2018年6月28日木曜日

W杯と『しあわせ』の関係


 以前から、いや、おそらく子供の頃から、私には積極的に

「生きよう」という気持ちがない。少なくとも15歳の時に

は、あきらかにそうだった。

 いまだにそうで、最近はより一層その傾向が強くなったよ

うだ。何せ、生きる理由が無い。かと言って死ぬ理由も無

い。

 「生きているから、生きている」

 それだけのことで、「生きて何かをしよう」などとは思わ

ない。

 
 美味しいものを食べれば「美味しい」ので、美味しいもの

を食べたいと思うし、上手い漫才や落語は面白いから楽しみ

たい。面白い映画やドラマなら観たい。

 でも、それらは日常的な楽しみであって、特に目的意識が

あるわけじゃない。何かをして生きてることの価値を確かめ

ようとか、生きてることに意味を持たそうとかいう事がな

い。



 何をしても、「ただそれだけのことだし・・・」

と思ってしまってるので、強い目的意識が持てないのです。


 「なぜそうなのか?」という理由が、自分の生い立ちにあ

るのは明白で、子供の頃から「望む」ということをあきらめ

るのが当然だった為に、大きな目的  自分の望み  を持

たないことが習い性となった。そして、そういう立ち位置か

ら世の中を見ているうちに、他の人たちの「望み」「目的」

というものが、“本質的な意味を持たない事” だということ

に確信をもつようになった。だって、そういうものを持たな

い自分が、それなりに喜びを持ちながら生きているのだも

の。それなら、「あれはムダだ」と私が結論をだしてもムリ

は無い。


 普通にひとが「望み」「夢」「目標」などと言うものは、

“ひまつぶし”  “自己満足”  “強迫観念” だと思うようになっ

た。憎まれるのを恐れずに言えば、それらは “人間の病気” 

〈アタマ〉が悪さをしてるのだ。


 そのようなものを持つのは、人であればしかたがないこと

だというのは理解できる。けれど、それはやっぱり “病気” 

なのだということを、誰もが心に留めておいた方が良いと思

う。自分と周りのしあわせのために・・・。


 今の日本が典型的に  「高度に」と言う方が良いか? 

 そうだけれど、日常を微に入り細に入り管理して “非人間

的(非生物的)“ にした分、ドーパミン型の喜び(刺激によ

る快楽)を求めることで、 “非人間的な日常” とのバランス

を取る事に必死になっている。そしてそれを「しあわせ」と

呼ぶ・・・。


 いいえ。それは「しあわせ」ではないだろう。

 「しあわせ」とは、 “快感” ではなく、“安らぎ” ではない

ろうか? 
 

 古い話で恐縮だが、水泳の岩崎恭子が中学生にしてオリン

ピックで金メダルを獲り、「今まで生きて来た中で、一番

『しあわせ』」と言った時、彼女の頭の中では大量のドーパ

ミンやアドレナリンなどが放出されていたことだろう。それ

を彼女は『しあわせ』と表現したのだ。(北島康介は「ちょ

~気持ちイイ」と言った・・・。あまりにも “モロ” なので

私はゲロが出そうだったが・・・。だって、公の場で “ラリ

ッてる” わけなんだから・・・)


 中学生の女の子ならそれでもいい。けれど、それなりの年

齢になれば、人はその次元  ジャンルかな  の『しあわ

せ』からは卒業すべきだろう。

 社会の中でそれなりの能力を発揮できる立場になっても、

“快感” を『しあわせ』だと考えて活動されては、無用のエ

ネルギーを社会で浪費して問題を作り出すだけだ。 しか

も、当人は「しあわせの追究」だと思っているから問題意識

が無い。そのような人間のことを私は、「子供っぽい」と言

うのですが・・・(当時、岩崎恭子は子供でしたよね)。 


 岩崎恭子に恨みは無い。嫌いでもない。だってあの時、彼

女は子供だった。そして現在は素敵な女性である。

 問題は  別に問題にして面倒なことを立ち上げなくても

いいんだが  彼女の発したような言葉を受けて、「夢を叶

える」とか「目標を持ち、達成する」ことが『しあわせ』だ

というストーリーを強固にする “世の中” だ。
 

 いま行われているサッカーの “W杯” でも、さまざまなシ

ーンを取り上げて、“世の中” は「“夢の実現” の尊さ」を持

ち上げることだろう。

 そういう「快感」なら薬物で得られるけどね・・・。(殺

されるかな・・・)


