以前から、いや、おそらく子供の頃から、私には積極的に
「生きよう」という気持ちがない。少なくとも15歳の時に
は、あきらかにそうだった。
いまだにそうで、最近はより一層その傾向が強くなったよ
うだ。何せ、生きる理由が無い。かと言って死ぬ理由も無
い。
「生きているから、生きている」
それだけのことで、「生きて何かをしよう」などとは思わ
ない。
美味しいものを食べれば「美味しい」ので、美味しいもの
を食べたいと思うし、上手い漫才や落語は面白いから楽しみ
たい。面白い映画やドラマなら観たい。
でも、それらは日常的な楽しみであって、特に目的意識が
あるわけじゃない。何かをして生きてることの価値を確かめ
ようとか、生きてることに意味を持たそうとかいう事がな
い。
何をしても、「ただそれだけのことだし・・・」
と思ってしまってるので、強い目的意識が持てないのです。
「なぜそうなのか?」という理由が、自分の生い立ちにあ
るのは明白で、子供の頃から「望む」ということをあきらめ
るのが当然だった為に、大きな目的
たないことが習い性となった。そして、そういう立ち位置か
ら世の中を見ているうちに、他の人たちの「望み」「目的」
というものが、“本質的な意味を持たない事” だということ
に確信をもつようになった。だって、そういうものを持たな
い自分が、それなりに喜びを持ちながら生きているのだも
の。それなら、「あれはムダだ」と私が結論をだしてもムリ
は無い。
普通にひとが「望み」「夢」「目標」などと言うものは、
“ひまつぶし” “自己満足” “強迫観念” だと思うようになっ
た。憎まれるのを恐れずに言えば、それらは “人間の病気”
。〈アタマ〉が悪さをしてるのだ。
そのようなものを持つのは、人であればしかたがないこと
だというのは理解できる。けれど、それはやっぱり “病気”
なのだということを、誰もが心に留めておいた方が良いと思
う。自分と周りのしあわせのために・・・。
今の日本が典型的に
的(非生物的)“ にした分、ドーパミン型の喜び(刺激によ
る快楽)を求めることで、 “非人間的な日常” とのバランス
を取る事に必死になっている。そしてそれを「しあわせ」と
呼ぶ・・・。
いいえ。それは「しあわせ」ではないだろう。
「しあわせ」とは、 “快感” ではなく、“安らぎ” ではない
だろうか?
古い話で恐縮だが、水泳の岩崎恭子が中学生にしてオリン
ピックで金メダルを獲り、「今まで生きて来た中で、一番
『しあわせ』」と言った時、彼女の頭の中では大量のドーパ
ミンやアドレナリンなどが放出されていたことだろう。それ
を彼女は『しあわせ』と表現したのだ。(北島康介は「ちょ
~気持ちイイ」と言った・・・。あまりにも “モロ” なので
私はゲロが出そうだったが・・・。だって、公の場で “ラリ
ッてる” わけなんだから・・・)
中学生の女の子ならそれでもいい。けれど、それなりの年
齢になれば、人はその次元
せ』からは卒業すべきだろう。
社会の中でそれなりの能力を発揮できる立場になっても、
“快感” を『しあわせ』だと考えて活動されては、無用のエ
ネルギーを社会で浪費して問題を作り出すだけだ。 しか
も、当人は「しあわせの追究」だと思っているから問題意識
が無い。そのような人間のことを私は、「子供っぽい」と言
うのですが・・・(当時、岩崎恭子は子供でしたよね)。
岩崎恭子に恨みは無い。嫌いでもない。だってあの時、彼
女は子供だった。そして現在は素敵な女性である。
問題は
いいんだが
える」とか「目標を持ち、達成する」ことが『しあわせ』だ
というストーリーを強固にする “世の中” だ。
いま行われているサッカーの “W杯” でも、さまざまなシ
ーンを取り上げて、“世の中” は「“夢の実現” の尊さ」を持
ち上げることだろう。
そういう「快感」なら薬物で得られるけどね・・・。(殺
されるかな・・・)
本質的には同じものなのに、お手軽に得られる「快感」は
卑しかったり、犯罪だったりするけど、苦労して得た「快
感」は立派で賞賛される・・。
そこには、エゴによって偽装された “ウラ” があると、私
は思っているのだけれど・・・(殺される・・。ああ、怖
い・・)。
でもね。ホント、しみじみと考えてみるべきですよ。
「それは、ほんとに『しあわせ』なのか?」をね。
自分の “頭” でね。
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