2017年7月21日金曜日
亡霊のまま、生きて死ぬ
死から生へ、生から死へ。
輪廻を信じる人は、どのくらい居るのでしょうか?
私は、輪廻を信じていませんが、生物学的には、ある個体
が死ぬと、そのからだは分解されて、次の生物の一部になる
わけですから、それを輪廻と呼んでもいいのかなと思いま
す。
しかし、ある個体の魂が、そのまま別の個体の魂になると
いうのは、経験したことも確かめたこともないので、私には
無関係な話です。輪廻というストーリーを自分の人生に取り
込むことで、何かしらの満足を得られる人は、それでいいと
思いますが、私には必要ないというだけです。
ところが、人と話していると、ときどき輪廻の話を持ち出
されることがあります。女性の場合が多いですが、否定する
のも面倒ですし、当人はそれで良しとしているんですから、
わざわざ困らせる義理も無いので、たいていはやり過ごしま
す。ですが、どうしても、言いたいことを言わずにいるとフ
ラストレーションが溜まります。なので、今までに溜まった
フラストレーションを、ここで吐き出しておこうと思いま
す。
輪廻の話をする人の中に、「子供は、自分で親を選んで生
まれて来る」と言う人がいるんですが、このタイプと関わる
のが一番溜まります。
「じゃあ、親の文句を言ったり、自分の人生について愚痴
を言ったり、拗ねたりする奴が、そこら中にいるのはどうい
う事なんだ? “自分で選んで生まれて” おいて、なんで不足
があるんだ?」と、すぐに言いたくなるのを、“グッ” と抑
えなければならないので、すごく溜まります。自分で選んだ
人生なら、「なんで?」なんて言葉が口から出る余地は無
いはずなんですが・・・。
「いえ。選んだ親が良くなかったんです」
という言い逃れも有りそうですが、「自分で選んだんだか
ら、文句を言うなよ」って話です。
わたしたちは、「生まれて来ること」も「生きること」も
「死んで行くこと」も選べません。
「選んで生まれ変わる」というのでは無く、「ただ、生ま
れ変わる」という輪廻を言う人もいます。ですが、前世を憶
えていないのであれば、本当に生まれ変わったのだとして
も、何の意味もありません。前世の人は、“以前どこかで生
きていた別の人” でしかありません。
また、前世の記憶をそのまま持っているのであれば、そん
なの生まれ変わった事になりません。
そんな輪廻を信じて、それが一体何なのか?
それから、これは余語 翠巌(よごす いがん)という曹洞
宗のお坊さんの言われていたことですが、「悪いことをする
と、虫とか牛とか “畜生” に生まれかわる。良いことをすれ
ば、人間に生まれ変わると言うが、牛に生まれた者は何をし
たら良いのだ? 牛にとっての “良いこと” とは一体何だ?」
まったく、ごもっともです。たとえば、蚊に生まれたら人
の血を吸うわけですが、それは良いことでしょうか? 何を
すれば、再び人に生まれ変われるというのでしょう? たぶ
ん、蚊になってしまえば、それっきりになってしまうんじゃ
ないでしょうか。
どこまで本当の話か知りませんが、時々「前世を憶えてい
る」と言う人が居るそうですね。
物心付いたばかりなのに、聞いたこともない外国の言葉を
話す子供とか、遠く離れた面識の無い人の、家族しか知らな
いエピソードを語る子供とか。
ああいうのが本当の話ならば、輪廻の可能性を示唆するの
かも知れませんが、「また人間に生まれ変わったところでそ
れでどうするの?」と思うだけで、今のところ私には無関係
です。
私にとって〈輪廻〉とは、「“自分の「アタマ」が作り出
すストーリー” に惑わされて、世の中をあっちやこっちへと
彷徨い廻ること」です。
仏教の中で語られる “輪廻の物語” は、その文学的なアナ
ロジーであり、時代によっては、道徳的な方便です。
〈悟り〉であったり、〈涅槃〉や〈往生〉と言われる事
は、“自分の「アタマ」が作り出すストーリー” から自由に
なることで、“輪廻の循環(関連)” を断ち切ることです。
「生まれ変わる」とは、自分の “世の中の見方” が、変わ
る事でしかありません。“見方” が変わるだけでは、いつま
でも「(この世界で)六道に輪廻する」だけです。
「極楽浄土」に生まれたければ、「“見方” を越える」、
あるいは「“見方” を手放す」ことが、必要です。
刑務所の中の世界に対して、“世間” のことを “娑婆” と言
います。そのように、わたしたちが生きている “世の
中”が、“娑婆” であり “六道” であり “現世” であり、その
中に “地獄” も有ります。
「死んで生まれ変わる」というのは、「アタマ」が死ぬの
です。身体ではありません。「身体」が死んで、「アタマ」
が残っているなんて、まったく逆さまです。
「身体が死んで、魂が生まれ変わること」は、ありませ
ん。
あったとしても、「それで、どうした?」という程度のこ
とです。
死ななくてはならないのは、“魂” などと呼んで後生大事
にしている「アタマ(エゴ)」であって、その時に初めて、
本当に〈魂〉とでも呼ぶべき、〈本来の自分〉が姿を現しま
す。「アタマ」という “でっち上げの魂” が、〈本来の自
分〉という本当の〈魂〉に生まれ変わります。
ちょっと仏教臭くなり過ぎました。
いつになく、「断定的に言い過ぎたかな」とも思います。
でも、これまでに書いてきた話を読んでもらえれば、理解
はしてもらえるだろうと思います。
「人は、生まれ変わる」なんて考えは “妄想” です、“妄
想” と一緒になっている “魂”は、「妄想する魂(霊)」、
つまり “亡霊”です。 この世の亡霊のままでいるのは、悲し
い事だと思いますが・・・。
(ゲーテの言葉を思い出しました。
「死んで生きよ。この神秘にふれない限り、
いつでも人間は、ただ地上の悲しき客人に過ぎない」
これが、頭の中にあって、
今日の話を書かせたようですね)
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