2017年7月11日火曜日
ブラック企業という “砂漠”
今日、近所の公園のケヤキに、キクラゲが生えているのを
見つけた。低い所なら採って帰るところなんだけど、残念な
がら4mぐらいの高さで、木も細くて登れないので諦めたん
ですが、ふと、このキクラゲがこのケヤキに辿り着くまでの
事を想像し、そこから考えが膨らんでいきました。
街中の公園で、キクラゲを見つけることはあまり無いの
で、この近くに元になるキクラゲがあるのでは無さそうで
す。であれば、このキクラゲの胞子は少し離れた所から飛ん
で来て、このケヤキに辿り着いたのでしょう。
このキクラゲに限ったことでは無く、キノコやカビなどの
あらゆる菌類の胞子は、数限りなく空気中を漂っています。
その中で、キクラゲの胞子が、何年か前にこのケヤキに偶
然辿り着いたところ、枯れていて自分の生育条件に合った枝
だったので、成長を続け、りっぱなキノコになったのでしょ
う。つまり、自分に合った職場に巡り合ったのです。
このケヤキの枝には、他にも沢山のキノコの胞子が辿り着
いた事でしょう。その中には、シイタケやシメジやツキヨタ
ケや、ヒラタケやマツタケも有ったかも知れませんが、その
中で最もこのケヤキに適していたのが、キクラゲだった。
どんな生物も植物も、自分に合ったところでなければ、生
き続けられません。最低条件が整っていれば、そこで生き始
めはしますが、成長し続けられる条件が足りなくなれば、結
局死んでしまいます。
枝先に並んでいるキクラゲを見上げて、「人間も一緒だな
ぁ」と思いました。
気が付いたら世の中を漂っていて、辿り着いた所で生き始
めるのだけれど、そこが自分に最適の場所かどうかは分から
ない。最初は良くても、環境が激変してしまえば生きられな
い。
人間は自分の意志で移動することが出来るので、少し状況
が違いますが、やはりそれも表面的なことに過ぎず、本質的
には同じ事でしょう。
状況の変化によって、移動を余儀なくされたりするのを
“運” と言って差し支えないでしょうが、自ら動くのもやは
り “運” です。
今までいた所から「移動しよう」と思うのは、自分の外側
の状況が変化したか、自分の内側の状況が変化したかのどち
らかですが、その状況の変化は自分の意志によるものではあ
りません。「移動しよう」という意識の変化を、“意識” に
よって生み出せるわけがありません。「『移動しよう』とい
う意識の変化を生み出そう」という意識を生み出す “意識”
は、どこから来るのか・・? 無限遡求です。GAME OVER.
人間も、自分の意志で移動するのではありません。わたし
たちも、あのキクラゲと変わりません。この世界を漂い、た
またま辿り着いた所に自分の仕事があれば、とにかくそこで
働き、暮らして行きます。
今、「自分の仕事」と書きましたが、キクラゲがケヤキの
枯れ枝で生きることは、「仕事」です。
彼は、「ケヤキの枯れ枝を分解する」という仕事に巡り合
い、自分の性質にピッタリだったその仕事を、まっとうしよ
うとしているのです。
立派な子実体(キノコ)をいくつも作っているという事
が、この仕事が彼にピッタリだったという証明です。
世界中を無数の胞子や細菌やウイルスが、またタンポポや
柳のように風に乗る植物の種が、さらには昆虫や鳥たちが自
分の仕事に巡り合うまで空を巡っています。もしも、自分の
仕事に巡り合わなければ、それぞれが ”個体の死" を迎えま
す。
「今回は、自分の仕事は無かったな。じゃぁ、さよなら!」
そんな感じでしょう。
彼らの場合、その個体の性質は死ぬまで変わりませんが、
わたしたち人間は寿命が長く、身体だけでなく、頭の中身も
変化するので、その性質が変わります。その為、その性質の
変化に合わせて仕事も変えなければならなくなります。です
から、「今回は、自分の仕事は無かったな」で終らず、次の
場所へと移動しなければなりません。面倒ですね。
キノコたちの場合、その仕事場の自分に適した分だけ働い