 本質的には同じものなのに、お手軽に得られる「快感」は

卑しかったり、犯罪だったりするけど、苦労して得た「快

感」は立派で賞賛される・・。

 そこには、エゴによって偽装された “ウラ” があると、私

は思っているのだけれど・・・(殺される・・。ああ、怖

い・・)。


 でもね。ホント、しみじみと考えてみるべきですよ。

 「それは、ほんとに『しあわせ』なのか?」をね。

 自分の “頭” でね。




 

2018年6月24日日曜日

人はなぜ旅行する?



 わたしたちは自分自身のエゴによって、さまざまな問題を

作り出す。だからエゴを無くすことが出来れば、問題も無く

なる。けれど、人は一生かかってもエゴを無くすことは出来

ない。

   それは動き続け、休むことを知らない。そもそも、エゴを

無くそうと思う人は少ない。それこそが自分だと誰もが思っ

ているのですからね。


 「エゴ」=「自我」だから、それが自分である事に間違い

は無い。それを無くそうなんて思う方がどうかしているのか

もしれない。けれど、誰もが大事にしているそのエゴが、一

体自分自身に何をしてくれたか? また、他人に対して何を

するか? しみじみと振りかえって確かめてみれば、エゴは

大事に守るべきものでもないと思うんです。


 エゴを無くすという事は、自分を失くすという事。

 自分を失くすなんて恐ろしい。

 でも、エゴは「社会に対しての自分」であり、「社会との

折り合いを付ける為の自分」です。本来の自分ではないの

で、決して人をしあわせに導かない。


 旅行に出かけて存分に楽しんで、本当に楽しかった! で

も、家に帰り着くと「ほっ」とする。それは誰しも経験す

る。

 エゴに従って生き続けるというのは、「他人に誘われた旅

行に出かけっぱなし」というようなもの。刺激的かもしれな

い。楽しいかもしれない。けれど、「ほっ」とする間はない

でしょう。


 そもそも人にとって旅行とは何か?

 人に旅行は必要か?


 最近、海外からの旅行者が日本にいっぱい来ますね。 

 たいていの人は旅行をする。私も時々旅行する。でもそれ

は何故なのでしょう?


 まず考えられるのは「退屈しのぎ」。

 二つめは「ストレス解消」。

 三つめは「何かを発見(体験)する為」。

 一つめと二つめは、日常の抑圧から自分を解放してやるこ

とで、目的は同じでしょう。三つめにもその意味合いはある

でしょうが、そこに「自分を変えたい」という欲求が入って

来ます。今までの自分が物足りないんですね。

 「自分は、もう少し違う在り方が出来るんじゃないか?」

 現状に満足出来ない自分がそう感じて、自分を変えてくれ

るものを求めて旅に出る・・・。


 いずれの理由にしても、今までの日常に不具合を感じて、

“何処か” へ出かけようとする・・・。


 「いやいや、別に不具合が無くったって旅行へいくでしょ

う」


 そんな反論も有りそうですが、人間って満足してしまうと

動かないものだと思うんですよね。

 からだが痒くて掻いたり、寝返りを打ったりという事で

も、不具合が生じるから無意識にでもそうする。何の不具合

もなければ、人はおとなしく寝てますよ。

 日常に不具合を感じなければ、何か特別な事をしたくなっ

たりはしません。

 その「したくなる事」「してしまう事」が特別であればあ

るほど、日常に感じている不具合の度合いが大きいというこ

とだと思いますね。


 日々の暮らしの中に満足している人は、その中から出る必

要を感じないはずです。(日々、覚せい剤を使用している人

とかは、また別ですが・・)


 日常に退屈しない。(それがありふれたものでも)

 ストレスは溜まらない。(特別、ラッキーじゃなくても)

 今の自分に満足している。(特別、恵まれてなくても)


