九州北部で酷い水害が起きました。
あれだけの量の雨では、土地の保水力も河川の排水能力も
遥かに越えてしまっていて、土砂崩れや川の氾濫は必至だろ
う。十数人の犠牲者がでている様だし、多くの家が壊れ、流
され、インフラが被害を受け、住民の方々は先の事が何も考
えられない状態だろうと思う。
気の毒だと心から思うが、目の前の問題を、淡々と一つず
つ片付けて行くしかない。
災害の時は特にそうだけど、生きるという事自体が、そう
いう事だと思う。あせらずに、ひとつひとつの出来事を柔ら
かく受け止めていってもらえたらな、と願います。
今回の様な災害が起こると、すぐ「防災インフラの整備は
出来ていたのか?」というような事を言い出す人がいるもの
ですが、今回の雨量を受けて、無事でいられる所は無いでし
ょう。人為で対抗できるレベルを遥かに超えている。
出来ていたのか?」というような事を言い出す人がいるもの
ですが、今回の雨量を受けて、無事でいられる所は無いでし
ょう。人為で対抗できるレベルを遥かに超えている。
これ程の雨に対抗しようと思えば、「住みたいところに住
むこと」が大きく制限されたり、景観や環境を壊し、普段の
生活に不便が生じる様な防災設備を造るようなことになるで
しょうね。
現代に住むわたしたちは、生活の利便性を高めるために、
様々に手を加えて土地を大きく改変し、大きなインフラのネ
ットワークを作り上げている。もちろん、いろいろな災害に
対する対応策を取っているけれど、ひとたびその想定を越え
てしまうと、融通が利きにくく、完全な復旧にかなりの時間
が掛かってしまう。
今回、大きな被害が出ている日田市には、何度か行った事
がありますが、美しい渓谷の有るところで、車で通り抜けて
行くだけでも、水に恵まれている所だと分かります。それ
は、裏を返せば、水の災害が起り易いという事でもありま
す。
どんなところでも、土地の恵みと危険は表裏一体です。い
いことだけを受け取ることは出来ません。
山というものは、地震に伴う地殻の隆起と、火山活動によ
って造られます。そして、雨と風によって風化し削られてゆ
きます。もしも、雨風による風化が無かったら(山崩れが無
かったら)山は無限に高くなり続けますし、扇状地などの平
坦地が出来ないために、人が住める場所は極端に少なくなり
ます。また、山から流れた土砂や有機物が、海の環境を多様
にして生物を育み、人はその恩恵も受けている。火山噴火、
地震、大雨など、災害がわたしたちを苦しめる一方、住む場
所を生み出し、土地を肥沃にするなど、過去の災害がわたし
たちが暮らす為のベースになっています。
わたしたちは、災害に命を奪われたり、暮らしの基盤を破
壊されたりして苦悩するわけですが、災害がもたらすものに
よって暮らして行けるとも言えます。
災害に遭うことは、大変だし、辛い事です。しかし、日本
に住んでいると、大抵の人が一生の内に一度ぐらいは何らか
の災害に遭う事でしょう。それは、気候風土のもたらす恵み
とバーターです。(運が良ければ、“恵み” だけいただけま
すが)
「災難に逢う時節には、災難に逢うがよろしく候」と、良
寛さんは言いましたが、被災地に行ってこんなことを言えば
殴られるでしょうね。でも、良寛さんの言葉は本当だと思い
ます。阪神淡路大震災の当日、私はこの言葉を思い出して、
気持ちが楽になりましたからね。
“修行” という言葉がありますが、これは特別に何かをす
ることではありません。武道家や職人が技術を高めてゆくと
いった事もありますが、良寛さんのようなお坊さんにおいて
は、「生きて行く中で、日々の出来事を丁寧に受け止めてゆ
く態度を練る」と行った事で、さらに言えば、生きて行く事
そのものです。
“修行” という言葉は “修めて行く” と書きます。
日々起こる出来事を “修めて行く” のです。
平凡な出来事も、大変な出来事も、わたしたちの日々の中
に、ただ起こって来ます。起った事は受け止めるしかありま
せん。起こったのですから。
どんなに受け入れがたい出来事でも、起ってしまった以上
仕方が在りません。時間は戻せません。
ただ、ひたすらに、ひたむきに「自分の中に、修めて行
く」。
「日本人は、災害の時も取り乱したりしない」と、外国の
方が驚きますが、それは神道と仏教が、意識しない程深く日
本人の中に根付いているからでしょうね。(当たり前すぎて
意識もしないから、「自分たちは無宗教」だと思うのでしょ
うが、ほんとはどっぷり、神道・仏教なのでしょう)
災害の展示場のようなこの国に永く暮らしてきたことが、
神道を生み、仏教を深く根付かせた理由なのでしょう。
「仕方がない」という言い方は、“コントロール願望” が
強く、“効率信仰” の現代では否定的に扱われる言葉でしょ
う。でも、「仕方がない」事はいくらでもあるし、「仕方が
ない」という出来事の受け止め方は、人を安らかさに導く力
を持っています。
「仕方がない」という言葉を否定する態度は、前向きだと
も言えますが、それ以上に傲慢で、強欲という毒をもってい
ます。
「仕方がないことは、仕方がない」のです。
起ってしまった事は、起ってしまったのです。その上で、
そこから、また今日が始まります。次の今を生きて、次の今
を修めて行きます(生きます)。
平凡な日であっても、大変な日であっても、人が、今、こ
の時に出来ることは、僅かだし、一度に一つしか出来ないの
は同じです。
ひとつひとつを、あせらず、丁寧に、修めて、歩んで行
く・・・。そこに、落ち着きと安らぎが生まれて来ると思い
ます。
「明日は我が身」というのは、「あれは我が身」というこ
とでもあるでしょう。「他人事では無い」というのは、「自
分の事である」ということでしょう。
「教訓にする」ということにとどまらず、寄り添う気持ち
が持てるのなら、それはお互いにとって幸運な事でしょう。
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