何日か前、夕暮れの空がうすいうすい青と橙になり、人影
や街並みがシルエットとなる中、街灯が灯り始めた。
それは見慣れた光景なのに「まるで浮世絵だなぁ」と思っ
たのです。考えてみれば江戸時代と道具立てが違うだけで、
広重や北斎が描いた風景と本質的な違いは無い。相も変わら
ず “浮世” は “浮世” のまま。人々は同じ様に暮らしに追わ
れたり、笑ったり怒ったりケンカしたり、泣いたり恨んだ
り・・・。
人間も、着ている物が違うだけで中身は同じ。知識は豊富
かも知れないけれど、アタマが悪さをすることに変わりは無
い。今も昔も、浮世の中で地に足が着いていなくて、右往左
往しているのだ。
江戸時代の夕空と、現代の夕空となんの違いも無い。広重
や北斎が見た美しい空を、私たちも見ることができる。
でも、実際の空を見て「綺麗だ」と思う人より、浮世絵に
描かれた空を見て「綺麗だ」と思う人の方が多いんじゃない
かとも思う。調べたわけじゃないけれど、以前書いた虹の話
のことを思えば、きっとそうだろう(『最高の虹の下に
て』2017/12 )。
もしかすると江戸の人たちも、夕空を見て「綺麗だ」と思
うような人は少なかったのかも知れない。そのあたりのこと
は分からないけれど、人が見せてくれる物に感動したり、用
意された物を楽しんだりすることの方が普通だったのかも
ね。今と変わらず。
江戸時代だろうが現代だろうがもっと昔だろうが、自分の
感性に素直に従ったり、自分の直感を信じたりすることに不
安を覚える人間の方が多い様な気がする(あくまで、「気が
する」)。
「感動」というものを自分の中で位置付けることが出来な
くて、世の中の基準に “お伺い” を立ててからでなければ、
無暗に感動したりしてはいけないと、心のどこかで感じてい
て・・・(まぁ、「どこか」って、アタマなんですが)、人
は見えているものを見ないようにしているか、見えていない
(認識していない)ことが、普通だと思う。
「綺麗だ」などと感動することは、文字通り感覚的なこと
だけれど、その感覚を意識として立ち上げるのには知性が必
要だ。知性が無ければ、やみくもな「情動」に過ぎず、とも
すれば人を不安にさせる。
「なぜ自分はこんなにドキドキしているんだろう?」とい
うように・・・。
そうして、自分の「情動」に意味付けする為に、他人の意
味付けの仕方を頼りにしているうちに、自分自身で意味付け
することが出来なくなってしまう。要するに、「凡庸」にな
り、「俗っぽく」なる。
「自分」というものには二通りあるようで、“社会のパー
ツとしての自分” と “社会の枠に優先する自分” に分けられ
るでしょう。
“社会のパーツとしての自分” は、100%〈エゴ〉で出来
ていて、“社会に優先する自分” は、おおむね自然で出来て
いる〈本来の自分〉です。
自分の中に生まれる「情動」を 、“社会のパーツとしての
自分” の中でだけ処理していると、人はどんどん息苦しくな
って、不幸になってゆくのだろう。
「知性」というものは、その字面と相反して、半分は野性
的な感覚によって担保されているのだと思う。
「野生の感覚」を、理性によって自分の意識の中に位置付
ける能力を「知性」と言うのだろう。決して、“理知的な情
報処理能力” の事ではない。
であれば、コンピューターが「知性」を持つ事は、永久に
出来ないことになる。コンピューターは、「野生」にはなれ
ないからね。(でも、もしかすると、千年ぐらい経つとネバ
ダの砂漠あたりに「野良ロボット」がウロウロしてたりし
て、それはもしかすると「野生」なのかも・・・)
始めは「美しさ」について書こうとしたのだけれど、いつ
のまにか「知性」の話になってしまった。
長くなるし、酒(ビールとワイン)も入っているので、今
日はもう終わりにしよう。
「美しさ」も、人の〈アタマの悪さ〉も変わっていないと
いう話だったようです・・・。
少し、酔っています・・・。確かに私の〈アタマ〉も悪
い・・・。
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