 そんな人が居れば、その人は旅行なんてしないだろうし、

個人的なイベントも必要としないでしょう。ただ、淡々と

坦々と日々を過ごして行く・・・。

 その人は、それで十分に満足で、楽しくて、しあわせなの

で、“今ここ” から “いつか何処か” へ行く必要を感じない。


 自分の話を引き合いに出すのは恐縮ですが、前に書いた

『ホットサンドの空前絶後』の中でも触れたように  我な

がら良く出来た回だと思います  わたしたちの日常は、

轍もない無限の可能性の中に生まれた “一瞬” の連続です。

その事を意識するなら、退屈のしようが無いし、「ラッキ

ー・アンラッキー」なんて考える事が無意味に感じてストレ

スも溜まらないだろうし、充分に自分に満足出来るはずだろ

うと思うのです。


 「何処かへ行こう!」

 「何かをしよう!」


 そんなことを毎日考えているような人は、日々を楽しんで

いる様に見えて、実はすごく日々に疲れてたり、満足してい

なかったりするのですね。


 「もっと!もっと!」を続けて行くほどに、何処かへ辿り

着いたり、何かを手に入れたりするのでしょうが、それは元

いた場所から遠く離れ、得た物の分だけ重荷を背負うことで

す。いくら本人がマゾヒスティックな喜びを持っていたとし

ても、単に “それしか知らない” ので喜んでいるだけでしょ

う。(結果的に「“知るべき事” を知る」こともあります

が)


 旅行から家へ帰って「ほっ」とするあの感覚を、わたした

ちはもっと良く吟味した方が良いでしょう。

 自分の居るべき場所。

 在るべき自分。

 それを知る手掛かりが、あの「ほっ」の中にある。
 

 何でもない、ただの自分に戻るだけで、わたしたちは「ほ

っ」とするのです。

 わたしたちは外ばっかり見過ぎなんですね。


 旅行も上手にすれば楽しいものですが、自分に居ることは

もっと楽しい。だって、そこに居られるのは〈自分〉だけな

んですから。




2018年6月18日月曜日

地震・・・。


 今日は大阪で震度6弱の地震。神戸のJR・阪急・阪神電

車も止まり、仕事には行けず、家に戻りテレビで地震の報道

を見ていた。


 通学中の九歳の女の子が死んでしまった。

 「行って来ます」と家を出てから、五分かそこらの出来事

だったんだろうなと思う。「可哀相だな」「気の毒だな」と

思う。誰もそんな運命望まないものね。親御さんの気持ちは

いかほどか・・・。でも、それは起こるべくして起こった事

なんだ・・・。そこには理由は無い。意味も無い。ただ無限

の過去からの因縁による・・・。それでもやるせない。人間

だから・・・。


 起ってしまった事は受け止めざるを得ない。それを逃れる

術は無い。どんなに受け入れがたい事であっても、たとえそ

れを拒絶したとしても、「拒絶する」ということも、ひとつ

の「受け入れ方」だし  ずい受け入れ方だけれど。


 幼い我が子が死ぬ。

 それはとてもじゃないけど受け入れがたい。その心情は、

想像するに余りある。「拒絶する」という受け入れ方しか出

来なくても仕方がない・・・。今は・・、しばらくは・・、

いつまでか・・。でも、そのことはどんな形であれ、やがて

心の中に定着して行く・・・。


 人は、出来事を受けとめるしかない。

 出来事が起こった時、それはその人にとっての重要度に応

じて、その人の中を占有して行く・・。さまざまな反応を引

き起こしながら(時に絶望的な・・・)、時と共に様相を変

えて定着し、あるいは消え去るけれど、どちらにせよその人

を変えて行く。


 その出来事が、その人をどう変えるか? 変わってみなけ

れば分からないが、そうやって人が変わって行くことを〈人

生〉と呼ぶ。出来事は、記憶以上に、その人を「変える」と

いう形で定着して行く。そのことから人は逃れられない。時

に、酷く無慈悲なようでも・・・。だって、それは起こった

のだから。


 《人生はグリコのオマケのようなもの・・・》

 「オマケ? これが? ふざけるんじゃないよ!」
 

 でもね、人生はオマケですよ。

 けどね、出来事はオマケじゃない。

 出来事が人生を形にし、その人を作る。

 無慈悲な出来事が、人を慈悲深いものにすることだってあ

るし、僥倖が人を餓鬼道へ導くことだってある・・。


 出来事をどう受け取るか?

