何日か前、夕暮れの空がうすいうすい青と橙になり、人影
や街並みがシルエットとなる中、街灯が灯り始めた。
それは見慣れた光景なのに「まるで浮世絵だなぁ」と思っ
たのです。考えてみれば江戸時代と道具立てが違うだけで、
広重や北斎が描いた風景と本質的な違いは無い。相も変わら
ず “浮世” は “浮世” のまま。人々は同じ様に暮らしに追わ
れたり、笑ったり怒ったりケンカしたり、泣いたり恨んだ
り・・・。
人間も、着ている物が違うだけで中身は同じ。知識は豊富
かも知れないけれど、アタマが悪さをすることに変わりは無
い。今も昔も、浮世の中で地に足が着いていなくて、右往左
往しているのだ。
江戸時代の夕空と、現代の夕空となんの違いも無い。広重
や北斎が見た美しい空を、私たちも見ることができる。
でも、実際の空を見て「綺麗だ」と思う人より、浮世絵に
描かれた空を見て「綺麗だ」と思う人の方が多いんじゃない
かとも思う。調べたわけじゃないけれど、以前書いた虹の話
のことを思えば、きっとそうだろう(『最高の虹の下に
て』)。
もしかすると江戸の人たちも、夕空を見て「綺麗だ」と思
うような人は少なかったのかも知れない。そのあたりのこと
は分からないけれど、人が見せてくれる物に感動したり、用
意された物を楽しんだりすることの方が普通だったのかも
ね。今と変わらず。
江戸時代だろうが現代だろうがもっと昔だろうが、自分の
感性に素直に従ったり、自分の直感を信じたりすることに不
安を覚える人間の方が多い様な気がする(あくまで、「気が
する」)。
「感動」というものを自分の中で位置付けることが出来な
くて、世の中の基準に “お伺い” を立ててからでなければ、
無暗に感動したりしてはいけないと、心のどこかで感じてい
て・・・
が・・
か、見えていない(認識していない)ことが、普通だと思
う。
「綺麗だ」などと感動することは、文字通り感覚的なこと
だけれど、その感覚を意識として立ち上げるのには知性が必
要だ。知性が無ければ、やみくもな「情動」に過ぎず、とも
すれば人を不安にさせる。
「なぜ自分はこんなにドキドキしているんだろう?」とい
うように・・・。
そうして、自分の「情動」に意味付けする為に、他人の意
味付けの仕方を頼りにしているうちに、自分自身で意味付け
することが出来なくなってしまう。要するに、「凡庸」にな
り、「俗っぽく」なる。
「自分」というものには二通りあるようで、“社会のパー
ツとしての自分” と “社会の枠に優先する自分” に分けられ
るでしょう。
“社会のパーツとしての自分” は、100%〈エゴ〉で出来
ていて、“社会に優先する自分” は、おおむね自然で出来て
いる〈本来の自分〉です。
自分の中に生まれる「情動」を 、“社会のパーツとしての
自分” の中でだけ処理していると、人はどんどん息苦しくな
って、不幸になってゆくのだろう。
「知性」というものは、その字面と相反して、半分は野性
的な感覚によって担保されているのだと思う。
「野生の感覚」を、理性によって自分の意識の中に位置付
ける能力を「知性」と言うのだろう。決して、“理知的な情
報処理能力” の事ではない。
であれば、コンピューターが「知性」を持つ事は、永久に
出来ないことになる。コンピューターは、「野生」にはなれ
ないからね。(でも、もしかすると、千年ぐらい経つとネバ
ダの砂漠あたりに「野良ロボット」がウロウロしてたりし
て、それはもしかすると「野生」なのかも・・・)
始めは「美しさ」について書こうとしたのだけれど、いつ
のまにか「知性」の話になってしまった。
長くなるし、酒(ビールとワイン)も入っているので、今
日はもう終わりにしよう。
「美しさ」も、人の〈アタマの悪さ〉も変わっていないと
いう話だったようです・・・。
少し、酔っています・・・。確かに私の〈アタマ〉も悪
い・・・。
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