2017年7月18日火曜日

ナット・キング・コールと「不寛容社会」


 今、ナット・キング・コールを聴きながら、PCに向かっ

ています。

 ナット・キング・コールは、言わずと知れた大スターです

が、若い人は知らないでしょうから、少し説明をしておきま

しょう。

 ナット・キング・コールは、アメリカのジャズシンガー

で、「スターダスト」「モナリザ」「L-O-V-E」などのヒッ

ト曲を持っています。日本のCMなどでも、いまだにその曲

が使われる大歌手で、誰でも一度はその歌声を耳にしたこと

があるでしょう。(これ以上の事は、“ググって” 下さい)

 コールの魅力を一言で言えば、その「包容力のある歌声」

です。「父性」と言ってもいいでしょう。優しく包み込むよ

うな、温かさにあふれた歌声は、多くの人を魅了します。

 私が今さら言うまでもなく、そんなことはある年代以上の

音楽ファンには当たり前の事です。



 昔は(1970年代まででしょうか)アメリカだけでなく、

日本にもヨーロッパにも、「包容力」や「父性」を感じさせ

る歌手がいました。歌手だけではなく、俳優にも政治家にも

実業家(もしかして “死語” でしょうか?)にもいました。

 男性に求めるものの一つとして、「包容力」を挙げる女性

も沢山いましたが、今では「包容力」とか「父性」といった

ものは、世の中全体から絶えて久しい様に思います。



 アメリカで「父性」を感じさせる歌手といえば、サミー・

ディビス・Jrだとか、フランク・シナトラ、パット・ブー

ン、ルイ・アームストロングとかが思い浮かびます。俳優で

は、クラーク・ゲーブル、ジョン・ウェイン、ハンフリー・

ボガードとか。大統領でも、レーガン氏までは「父性」を感

じさせます。

 日本の歌手では、水原 弘、三波 春夫、フランク永井。俳

優なら、笠 智衆、志村 喬、千秋 実、市川 右太衛門、片岡 

千恵蔵とか、いくらでもいます。総理大臣では、中曽根さん

までは皆「父性」だったと思います。他には、松下 幸之

助、本田 宗一郎、黒澤 明、円谷 英二といった名前が浮かび

ます。実際に、周りから「おやじ」と呼ばれていた人もいま

すしね。

 日本の歌手や俳優で、「父性」を感じさせていた最後は、

晩年の坂本 九さんと、渡 哲也さんぐらいでしょう。(渡さ

んは、まだ死んでいませんから、「最後の父性」ということ

になるのでしょう)裕次郎さんや、高倉 建さん、渥美 清さ

んとかは「父性」とは違うんですよね。やっぱり、「おや

じ」ではなく、「兄貴」ですよね。

 「父性」が絶えたということは、要するに「大人の男がい

なくなった」という事です。


 話を、ナット・キング・コールに戻しますが、コールは黒

人ですから、当時、いくら大スターであったとしても、酷い

差別から無縁ではなかったでしょう。沢山の “理不尽” や 

“矛盾” に取り巻かれて生きていたはずです。また、日本で

もアメリカでも、上に挙げた様な人々は、第二次大戦を知っ

ている人達です。差別とは無縁だったとしても、世の中の 

“理不尽” を呑み込まざるを得ない時代を生きた人達です。

 「生きるという事は、綺麗ごとだけでは済まない。けれど

その中で、たとえ自分は泥水を飲んでも、綺麗ごとを捨てな

いんだ。」

 そういう気概が、「父性」とか「包容力」ではないんだろ

うか? 「やせ我慢」と言ってもいいんでしょう。



 「清濁併せ呑む」という度量の深さは、何処かに追いやら

れてしまって、「小さな辻褄合わせ」と、キレイではあるけ

れど「キレイなだけの綺麗ごと」ばかりになった様な気がし

ます。


 「昔は良かった」などと言うつもりはないんです。

 上に挙げたスターや著名人が、みんな素晴しい人だったと

も思っていません。あの時代に有って、今の時代に失われた

ものの一つが、あの人たちの姿に表れていたという事です。

 そして私が気になるのは、なぜ「父性」は消えたのか?と

いう事です。

 少なくとも、日本、アメリカからは消えたと思われます

し、ヨーロッパの主要国も「父性」は消えたか、薄れている

のだろうと思います。他の、イスラム圏、東南アジア、南米

などは、よく分かりません。(そもそも、何かのデータに基

づいて言っているのではありませんよ。私のイメージだけで

す。ご注意下さい)



 で、何故「父性」は消えたか?