 それが、その人を、その人生を決める。いや、「人生を決

める」というより、その受け取り方をする事も含めてが、そ

の人の人生。そして、それはその人にとどまらず、その人の

りまで変えて行く。


 安らぎか?

 悲嘆か?

 恨みか?

 後悔か?

 苦しみか?

 ・・・・?


 泣くときには、泣くしかない。ただ、泣くしかない・・。


 でもいつか、でもどうか、その出来事が慈悲を形作ること

を・・・・。


 残念ながら、世界は “知らん顔” で進んで行くから・・。


 怖ろしく冷酷にみえる言葉だけど、心からの思いやりを込

めて  本気で込めて  ここに書きます。


 「人は死ぬんですよ」


 どんなに受け止めがたくてもね・・・。



2018年6月17日日曜日

「美しさ」とは


 前回、「美しさ」について書こうとしかけて、話が違う方

へ行ってしまった。「美しさ」とは何か?



 試しに広辞苑を引いてみると「快く、好ましい。綺麗であ

る」といった語釈なんですね。

 辞書というものは、こういった思考の根本となるような言

葉については、はなはだ役に立たない。それを定義するだけ

で哲学になってしまうという問題があるし、作る側としては

思い切った語釈を採用したくても、辞書を使う側は「一般的

な意味を求めている」ということに配慮しなければならない

だろうから、作り手は敢えて「美しい=綺麗である」といっ

た立場に留まっているのだろう。・・・気の毒ではあるね。



 で、私にはそんな配慮をする必要がないので、好きな事が

書ける。「美しさ」とは?



 《〈美しさ〉とは、自我の排除を伴う、

            外界への非言語的肯定である 》



 面倒ですか? 面倒ですよね。ちょっと面白がってみただ

けです😊



 「外界からの、言葉にならない感覚的な体験が、自分の自

我(エゴ)を押しのけるほどの強烈さで、肯定的な感覚をも

たらす時、人はそれを〈美しい〉と感じる」

 と、まぁそんなことではないかと・・。



 言葉にしてしまったら、その感覚は違う次元の「肯定感」

にすり替わってしまうし、言葉に出来るようなものなら、そ

の感覚は真に〈美しい〉のではない。むしろ〈美しさ〉を避

ける為に、既成の “美しさの代用品” に感覚をずらしている

のです。〈美しさ〉は “危険” だから・・・。



 〈美しさ〉は “危険” です。

 「自我を排除する(我を忘れてしまう)」のですから  

私の説によればですが・・  エゴ(自我)にとっては脅威

です。そのため、〈美しさ〉を感じそうな時は、あらかじめ

エゴが統御できる意識レベルに自動的にシフトさせるプログ

ラムを、〈アタマ〉の中に備えています。

 「美しい」「キレイ」「凄い」といった言葉は、エゴにと

って危険な感覚を、扁桃体の様な “非言語的領域” に侵入さ

せない為のファイヤーウォールとして働きます。感覚を言葉

からめ捕って、〈アタマ〉をスルーさせないようにするの

す。(誰もが、やたらに写真を撮るのも、〈美しさ〉を感

じてしまうのを逃れる為でもあるかも知れませんね)



 しかし、「肯定的な感覚」であるものを、何故怖れている

のでしょう? 

 それはその感覚を「肯定」するのが、エゴ以前の〈本質的

な自分〉だからですね。そんなものを肯定されてしまうと、

エゴが主導権を失いかねない。

 「受験生が恋などしててはいけない」わけです。感覚が先

走る様な体験は、エゴの計画をぶち壊しにしてしまう・・。

 だから〈美しい〉ものには、「美しい」という言葉を載っ

て、安全なレベルで失速させようとする。言葉も出ないほ

見とれてしまうような異性は危険でしょ?

 仕事が手につかなくなったり、勉強なんかする気にならな

い。時間も金も注ぎ込んでしまったり、それが不倫なら家庭

を崩壊させたりする・・・。なんと、危険でしょう!



