2018年6月18日月曜日

地震・・・。


 今日は大阪で震度6弱の地震。神戸のJR・阪急・阪神電

車も止まり、仕事には行けず、家に戻りテレビで地震の報道

を見ていた。


 通学中の九歳の女の子が死んでしまった。

 「行って来ます」と家を出てから、五分かそこらの出来事

だったんだろうなと思う。「可哀相だな」「気の毒だな」と

思う。誰もそんな運命望まないものね。親御さんの気持ちは

いかほどか・・・。でも、それは起こるべくして起こった事

なんだ・・・。そこには理由は無い。意味も無い。ただ無限

の過去からの因縁による・・・。それでもやるせない。人間

だから・・・。


 起ってしまった事は受け止めざるを得ない。それを逃れる

術は無い。どんなに受け入れがたい事であっても、たとえそ

れを拒絶したとしても、「拒絶する」ということも、ひとつ

の「受け入れ方」だし  ずい受け入れ方だけれど。


 幼い我が子が死ぬ。

 それはとてもじゃないけど受け入れがたい。その心情は、

想像するに余りある。「拒絶する」という受け入れ方しか出

来なくても仕方がない・・・。今は・・、しばらくは・・、

いつまでか・・。でも、そのことはどんな形であれ、やがて

心の中に定着して行く・・・。


 人は、出来事を受けとめるしかない。

 出来事が起こった時、それはその人にとっての重要度に応

じて、その人の中を占有して行く・・。さまざまな反応を引

き起こしながら(時に絶望的な・・・)、時と共に様相を変

えて定着し、あるいは消え去るけれど、どちらにせよその人

を変えて行く。


 その出来事が、その人をどう変えるか? 変わってみなけ

れば分からないが、そうやって人が変わって行くことを〈人

生〉と呼ぶ。出来事は、記憶以上に、その人を「変える」と

いう形で定着して行く。そのことから人は逃れられない。時

に、酷く無慈悲なようでも・・・。だって、それは起こった

のだから。


 《人生はグリコのオマケのようなもの・・・》

 「オマケ? これが? ふざけるんじゃないよ!」
 

 でもね、人生はオマケですよ。

 けどね、出来事はオマケじゃない。

 出来事が人生を形にし、その人を作る。

 無慈悲な出来事が、人を慈悲深いものにすることだってあ

るし、僥倖が人を餓鬼道へ導くことだってある・・。


 出来事をどう受け取るか?

 それが、その人を、その人生を決める。いや、「人生を決

める」というより、その受け取り方をする事も含めてが、そ

の人の人生。そして、それはその人にとどまらず、その人の

りまで変えて行く。


 安らぎか?

 悲嘆か?

 恨みか?

 後悔か?

 苦しみか?

 ・・・・?


 泣くときには、泣くしかない。ただ、泣くしかない・・。


 でもいつか、でもどうか、その出来事が慈悲を形作ること

を・・・・。


 残念ながら、世界は “知らん顔” で進んで行くから・・。


 怖ろしく冷酷にみえる言葉だけど、心からの思いやりを込

めて  本気で込めて  ここに書きます。


 「人は死ぬんですよ」


 どんなに受け止めがたくてもね・・・。



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