2018年8月13日月曜日

「自己劇化」の果てに。


 前回のブログで、ボクシング連盟の山根氏のことを、「自

己劇化の激しい人間」と評したのだけど、〈自己劇化〉とい

う言葉はおそらく辞書には無い。



 この言葉は随分昔に、たぶん糸井重里さんか橋本治さんが

使ったものです(記憶が曖昧で確証がない)。

 当時、この言葉についての説明は無かったのですが、【自

分の生き方・人生をストーリーとして捉え、ドラマの様に考

えている】ということだと受け止めました。

 確か、矢沢永吉を評して「自己劇化の激しい男」と言った

のだったと思う(やはり記憶が曖昧で確証が無い)。



 人が社会で生きてゆく為には、ストーリーが必要です。

 それまでのいきさつや、これからの展開というものを思い

描かなければ、社会適応出来ませんし、生きている事が茫漠

として、不安や虚無感に囚われてしまうことになります。



 社会的成功や、家族などの人間関係の有り方や、民族意

識・国家意識、宗教など、人によってそれぞれの “重み付

け” は違いますが、あらゆることで自分の関わり方をストー

リー化します。

 もちろん、ほとんど本能的・生理的というような関わりし

か持たない事や、なんの関心も持たない事柄は人それぞれに

ありますが、当人が意識しているかどうかに関わらず、その

人にとって重要ないくつかのストーリーを持っているのが普

通の人間です。



 そうして生きてゆく中で、特に自分のストーリーを強固に

持って、それに合わせて生きようとする人を「自己劇化の激

しい人」と言います。そして、そのような人は、往々にして

“俗物” です。または、“変な人” や “危ない人” だったりし

ます。どちらにせよ、「アタマでっかち」なんですね。自分

の思考に強い現実感を持っていて、それを実現  現実化

  させて、その中に生きることが「生きる」ということだ

と信じて疑わない・・・。



 そういう人が居たって構わないんですが、ストーリーとい

うものは、当然ながら社会との関わり方のことですから、そ

れらの人は自分が主役のストーリーを社会の中に持ち込ん

で、それを具現化しようと躍起になります。世界は自分を中

心に回っているような錯覚をするんですね。

 それがどんな人かと言えば、要するに “はた迷惑な人” な

んですが、その人のストーリーに親和性を持っている人は、

そこに寄って行ってしまいます。

 結果、そのストーリーは現実の社会の中で肥大してゆき、

一般的な社会のストーリーとは乖離した動きをして、問題を

起こすことになります。

 それはヒトラーとナチスに象徴されるような現象ですが、

大なり小なり常に世界中で起きていて、それ故に、人間の世

界は平和になりません。



 なにも、自己劇化の激しい人間がみんなヒトラーのような

わけではありませんが、現実の社会に則した形で自分のスト

ーリーを持っていても、当人の目的は「自分のストーリーの

具現化」ですから、誰かにしわ寄せが行って困っていたりす

る事は、問題にしません。だから “はた迷惑” なんです。



 人間が迷惑していなくても、森が迷惑していたり、魚や虫

が迷惑していたりもするわけです。それは、巡り巡って人間

を困らせることになったりするんですけど。



 わたしたちは、ストーリーを持たなければ、社会の中で

きて行きにくいのですけど、ストーリーを持つが故に、社会

の持つ問題を抱え込むことになって苦しみます。



 たとえば、「良い大学を出て、良い会社に入って、経済的

に豊かになることがしあわせというものだ」というストーリ

ーをもっていると、それが具現化できないことは、挫折・敗

北であり、「不幸である」ということになってしまいますか

ら、なんとしてもそれを具現化しようとムチャな事やずるい

事をしたりして、今度はそれを正当化しようと余計なエネル

ギーを使います。それで、首尾よくストーリーが具現化すれ

ばまだしも、できなければずっと苦しいだけです。



 では、ムチャをせず、ずるい事もせず、スムーズにストー

リーが具現化したとすればどうでしょう? しあわせでしょ

か?

 いいえ、その人はつまらないと思いますよ。「自分の努力

や苦労が、自分のストーリーを形にした!」という、一番大

事なストーリーが欠けているからです。


 人がストーリーを持つのは、“自己肯定感” が欲しいから

です。その為には、「自分の力によって・・・」ということ

が外せません。マンガにしろ映画にしろ、主人公が障害を乗

り越える姿が描かれなければ、誰も喜ばないでしょ?

 ストーリーを持って、それを具現化して行くことは、マゾ

ヒスティックなものなのです。その為、障害が無ければ、わ

ざわざ障害のある方へ行きますし、無ければ作ります。


 自分で障害(問題)を設定して、自分で苦労するというマ

ッチポンプが、わたしたちの作るストーリーのキモなので

す。おつかれさま。


 私は、そういうのは疲れるし気持ち悪いのですが、社会が

その様な要請をしてくるように出来ているので、付き合わざ

るを得ません。ほんとうに迷惑しています。

 もっと気楽に、すんなり、自然にやれないものでしょう

か?


 問題なんか、生きていれば自然に発生して来るものです。

その対処だけで十分なのに、何やらわけのわからない夢を描

いて、問題を抱えては周りの人間まで巻き込んで行く・・。


 自然に生まれて来る問題を片付けたら、「あ~っ、終わっ

た!」と昼寝でもするか、涼しい所でビールでも飲んでいれ

ばいいと思う。

 「やりたいことがある」などと、あちこと動き回られる

と、暑苦しいしホコリも立つ。

 「ちょっと、じっとしてなさいよ」

 そう言いたいんですが。


 「そういうのって “ビョーキ” なんだ」、という社会通念

が出来てくれればいいのにと思うけれど、社会の方でそれを

奨励するもんだから手の打ちようも無い。そして、奨励して

おいて、山根氏の様な人間がでてくると、「何であん

な・・」とか言って呆れたり、訝しんだりする・・・。

 「同じ穴のムジナだよ」と、こっちは思ってる。


 しなければしょうがないことはあるけれど、するべきこと

や、することなんて本当は無いのだ。


 自己実現して、自己肯定するなんて手間なことしなくった

って、自分は今ここに生きているじゃないか(明日の事は知

りませんが)。


 はた迷惑です。

 おとなしくしてなさい。




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