 べつに異性に限らず、〈美しい〉  と、その人が感じた

ものの虜になって、社会的な安定を放り出してしまう事はよ

くありますよね。危険なんですよ、〈美しい〉ものは。



 そういうことは、美しさに限らず、感動全般に言えること

だけれど、では美しさと他の感動と何が違うか?

 他の感動はストーリーなのです。


 「他人の為に尽くす」とか、「障害をのりこえて成功を勝

ち取る」とかといったストーリーが、人々の社会的価値感に

訴えるんですね。けれど、〈美しさ〉は違う。そこにストー

リーは無い。ただただ、感覚的な感動です。それは、理屈で

成立していたいエゴにとっては、脅威でしかありません。だ

から、〈美しさ〉など感じたくないのです。なので、「美し

い」という言葉は、安全なシチュエーションで使われ、本当

に〈美しい〉事は無視したり、場合によっては怖れを抱いた

りする  ある意味、正直ですね。


 居るでしょ? 「満開の桜は何だか怖い」って言う人が。

怖がってるのはその人そのものではなくて、その人のエゴな

んですけどね。表に出て来ない様に抑えている自分の本質的

な部分に、〈美しさ〉は火を点けてしまうから。
 

 エゴにとっての「美しさ」は、社会の文脈の中に収まって

いなければいけないものです。社会の外から入り込んで来る

ような感動は、ウイルスの侵入か、小惑星の衝突のようなも

ので、世界を(自分の中身を)変えてしまう・・・。


 人々は、社会的に容認された、 “こじんまりとした「美し

さ」” を採用することでエゴを存続させるのですが、その行

為は、当然ながら “こじんまりとした喜び” しかもたらしま

せん。

 「喜びよりも安全を」といったところでしょうか。


 かといって、命がけの冒険をする人が、本当の〈美しさ〉

を求めているのかといえば、そうでもありません。先に言っ

たように、それらは社会の評価するストーリーだったりしま

すから・・・。 
 

 〈美しさ〉は、人間に本来的な喜びを感じさせるものであ

るか、本質的な喜びに伴うものであるかのどちらか。いや、

どちらでもあるかも知れません。


 「〈美しさ〉を感じる勇気」といったものが、人間には必

須なのかも知れませんね。生きる(活きる)にはね。



 (〈美しさ〉の兄弟分に、〈楽しさ〉といものもありま
  
  すね。やっぱりみんな、社会の枠の中で“こじんまり”  
    
      とした、“用意された「楽しさ」” を楽しんでいます。

  それが「絶対ワルイ」なんて言いませんけどね。人間

  だもの・・・。でも、死ぬまでそれでお茶を濁してい

  られるものでしょうか? ・・・嫌な事言ってるよね)