たら終りですが、人間は自分に適した分が無くなっても、そ
こに居続けようとすることがよくあります。
仕事が無いという事は、環境が合っていないという事でも
ありますから、そこに居続ければ死んでしまいます。ところ
が、人間は ”学習” という事が出来ますから、環境に合わせ
て自分を変えようとします。それが適応能力の範囲内であれ
ば、万々歳で「成長した!」ということになるわけです。
でもね、その「成長」は結局のところ、元々の自分の性質
の範囲に止まっているのです。自分の能力の範囲内とも言え
ます。「どんな事でも学習すれば出来る」わけではないです
よね。当たり前です。人それぞれ資質と、その発展させられ
る限界は決まっています(その限界がどこかは、誰にも分
かりませんが)。ウサイン・ボルトと同じ訓練をしても、同
じ身体を持っていなければ、あのタイムを出す事は出来な
い。誰にだって理解出来ることです。
ところが、これがもっと一般的なレベルの事になると、
「やれば出来る」と言い出すのです。
「やれば出来るんじゃないかな?」というのが、理性的な
判断だと思うのですが、事が “一般的な” ことなので、自分
からも周りからも、「出来て当たり前」という同調圧力がか
かって来ます。これが鬱陶しいんですよね。諸悪の根源の一
つです。
ブラック企業の経営者の理屈がこれです。
「やれば出来る」
「出来て当たり前」
「出来ない奴は無能」
私に言わせれば、その者の資質に見合った質と量の仕事を
与えて、最大限の結果を得る様にするのが経営者・管理者の
仕事です。
この場合の「結果」とは、「目標の達成と意欲の継続」で
すが、ブラック企業の経営者や無能な管理者は、「目標の達
成」だけを見て、「意欲の継続」を見ません。その結果、意
欲の無い人間は、良い仕事は出来ませんから、その企業のパ
フォーマンスは徐々に落ちて来ざるを得ません。
無能なのは、経営者の方です。
砂漠に苗を植えて、「さっさと、実を付けろ!」と言う様
なもので、バカの極致です。
ところが困ったことに、その “苗” が、その砂漠で実を付
けようとするのです、「自分に能力が無いと、思われたくな
い!」とか思って。どうせ、「枯れたら、次のを植えりゃい
い」としか思われていないのに・・・。
人間は自分で移動できるんですから、「ここは、砂漠だ」
と気付いたら、さっさと他の所へ移ればいいんですが・・。
「他へ行ってもいいんだよ」という追い風が、あまり吹か
ないんですよね、この国では特に。
結果、一つ二つ実を付けたり、時には一つの実も付けない
まま枯れてしまつたり、引き抜かれて捨てられたりしてしま
う。
砂漠からは逃げなきゃダメ!
砂漠には近付いちゃダメ!
ほとんどの人間にとって、そこは生きる場所ではない!
わたしたちは、キノコの胞子やタンポポの種の様に、辿り
着いたところでそのまま消えてしまっても「まぁ、そんなこ
とは普通だ」なんて思えないでしょ?
キノコの胞子には数十億、タンポポの種にも数百の分身が
居るけれど、わたしたちには分身が居ません。
この身一つだから、ほんとに大切にしなければいけませ
ん。(人として)無能で強欲な連中の “自分の中の砂漠の緑
化事業” に付き合って、命を吸い取られる様な事があっては
なりません。喜ぶのはそいつらだけで、“世の中の砂漠の緑
化” にはなりません。わたしたちが、蒼々とした葉を広げる
ことが出来なければ、世の中に ”緑” が拡がることはないの
ですから。
「公園のキクラゲ」から始めた話が、「ブラック企業のバ
カ経営者」の話になるとは思いませんでした。
わたしたちの「アタマ」は悪いのですが、その中にはとて
つもなく「アタマが悪い」奴が、結構います。
ホントーに、気を付けて下さいね。
特に、若い人はね。
(このブログが「砂漠に吹く風」になることを願いつつ)
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