わりまで
の宇宙のすべてが・・・、
「ぜ~んぶ、自分だったんだ。 過去から未来まで、全
部!」
この、イメージというかビジョンは、今もって変わってい
ません。それで、何がどうなるわけでもありませんし、それ
ぞれが、それぞれを、それぞれに生きるだけだという事に変
わりはありません。けれど、あれ以来こんな風に思います。
「キムタクは、俺の代わりにキムタクをやっている。ご苦
労さん」
「浅原彰晃は、俺の代わりに浅原彰晃をやっている。大変
だな(俺はやりたくない役回りだという意味です)。ご苦労
さん」
「零戦でアメリカの軍艦に突っ込んで行った若者たちは、
俺の代わりに突っ込んだんだし、あれはあの時の俺だっ
た・・・。広島に原爆を落としたエノラ ゲイの乗り組み員
も、俺だったんだ・・・。」
「今、数千メートルの海の底の暗闇で、小さな有機物のか
けらを食べているエビも、俺なんだな・・・」
そんな風に思うと、すべての人や物に対して、得も言われ
ぬ愛しさや、そうあらなければならない事の悲しさを感じま
す。(でも、すぐにアタマが邪魔しますけどね。私、ただの
人ですから)
ついて来られていますか?
ついて来られなくても、あなたのせいではありません。
今、「あなたは、あなた」ですから、私ではありませんか
ら。こんな話、共感も理解も出来なくても、それはそれで良
いわけです。
今、あなたはあなたを生きている。
今、私は私を生きている。
でも、今、パソコンのキーボードを叩いているこの私は、
“私に生まれた、あなた” かもしれませんよ。
私にとっての「輪廻」とは、「宇宙」という〈ひとつの
魂〉の中を、「自分」という意識が、無限に「自分」を探し
続けている事です。
「“愚か” だから輪廻する」というより、「“輪廻するこ
と” が愚か」なんです。
「『自分』は無いのだ」と「自分」を諦めた時、人は輪廻
から解き放たれて、宇宙という〈自分〉に返るのでしょう。
「あの自分」でも「この自分」でもないのだと。
「自分」の「分」が余計なんだ、分けてはいけないんだと
知ること。
分けられないんだと知ること。
「そんなこと言うけど、『自分』はここに有るじゃない
か」
そう言われるかもしれません。
確かに、形として「自分」はここにいますし、「自分」と
いう意識もありますから、わたしたちは「自分」を生きま
す。ですが、その「自分」の存在意義は分からないでしょ?
だから「自分」であることに不安を憶えてしまう。その不
安を消したいが為に、何か「自分」に価値をもたそうとする
のですが、「自分」に価値を与えたりすることは出来ませ
ん。人の約束事の中に、“絶対的な価値” はありませんから
(しょせん約束事です)。そして「自分」に価値を与えよう
とするほど、“命” に目が向かなくなってしまいます。
仏教の中に、「帰命」という言葉がありますが、「命に帰
る」と書くわけです。
“大きな命” の中にあって、「自分」という妄想に凝り固
まっているその場所から、元の “命” に「帰れ」ということ
で、「帰命」と書くのでしょう。
もともとその中にいるわけですが。
どれほど「自分」を生かそうと力を注いでも、「自分」を
守る為に強くなろうとしても、「自分自身」を認める為に誇
れるモノを手にいれても、一時満足感を得ることが出来るだ
けで、結局は徒労に終わります。「自分」という意識
は約束事に過ぎず、実態は有りませんし、身体もしばらくの
間かたちを保っているだけですから、いずれ「何の為に生き
て来たのだ」という虚無感に襲われることになります。
ですから、生まれてしまった以上仕方がないので「自分」
にお付き合いして、「ただ、自分を生きる」程度にしておく
のが賢明だろうと思うのです。
「自分はおまけ」
「人生はおまけ」
大の大人が「おまけ」に必死になっているのは、みっとも
ない。みっともない以前に、本筋からずれている。
他にしなければならない事があるでしょうと。
こういう「頭がおかしい」と思われかねない事を書いて、
私は何がしたいというのでしょう?
戦争・犯罪・資源の浪費と環境破壊・精神疾患・物理的ま
た化学的な要因による病気・搾取による富の偏在と差別。
こういった事はすべて、人間が「自分」に不安を感じ、
「自分」という幻想を維持しよう・強固にしようとする為に
生まれて来ます。
ですから人間が、《「自分という意識」は “幻想” に過ぎ
ない。「自分の肉体」も “物質循環の一時的な状態” でしか
ない 》と自身を意識すれば、世の中もちょっとぐらいマシ
になるんじゃないかと。まあ、そんな独り言です。
いろいろなメディアでよくあるのが、「成功の条件」やら
「成功の秘訣」やらを、“成功した人に訊く” という企画で
すが、「成功」って何ですか?
100年ぐらい前の日本の片隅で、農家に生まれて農家に育
って、生まれた土地から出ることもなく、百姓をやって50
歳ぐらいで人生を終えた人達なんかが沢山居たはずですが、
それは「成功」ですか?「失敗」ですか? 「成功」も「失
敗」も関係ないでしょ。
仕事で、遊びで、“生きる事の本質” とは関係ない事に血
道を上げて、資源とエネルギーをムダ使いしながら、お互い
に慰め合い、いがみ合う・・・。それが、数千年にわたって
人間がして来た事です。それで、少しばかり優位に立つと、
「成功した」などと言う。子供のする事です。(子供に失礼
かもしれない)
「生まれて来たから、ただ、しばらくの間生きる 」
それだけの事なんだから、それに安住していれば良い。
ちょっとばかりは楽しませてもらいながら。
出来れば「自分」を忘れて、〈命〉に遊びながら、遊ばれ
ながら・・ただ生きる。その方が、ほんとは幸せだろうと。
以上で、今回のお話は終わりです。
「頭がおかしい」でしょうか?
自分では、「おかしくない」と思っています。それどころ
か、この話を「おかしい」と思う方が、「アタマがおかし
い」と思っています。
「アタマ」には気を付けて下さい。
《 「正しい」とは、
「そういうことにしておけば気が済む」
ということである 》
ということです。
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