2018年6月10日日曜日

街角に浮世絵を見た・・・。


 何日か前、夕暮れの空がうすいうすい青と橙になり、人影

や街並みがシルエットとなる中、街灯が灯り始めた。

 それは見慣れた光景なのに「まるで浮世絵だなぁ」と思っ

たのです。考えてみれば江戸時代と道具立てが違うだけで、

広重や北斎が描いた風景と本質的な違いは無い。相も変わら

ず “浮世” は “浮世” のまま。人々は同じ様に暮らしに追わ

れたり、笑ったり怒ったりケンカしたり、泣いたり恨んだ

り・・・。

 人間も、着ている物が違うだけで中身は同じ。知識は豊富

かも知れないけれど、アタマが悪さをすることに変わりは無

い。今も昔も、浮世の中で地に足が着いていなくて、右往左

往しているのだ。



 江戸時代の夕空と、現代の夕空となんの違いも無い。広重

や北斎が見た美しい空を、私たちも見ることができる。

 でも、実際の空を見て「綺麗だ」と思う人より、浮世絵に

描かれた空を見て「綺麗だ」と思う人の方が多いんじゃない

かとも思う。調べたわけじゃないけれど、以前書いた虹の話

のことを思えば、きっとそうだろう(『最高の虹の下に

て』2017/12 )。

 もしかすると江戸の人たちも、夕空を見て「綺麗だ」と思

うような人は少なかったのかも知れない。そのあたりのこと

は分からないけれど、人が見せてくれる物に感動したり、

意された物を楽しんだりすることの方が普通だったのかも

ね。今と変わらず。



 江戸時代だろうが現代だろうがもっと昔だろうが、自分の

感性に素直に従ったり、自分の直感を信じたりすることに不

安を覚える人間の方が多い様な気がする(あくまで、「気が

する」)。

 「感動」というものを自分の中で位置付けることが出来な

くて、世の中の基準に “お伺い” を立ててからでなければ、

無暗に感動したりしてはいけないと、心のどこかで感じてい

て・・・(まぁ、「どこか」って、アタマなんですが)、人

は見えているものを見ないようにしているか、見えていない

(認識していない)ことが、普通だと思う。

 「綺麗だ」などと感動することは、文字通り感覚的なこと

だけれど、その感覚を意識として立ち上げるのには知性が必

要だ。知性が無ければ、やみくもな「情動」に過ぎず、とも

すれば人を不安にさせる。

 「なぜ自分はこんなにドキドキしているんだろう?」とい

うように・・・。


 そうして、自分の「情動」に意味付けする為に、他人の意

味付けの仕方を頼りにしているうちに、自分自身で意味付け

することが出来なくなってしまう。要するに、「凡庸」にな

り、「俗っぽく」なる。


 「自分」というものには二通りあるようで、“社会のパー

ツとしての自分” と “社会の枠に優先する自分” に分けられ

るでしょう。

 “社会のパーツとしての自分” は、100%〈エゴ〉で出来

ていて、“社会に優先する自分” は、おおむね自然で出来て

いる〈本来の自分〉です。

 自分の中に生まれる「情動」を 、“社会のパーツとしての

自分” の中でだけ処理していると、人はどんどん息苦しくな

って、不幸になってゆくのだろう。


 「知性」というものは、その字面と相反して、半分は野性

的な感覚によって担保されているのだと思う。

 「野生の感覚」を、理性によって自分の意識の中に位置付

ける能力を「知性」と言うのだろう。決して、“理知的な情

報処理能力” の事ではない。

 であれば、コンピューターが「知性」を持つ事は、永久に

出来ないことになる。コンピューターは、「野生」にはなれ

ないからね。(でも、もしかすると、千年ぐらい経つとネバ

ダの砂漠あたりに「野良ロボット」がウロウロしてたりし

て、それはもしかすると「野生」なのかも・・・)


 始めは「美しさ」について書こうとしたのだけれど、いつ

のまにか「知性」の話になってしまった。

 長くなるし、酒(ビールとワイン)も入っているので、今

日はもう終わりにしよう。


 「美しさ」も、人の〈アタマの悪さ〉も変わっていないと

いう話だったようです・・・。

 少し、酔っています・・・。確かに私の〈アタマ〉も悪

い・・・。



   
 
 


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