2017年7月5日水曜日

人間関係が壊れる喜びを知ろう!



 人間関係に悩む人は多いですね。


 と言うより、人の悩みはそればっかりなので、「わたした

ちの悩み・苦しみは、ほとんどが人間関係だ」と、以前に書

きました。それ以外は、病気やケガなどによる具体的な身体

の苦痛しかないと。(「自分でしあわせを探さなければなら

ない子供達の為にⅡ」)

 なぜ、そうなのか? ということについて、あらためて書

こうかなと。



 もしも、自分以外の人間がいなかったら、悩みというもの

は生まれるでしょうか?

 あなた一人で生きているとしたら、何か悩みを持つことが

あるでしょうか?

 答えは、「NO」です。

 一人で生きているとしたら、人間関係はありませんから、

当然人間関係の悩みはありません。しかし、人間以外のもの

との関わりは無くなりませんから、そこには様々な問題が起

こって来ます。それらは、衣・食・住に関わる事と、病気・

ケガ・老いに関係することです。


 衣・食・住・病気・ケガ・老い。

 これらのことは、“悩み” となるでしょうか?


 生きて行く為には、衣・食・住 を確保しなければなりま

せんが、自分一人であれば、世界中のどんな物も、誰の所有

でもありません。自分一人が、好きな様に手に取り、使い、

食べることが出来ます。なんの気兼ねも要りません。もちろ

ん、手に入れる為の労力は要りますが、それだけのことで

す。


 “病気・ケガ・老い” は悩みの種でしょうか?

 病気をしても、ケガをしても困るのは確かです。なんとか

しなければなりませんが、意識する事は、「ただ、ケガを治

す。病気を治す」ということだけで、「早く治して、仕事に

行かないと・・・」とか、「いつまでも寝込んでいては、家

族に迷惑をかける・・・」などということは考えません。仕

事も家族も無いのですから、そこにあるのは、“苦痛・不快”

という、身体的な問題だけです。

 さらに、“老い” ですが、自分の身体が老いて来ても、周

りに比較対象が居ません。自分が若かった時と較べることは

出来ますが、自分しか居ない状況で、人は “老い” を悩むで

しょうか? 私は、無いと思います。“老い” というものは、

やはり、周りに居る若い人と較べることで、悩みとなるのだ

と思います。

 歩くのが遅くても、力が弱くなっても、物覚えが悪くなっ

ても、自分一人なら、気兼ねなくマイペースでやれますか

ら。

 シワが増えても、シミが増えても、肉がたるんでも、頭が

ハゲても、誰にも会わなければどうでもいいことです。
 

 ケガも、病気も、老化も、生きて行く上で、様々な対応力

を低下させます。確かにそれは困ることですが、しか

し、“悩み” にはならないと思うんです。それらは、問題で

はありますが、“問題” に止まるだろうと思います。“悩み” 