 女性の社会進出と関係があるだろうな、と思います。

 「男が社会を動かし、金を稼いで、女は家庭をマネジメン

トする」という形が、女性の社会進出によって壊れた。それ

によって、「父性」の必要性が下がっていったのだろうと。



 「冷蔵庫・洗濯機・炊飯器が、日本から父性を消した」

 というのが、私の結論です。アメリカなら「冷蔵庫・洗濯

機・掃除機」となるのでしょうか?



 「何のことか分からない?」



 これらの家電の登場によって、女性(主に主婦)が劇的に

暇になったのです。

 その結果、何が起きたか?

 暇を持て余した女性たちは、次の事にエネルギーを向け始

めたんです。


 *子供を構う

 *社会活動をする

 *趣味を持つ

 *働いて、金を稼ぐ


 この事を、目ざとい商売人たちが放っておくわけがありま

せん。

 “子供の教育・娯楽”・“様々な趣味”の為のマーケットを作

り、その為の金を稼ぎたい女性を取り込んで、働かせ、さら

なる市場拡大の駒に使う。



 「女性が社会進出した」のではなくて、「女性が社会に誘

い出された」と見る方がよいと、私は思ってるんです。

 『男女雇用機会均等法』なんて、「猫の手を借りるわけに

はいかないので、もっと女が迷い込んで来るような罠を張っ

てくれ」という、経済界からの要請で作られたものだと思っ

ています。『男女使用機会均等法』と名称を変えるべきでし

ょう。

 「(経済的に)豊かな生活」とか、「自己実現」とかいう

言葉が、ほとんどの人にとっては、マインドコントロールの

常套句として作用し、男性だけでは足りず、女性までもが経

済というエンドレスゲームに引っ張り出されてしまったので

す。



 また、暇を持て余した母親が、子供の教育に強い関心を持

つようになり、その結果として、昼間家に居ない父親より

も、母親が子供の教育の主導権を握り、受験戦争が始まった

のに違いない。子供の塾通いの増加と「冷蔵庫・洗濯機・炊

飯器」の普及率と性能アップは、見事な相関関係にあるだろ

うと思います。(自分で調べる気はありません。興味のある

方は、ぜひ確かめて下さい)



 女性が自分で金を稼ぐようになり、子供の教育の主導権を

握り、“父親の絶対性” とでもいうものが、薄らいでしまっ

た。その上、女性に教育された男の子には、“おんな目線” 

の刷り込みがされているので、大人になっても「父性」など

持ちようがありません。

 かくして、「冷蔵庫」と「洗濯機」と「炊飯器」によっ

て、「父性」は滅んだのでした。



 私は何も、「父性の復活」を望んでいるのではありませ

ん。その様に時代が動いたのですから、それでいいのでしょ

う。ただ「本当にそれでいいのかな」と、思うんです。


 「父性」にも、良い面はあったでしょうし、悪い面もあつ

たでしょう。

 “「男尊女卑」の温床 ” といった部分は、否定出来ないで

しょうし、“おとこ目線” だけで世の中の物事を判断して、

それで良しとする傾向が強かったのも、否めないでしょう。

 一方で、清濁併せ呑む、「包容力」という良さがあったと

思います。



 長い長い間、男が社会を作り、動かしてきました。

 その社会の中では、闘争・騙し合い・駆け引きなど、ロク

でもない事がそこら中で行われ、それが良くない事だと分か

っていても、「長い目で見た時には、見過ごした方が良い時

がある」という経験則が、男には受け継がれてきたのでしょ

う。それが、「包容力」となった。



 『包容力のある女性』というフレーズを聞いたことがあり

ますか? まず使わないですよね。

 「包容力」は、男に対する形容詞です。

 「父性」に属するものの中で、「包容力」は残しておいた

方が良かったのではないでしょうか?
 