2018年6月10日日曜日

街角に浮世絵を見た・・・。


 何日か前、夕暮れの空がうすいうすい青と橙になり、人影

や街並みがシルエットとなる中、街灯が灯り始めた。

 それは見慣れた光景なのに「まるで浮世絵だなぁ」と思っ

たのです。考えてみれば江戸時代と道具立てが違うだけで、

広重や北斎が描いた風景と本質的な違いは無い。相も変わら

ず “浮世” は “浮世” のまま。人々は同じ様に暮らしに追わ

れたり、笑ったり怒ったりケンカしたり、泣いたり恨んだ

り・・・。

 人間も、着ている物が違うだけで中身は同じ。知識は豊富

かも知れないけれど、アタマが悪さをすることに変わりは無

い。今も昔も、浮世の中で地に足が着いていなくて、右往左

往しているのだ。



 江戸時代の夕空と、現代の夕空となんの違いも無い。広重

や北斎が見た美しい空を、私たちも見ることができる。

 でも、実際の空を見て「綺麗だ」と思う人より、浮世絵に

描かれた空を見て「綺麗だ」と思う人の方が多いんじゃない

かとも思う。調べたわけじゃないけれど、以前書いた虹の話

のことを思えば、きっとそうだろう(『最高の虹の下に

て』)。

 もしかすると江戸の人たちも、夕空を見て「綺麗だ」と思

うような人は少なかったのかも知れない。そのあたりのこと

は分からないけれど、人が見せてくれる物に感動したり、

意された物を楽しんだりすることの方が普通だったのかも

ね。今と変わらず。



 江戸時代だろうが現代だろうがもっと昔だろうが、自分の

感性に素直に従ったり、自分の直感を信じたりすることに不

安を覚える人間の方が多い様な気がする(あくまで、「気が

する」)。

 「感動」というものを自分の中で位置付けることが出来な

くて、世の中の基準に “お伺い” を立ててからでなければ、

無暗に感動したりしてはいけないと、心のどこかで感じてい

て・・・  まぁ、「どこか」って、アタマなんです

が・・  、人は見えているものを見ないようにしている

か、見えていない(認識していない)ことが、普通だと思

う。

 「綺麗だ」などと感動することは、文字通り感覚的なこと

だけれど、その感覚を意識として立ち上げるのには知性が必

要だ。知性が無ければ、やみくもな「情動」に過ぎず、とも

すれば人を不安にさせる。

 「なぜ自分はこんなにドキドキしているんだろう?」とい

うように・・・。


 そうして、自分の「情動」に意味付けする為に、他人の意

味付けの仕方を頼りにしているうちに、自分自身で意味付け

することが出来なくなってしまう。要するに、「凡庸」にな

り、「俗っぽく」なる。


 「自分」というものには二通りあるようで、“社会のパー

ツとしての自分” と “社会の枠に優先する自分” に分けられ

るでしょう。

 “社会のパーツとしての自分” は、100%〈エゴ〉で出来

ていて、“社会に優先する自分” は、おおむね自然で出来て

いる〈本来の自分〉です。

 自分の中に生まれる「情動」を 、“社会のパーツとしての

自分” の中でだけ処理していると、人はどんどん息苦しくな

って、不幸になってゆくのだろう。


 「知性」というものは、その字面と相反して、半分は野性

的な感覚によって担保されているのだと思う。

 「野生の感覚」を、理性によって自分の意識の中に位置付

ける能力を「知性」と言うのだろう。決して、“理知的な情

報処理能力” の事ではない。

 であれば、コンピューターが「知性」を持つ事は、永久に

出来ないことになる。コンピューターは、「野生」にはなれ

ないからね。(でも、もしかすると、千年ぐらい経つとネバ

ダの砂漠あたりに「野良ロボット」がウロウロしてたりし

て、それはもしかすると「野生」なのかも・・・)


 始めは「美しさ」について書こうとしたのだけれど、いつ

のまにか「知性」の話になってしまった。

 長くなるし、酒(ビールとワイン)も入っているので、今

日はもう終わりにしよう。


 「美しさ」も、人の〈アタマの悪さ〉も変わっていないと

いう話だったようです・・・。

 少し、酔っています・・・。確かに私の〈アタマ〉も悪

い・・・。



   
 
 


2018年6月6日水曜日

みんなが何を言っているのかといえば・・。


 毎日々々、テレビでもネット上でも、自分の身の周りで

も、人と人とが自分の言い分を通そうと懸命だ。

 誰にでもそれぞれにそれぞれの都合があって、言い分があ

る。中には人生の一大事だったり、命が掛かっているような

こともあるのだろうが、まぁ99.9%はその時の気分でそう

主張したいだけの、取るに足りないことだろう。

 あなたのこれまでを振り返って、自分が必死になって通そ

うとした言い分で、 「まっとうなものだった」と胸を張っ

て言えるものがどれだけ有りますか?


 私の場合は、どれもこれも、今にして思えば情けなくなる

様なつまらない都合で、自分の正当性を言い張っていたこと

ばかりですね。

 それらは、“ある条件” の中では確かに「まっとう」では

あるけれど、ちょっと立ち位置を変えれば「独りよがり」だ

ったり、「取るに足りない」ことだったりすることばかり。

 何をそんなに必死になる必要があったのか? 「アタマが

悪いんだなぁ」。そう思うばかりですね。


 そもそも「自分の正当性を主張する」ということ、「自分

の都合を通そうとする」ということ自体が、“つまんない” 