になることはないでしょう。


 「いや、ケガしたり、病気したり、年老いて身体が上手く

動かなくなったら、悩むだろう」

 そんな気がするでしょうが、それは今、わたしたちが人に

囲まれ、たくさんの人間関係の中にあるから生まれて来る想

いです。自分一人だったら、一切の人間関係が無かったら、

人は「ただ生きるだけ」で、悩みはしないと思うのです。

 もちろん、そんな経験はしたこと有りませんし、経験した

人を見つけるのも難しいでしょうから、「絶対」とは言えま

せんが、自分で心理的なシミュレーションをすると、そうい

う結論になります。生きて行く事に対する “不安” はあって

も、“悩み” は無いだろうと。
 


 22年前の阪神淡路大震災の時。私は、住む所とほとんど

の家財を失いました。

 着の身着のままで、手元に僅かなお金が有るだけでした。

 そのお金も、震災直後ではほとんど役に立ちません。何も

売っていませんし、電車もバスもタクシーも動いていませ

ん。自分の身体ひとつでなんとかするしかない状況・・・。

 最低限の水分と食料、寒さをしのぐ為の物、トイレの問題

を何とかする様に考えて、動き、肉親や友人と連絡を取ろう

とする・・・。

 それらの事だけに集中して、発生からの三日間を過ごしま

した。

 その時、もちろん不安もあったのですが、それ以上に、そ

れまでの人生で持った事が無いような “充実感”を感じたの

です。

 ほとんど全てを失い、家族の安否も分からず、明日どうな

るかも分からないし、これから自分の人生がどうなって行く

のか想像もつかない・・・。

 そんな中にあって、感じた不思議な “充実感”。
 

 三日目の夜。身を案じて探しに来てくれた友人の車で、被

災地を離れました。

 風呂に入らせてもらい、食事を取り、ひとごこち就いて、

地震の現場を動き回っていた三日間の事を考えた時、自分が

充実感を感じていたことに気付きました。「あれは、いった

い何だろう?」。

 すぐに、答えが出ました。

 「ただ、今日を生きる」。その為だけに、頭と身体を使っ

ているという究極にシンプルな状況には、「アタマ」がしゃ

しゃり出る場面は無いのだと。

 「ただ、今日を生きる」という、人間の本質的な欲求だけ

に頭と身体を使っていた事で、「自分が生きている」「命が

生きている」という感覚が、ダイレクトに感じられたのだろ

うと。

 風呂に入り、頭を洗うと、足元を真っ黒な水が流れまし

た。身体を洗い、湯船に浸かると、体中にお湯が滲みまし

た。

 体中に小さなケガをしていて、髪の毛の中も身体中も、土

ぼこりでジャリジャリになっていたのです。しかし、風呂に

入るまで、身体の汚れも、ケガも全く気が付いていませんで

した。そんな事、取るに足らなかったのでしょう。

 非常事態で、アドレナリンや β‐エンドルフィンなんかが

頭の中に沢山出ていたのでしょうが、自分が普段アタマを悩

ませている事が、本質的には「取るに足りないこと」だと実

感した出来事でした。


 震災後、生活が落ち着いて来た頃に、「もう、物はいらな

いな」と思って、「最低限の物だけ持って暮らそう」という

気になったんですが・・・、あれから22年。気付くと、家

の中には “物” が溢れかえっています・・・。


 街の中で、人と関わりながら暮らしていると、ミニマルな

生活はなかなか難しいですね(でもまぁ、車も携帯も持って

いないし、現代の日本人としては、持ち物が少ないのではな

いかと思いますが)。人と関わっていると、どうしても較べ

る気持ちが湧いてきますし、社会的な不安や不満を持たせる

ような情報が、次から次へと入って来るので、“安心・安

全・満足” を求めて、どうしても余分な “物” や “事” に手

が出てしまいます。あれだけ、“物” と “事” の過剰さを思い

知ったのに・・・、社会に対する免疫はとても不安定です。



 〈社会(人間関係)〉が、わたしたちに “悩み” をもたら

す〈ウイルス〉であり、わたしたちの〈アタマ〉がそれを培

養する〈培地〉の役目を果たしています。そして、わたした

ちの〈アタマ〉で増殖した〈ウイルス〉は、再び〈社会〉へ

と吐き出され  しかも、変異して!  別の人間の〈アタ

マ〉へ入って行きます。

 わたしたちの意識が、自分の本質的な部分から離れ、〈ア

タマ〉にシフトしている間、わたしたちのエネルギーは〈ア

タマ〉に注がれ続け、〈ウイルス〉を増殖させて、“悩み” 

という症状を悪化させます。

 もっとも、〈社会(人間関係)〉のすべてが “悩み” を引

き起こす〈ウイルス〉ではありません。

 その中には、わずかばかりですが〈アンチウイルス〉も存

在していて、わたしたちは運が良ければ、それを取り込んで

免疫を強化することが出来ます。釈迦や、老子、荘子、イエ

スやソクラテスやスピノザらの先賢達が残し、その価値を知

った多くの人々が守って来た《言葉》が、それです。


 〈アンチウイルス〉に出会い、取り込めるかは “運” に任

せるしかないのですが、“悩み” から解放されるには、それ

しかないと言っていいでしょう。

 このブログは、その “運” のひとつであると思っているの

ですが・・・、誇大妄想でしょうか・・・。




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