 女性には失礼ですが、長く社会を運営してきた〈男〉に

は、その経験上、「時を待つ」とか「見逃す」とかいった事

が「後で良い結果を生むことがある」、という知恵があっ

た。ところが女性は、長く、家庭やその周りのコミュニティ

の中で生きて来た為に、社会的な知恵を持ち合わせていなか

った。つまり、社会に慣れていなかった。(バカだと言って

いるのではありませんよ。単なる、経験不足ということで

す)


 ところが、急激に社会との関わりが強くなったために、家

族や小さなコミュニティの論理を、そのまま、社会的判断や

社会人を育てる為の教育に使ってしまったのでしょう。

 昨今言われる、「不寛容社会」というものは、社会から

「父性」が失われた結果かも知れません。



 怖いので、言い訳をしておきますが、「女性は不寛容だ」

と言っているわけではありませんよ。「きちんと、し過ぎ

る」「結果を早く求めすぎる」といった傾向があるというこ

とです。それが、女性が長い間分担してきた役割には、必要

なことだったのでしょう。でも、その性向は、社会にあって

は齟齬を生むものでもあった、ということです。(不寛容の

言い訳に気を取られて、「女性は怖い」と言ってしまっ

たし、言い訳にもなっていない気がする・・・、あぁ、怖

い・・・


 ・・・まだ、怖いので、応援を頼みたいと思います。

 山本夏彦さんは、次のように言っています。


 「婦人のなかの最も若く最も未熟なものを、警察官にする

  とどうなるか。正義の権化になる。権化になって何が悪

  いというだろうが悪いのである。」

               (やぶから棒 新潮文庫)


 《 人間は、それぞれに “いびつ” である

   決まった型に押し込むと死んでしまうことがある 》



 女が社会に進出し、男が「主夫」となって家庭に入るとい

う世の中になって来ました。その変化があまりに早かったの

で、お互いに慣れていなくて、様々な問題を起こしているの

でしょう。少しスピードダウンして、それぞれがその役割を

学び、なじむまで、待つことをした方が良いのではないでし

ょうか? その為に「父性」の中で、それをを代表する「包

容力」が必要だろうと思うのです。「待つこと」「大目に見

ること」といった、“やせ我慢” が。


  ボギー ボギー あんたの時代は良かった

 男のやせ我慢 粋に見えたよ       阿久 悠

        「カサブランカ ダンディ」  沢田 研二

 *ボギー=ハンフリー・ボガード
 


さすが、阿久 悠さんは時代をしっかり見ていたんですね

(この曲は1979年リリースです)。世の中が、“性急” で

“狭量” になって、“遊び” や “おおらかさ” が失われていっ

ているのを、敏感にキャッチしていたのでしょう。

 (「聞き分けの無い女の頬を ひとつ ふたつ張り倒して」

という歌詞ですからね。今、これを書いても、どこのレコー

ド会社も取り上げないでしょう。発表したら、即、炎上でし

ょうからね。ホント、余裕が無い。「阿久 悠さん あんた

の時代は良かった」)


 繰り返しますが、女性をバカにしているのではありませ

ん。

 家庭や小さなコミュニティが分裂して社会に取り込まれ、

まだまだ、その過程は進行中なのでしょう。

 男も女も子供も年寄りも、「功を急ぐ」あまり、事を荒立

ててしまっているように思えます。

 わたしたちには、やはり「父性」も必要だと思います。

 その、良いところを、もう一度振り返ってみる必要が生ま

れているのでは? 男と女が、一緒に社会を動かして行く為

に。


 ボギーのやせ我慢の意味を、その表情から感じ取り、ナッ

ト・キング・コールの歌声から、人間の悲しさと、それ故の

温かさを受け取る。
 
 
 「おとーさん、くさーい!」とか、

 「おとうさんの下着は、別に洗うの!」とか、

 時代にそそのかされて、「父性」を軽く見て馬鹿にし過ぎ

たのは、失敗だったのだと思いますよ。


 ナット・キング・コールの歌声は、本当に温かく、優し

い。

 少し気持ちをゆるめて、コールの歌をみんなが聴けば、

人々の不寛容さも、ちょっとほぐれるのでは?


 Smile though your heart is aching

   Smile even thought it's breaking

   When there are clouds in the sky

   You'll get by

   ・・・・・・・・・・・・・・  「Smile」



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