“取るに足りない” ことだから、主張の内容なんか関係ない

んですね。どんなに高尚なことであろうが、それが「自分の

  」というものである限り、“つまんない” ことです。


 「自分は正しい」

 「あいつはおかしい」


 みんな、四六時中そう言ってます。言わなくても、四六時

中そんな事を考えています。人の話すことを聞いていれば、

話の中身なんてほとんどそれです。自分が考えている事を意

識してみれば、ほとんどそれです。

 そんなに自分が「正しく」て、それでどうなるというので

しょう? せいぜい、一時気分が良いだけのことです。


 今まで何度も書きましたが、大事な言葉なので、また書き

ます。


 《「正しい」とは、

  そういうことにしておけば気が済むということである》


 これは、私にとって大変重要な言葉です。

 いえ、人類にとって重要な言葉だと思っています。


 誰も彼もが、自分の都合の「正しさ」を通そうとして、他

者と衝突するからです。


 《「正しさ」なんて「自分の都合」に過ぎない》

 そう誰もが認識していれば、世の中のゴタゴタのほとんど

は消えてしまうでしょう。

 「わたしは!わたしは!」とムキになっていると、「あい

つ、自分の都合を通そうと必死だな」と笑われてしまうこと

になるからです。

 主張して通そうとしなければならないような事は、そもそ

も大した事ではないのです。

 人として幸福に生きて行く為に大事なことは、特に主張し

なくても通って行くものです。そんな大袈裟なことではない

ですからね。


 生まれて、育って来る中で、どうでもいいことを大事だと

思わされて来た為に  「プライド」とか「自分の値打ち」

とかね(どっちも一緒か)  、幸福に生きることを大袈裟

に考え過ぎてるんですね。どうでもいい事を、必死に守ろう

とする・・・。

 《幸福は、自分の都合以前に存在している》

 という事を知らないから。


 ホント、気が付くとウンザリするほど、毎日々々、私も

「自分は正しい」「あいつはおかしい」と頭の中でつぶやい

ている・・。アタマが悪いなぁ・・。


 (話は変わりますが、「プライド」というのは〈自尊心・

自負心〉とかじゃなくて、〈責任〉とか訳して欲しいです

ね。〈矜持〉というのは良いけど。〈自尊心〉なんて、バカ

ですよ)


 そういうことで、あらためてテレビやネットを観てみる

と・・・。

 人間って、幼稚だなぁ。アタマが悪いなぁ。

 せめて、〈アタマが悪い〉ということは、意識して生きて

欲しいなぁ。



 ・・・という「私の主張」ではなくて、「独り言」でし

た。

 だって、永久に誰の目にも触れないかも知れないんだも

の。(でも、あなたは読んだ! 幸運でしょうか? 不運でし

ょうか?)



