前回、「美しさ」について書こうとしかけて、話が違う方
へ行ってしまった。「美しさ」とは何か?
試しに広辞苑を引いてみると「快く、好ましい。綺麗であ
る」といった語釈なんですね。
辞書というものは、こういった思考の根本となるような言
葉については、はなはだ役に立たない。それを定義するだけ
で哲学になってしまうという問題があるし、作る側としては
思い切った語釈を採用したくても、辞書を使う側は「一般的
な意味を求めている」ということに配慮しなければならない
だろうから、作り手は敢えて「美しい=綺麗である」といっ
た立場に留まっているのだろう。・・・気の毒ではあるね。
で、私にはそんな配慮をする必要がないので、好きな事が
書ける。「美しさ」とは?
《〈美しさ〉とは、自我の排除を伴う、
外界への非言語的肯定である 》
面倒ですか? 面倒ですよね。ちょっと面白がってみただ
けです😊
「外界からの、言葉にならない感覚的な体験が、自分の自
我(エゴ)を押しのけるほどの強烈さで、肯定的な感覚をも
たらす時、人はそれを〈美しい〉と感じる」
と、まぁそんなことではないかと・・。
言葉にしてしまったら、その感覚は違う次元の「肯定感」
にすり替わってしまうし、言葉に出来るようなものなら、そ
の感覚は真に〈美しい〉のではない。むしろ〈美しさ〉を避
ける為に、既成の “美しさの代用品” に感覚をずらしている
のです。〈美しさ〉は “危険” だから・・・。
〈美しさ〉は “危険” です。
「自我を排除する(我を忘れてしまう)」のですから
私の説によればですが・・ エゴ(自我)にとっては脅威
です。そのため、〈美しさ〉を感じそうな時は、あらかじめ
エゴが統御できる意識レベルに自動的にシフトさせるプログ
「外界からの、言葉にならない感覚的な体験が、自分の自
我(エゴ)を押しのけるほどの強烈さで、肯定的な感覚をも
たらす時、人はそれを〈美しい〉と感じる」
と、まぁそんなことではないかと・・。
言葉にしてしまったら、その感覚は違う次元の「肯定感」
にすり替わってしまうし、言葉に出来るようなものなら、そ
の感覚は真に〈美しい〉のではない。むしろ〈美しさ〉を避
ける為に、既成の “美しさの代用品” に感覚をずらしている
のです。〈美しさ〉は “危険” だから・・・。
〈美しさ〉は “危険” です。
「自我を排除する(我を忘れてしまう)」のですから
私の説によればですが・・
です。そのため、〈美しさ〉を感じそうな時は、あらかじめ
エゴが統御できる意識レベルに自動的にシフトさせるプログ
ラムを、〈アタマ〉の中に備えています。
「美しい」「キレイ」「凄い」といった言葉は、エゴにと
って危険な感覚を、扁桃体の様な “非言語的領域” に侵入さ
せない為のファイヤーウォールとして働きます。感覚を言葉
「美しい」「キレイ」「凄い」といった言葉は、エゴにと
って危険な感覚を、扁桃体の様な “非言語的領域” に侵入さ
せない為のファイヤーウォールとして働きます。感覚を言葉
でからめ捕って、〈アタマ〉をスルーさせないようにするの
です。(誰もが、やたらに写真を撮るのも、〈美しさ〉を感
じてしまうのを逃れる為でもあるかも知れませんね)
しかし、「肯定的な感覚」であるものを、何故怖れている
のでしょう?
それはその感覚を「肯定」するのが、エゴ以前の〈本質的
な自分〉だからですね。そんなものを肯定されてしまうと、
エゴが主導権を失いかねない。
「受験生が恋などしててはいけない」わけです。感覚が先
走る様な体験は、エゴの計画をぶち壊しにしてしまう・・。
だから〈美しい〉ものには、「美しい」という言葉を載っ
けて、安全なレベルで失速させようとする。言葉も出ないほ
ど見とれてしまうような異性は危険でしょ?
仕事が手につかなくなったり、勉強なんかする気にならな
い。時間も金も注ぎ込んでしまったり、それが不倫なら家庭
を崩壊させたりする・・・。なんと、危険でしょう!
べつに異性に限らず、〈美しい〉
ものの虜になって、社会的な安定を放り出してしまう事はよ
くありますよね。危険なんですよ、〈美しい〉ものは。
そういうことは、美しさに限らず、感動全般に言えること
だけれど、では美しさと他の感動と何が違うか?
他の感動はストーリーなのです。
「他人の為に尽くす」とか、「障害をのりこえて成功を勝
ち取る」とかといったストーリーが、人々の社会的価値感に
訴えるんですね。けれど、〈美しさ〉は違う。そこにストー
リーは無い。ただただ、感覚的な感動です。それは、理屈で
成立していたいエゴにとっては、脅威でしかありません。だ
から、〈美しさ〉など感じたくないのです。なので、「美し
い」という言葉は、安全なシチュエーションで使われ、本当
に〈美しい〉事は無視したり、場合によっては怖れを抱いた
りする
居るでしょ? 「満開の桜は何だか怖い」って言う人が。
怖がってるのはその人そのものではなくて、その人のエゴな
んですけどね。表に出て来ない様に抑えている自分の本質的
な部分に、〈美しさ〉は火を点けてしまうから。
エゴにとっての「美しさ」は、社会の文脈の中に収まって
いなければいけないものです。社会の外から入り込んで来る
ような感動は、ウイルスの侵入か、小惑星の衝突のようなも
ので、世界を(自分の中身を)変えてしまう・・・。
人々は、社会的に容認された、 “こじんまりとした「美し
さ」” を採用することでエゴを存続させるのですが、その行
為は、当然ながら “こじんまりとした喜び” しかもたらしま
せん。
「喜びよりも安全を」といったところでしょうか。
かといって、命がけの冒険をする人が、本当の〈美しさ〉
を求めているのかといえば、そうでもありません。先に言っ
たように、それらは社会の評価するストーリーだったりしま
すから・・・。
〈美しさ〉は、人間に本来的な喜びを感じさせるものであ
るか、本質的な喜びに伴うものであるかのどちらか。いや、
どちらでもあるかも知れません。
「〈美しさ〉を感じる勇気」といったものが、人間には必
須なのかも知れませんね。生きる(活きる)にはね。
(〈美しさ〉の兄弟分に、〈楽しさ〉といものもありま
すね。やっぱりみんな、社会の枠の中で“こじんまり”
とした、“用意された「楽しさ」” を楽しんでいます。
それが「絶対ワルイ」なんて言いませんけどね。人間
だもの・・・。でも、死ぬまでそれでお茶を濁してい
られるものでしょうか? ・・・嫌な事言ってるよね)
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