2018年6月2日土曜日

機嫌の悪い奴はバカである Ⅱ


 《機嫌の悪い奴はバカである》


 「日大アメフト部の件については、もう触れない」と、前

回書いたのだけれど、部員達の声明が出て、パワハラの実態

が明らかにされてきたので、もう少し書きたくなった。



 監督やコーチからの、言葉と暴力による支配が有ったの

は、どうやら確かなようだけれど、そういった事が行われる

時は、当然ながら、支配しようとする当事者たちは機嫌が悪

い。

 「怒鳴る」、「嫌味を言う」といった、不機嫌を表明する

形で、選手たちに圧力を掛けて行っただろう。そして、選手

たちは監督・コーチの “不機嫌” を収めなくてはならないと

いう想いに追い込まれ、言いなりになっていったのだと思

う。



 彼らは若い。若さのせいもあって、「自分達の上の立場の

オッサンたちの “不機嫌” は、自分の “至らなさ” のせいな

のだ」と思い込んでしまう。なぜなら、彼らの周りで今まで

自分を教育してきた、親・教師・部活やクラブの顧問など

は、「大事な事」を言う時には  本当は「大事そうな事」

ですけど  、大抵 “不機嫌” だったからだ。

 誰もが、世の中や人というものについて何もわからないま

まに教育される中にあって、「あなたの為だ!」という文脈

の中で何度も何度も怒られ、「自分が至らないのだ」と思わ

され、「目上の人が怒るのは、自分が至らないせい」という

認識パターンを深く植え付けられて来てしまうのだけれ

ど・・。

 いやいや、“目上の人” が怒るのは、単純に「自分の気に

入らない」という理由によるものだ。



 自分がコントロールできる許容範囲を超えると、どうして

いいのか分からなくなるので機嫌が悪くなるだけのことで

す。

 カウボーイが、群れから離れる牛の尻を叩いて戻そうとす

るのと同じ様に、自分のコントロール下に戻そうとして、怒

鳴ったり殴ったりするのであって、それ以外の方法を見い出

す知性を持ち合わせていないということ・・、つまり “バ

カ” なんです。



 日大アメフト部の選手たちに限ったことではないけれど、

怒鳴ったり、手を出したりされた時に、それで自分に肯定的

な変化が感じられたり、気分がスッキリしたりしないのな

ら、それはただ単なる相手側の “不機嫌” に過ぎない。



 本当に「相手に良かれ」という想いがあって、怒鳴ったり

手を出したりする場合、その人が意識的か無意識かはともか

く、“怒鳴ったり手を出したり” という行為を、言葉で伝え

られない事を伝える為の手法として使う。そして、その「想

い」「手法」が適切であれば、それは伝わる。その場合、双

方とも “不機嫌” になることはない。



 不機嫌と共に持ち出される言葉や行為は、単なるエゴの暴

発に過ぎないもので、「誰かの為」という動機によるものじ

ゃない。

 けれどもわたしたちは、あまりにも長く、多く、「あなた

の為」とか「教育の為」という名目の下で、目上の者の不機

嫌を容認させられて来たので、それがその人間のエゴの暴発

(アタマの悪さの露呈)だと思えない・・。


 誰もが、よ~く心に留めておくべきですよ。《機嫌の悪い

奴はバカである》ということを。

 機嫌の悪い奴の言うことに取り合っちゃいけない。

 そこに「良いもの」なんか含まれていない。

 ほんとうに “実のある” 、人を導けるひとは、不機嫌なん

かにならずに人を良い方へ誘えますよ。

 例え、表面上怒っている様に見えても、怒られた方が後味

の悪さを感じないのなら、それは「怒って見せてる」だけで

すよ。

 とは言うものの、本当に人を導く力のあるひとなら、まっ

たく怒って見せたりしないかも知れませんね。それでも、人

を良い方へ導ける・・・。



 こんな言葉があります。



 《優しい言葉と、善心をもってすれば、

  ただ一すじの愛によって象を曳くことも出来るだろう》

           サアディ(ペルシャの抒情詩人)



 美しい言葉ですねぇ。

 人を指導する者であれば、そのようにあろうとするでしょ

う。


 私は、暴言も暴力も反対だし、体罰も許せない。けれど、

善心からによる “一喝” や、“一発” というものは「あり」だ

と思っています。外科医が人を救う為にメスを使うように、

それを受ける側が心から納得できて、自身の幸福に役立った

と思えるのであれば・・。(「心から~」というところに、

いろんな落とし穴があったりするのですが・・・、自分が

「自分の心だ」と思っているのが、その人のエゴの一部であ

る場合とかね)


 でもまぁ、機嫌の悪い奴はバカですよ。懐の小さい、セコ

イ人間です(残念ながらほとんどの人間がそうですが)。

んな奴の言うこと真に受けちゃいけない。
 

 良寛さんの甥の素行が悪く、「意見してくれ」と頼まれる

逸話がありますが、その家に呼ばれた良寛さんは結局何も言

わずに、帰りがけにその甥に草鞋の紐を結んでもらいなが

ら、黙って涙をこぼすだけだった。けれど、その涙を見て彼

は回心したという。

 その甥が悪い道に囚われていることを、心から悲しむ良寛

さんの気持ちが通じたのですね。



《ただ一すじの愛によって象を曳くことも出来るだろう》



 そんな人にめぐり会えたら、無上の幸運でしょうが、日大

のオッサン達じゃぁねぇ・・。学生たちは「不運」でした。

でも、このことを「不幸」にしてしまわないように、これか

らは機嫌の良い人と付き合ってもらいたい。

 彼らの幸運を祈るばかりです。