2018年8月16日木曜日

専門家は役に立つか?~「経済学者は役立たず」~


 世の中では、あっちでもこっちでもさまざまな議論が行わ

れている。

 政治・経済・環境・エネルギー・差別・医療・教育・福

祉・防災・農業・etc...。

 そうやってあらゆることが議論されるけれど、その結論が

出ることはない。

 「太陽が昇れば朝が来るというのは正しいか?」といった

自明のことでなければ結論は出ない。(そもそも、そんなこ

とは議論の対象にならないが)

 なぜなら、《正しいとは、そういうことにしておけば気が

済む》ということだから、片方が意見を改めたとしても、そ

れはもう一方の意見が正しかったということではなく、単に

片方の気が変わっただけのことで、その場ではその意見が通

ったという話です。



 人間の考える事の正当性を、完全に保証する事は原理的に

不可能なので、反対する者はどんなに分が悪かろうが、「そ

れではまだ完全な証明にはならない!」と言って、反対する

のです。そして、それに対する対抗手段は有りません。「完

全な証明」など誰にも出来ないのですから。

 なので、議論には「正しい結論」はありません。



 議論に決着(結論ではない)がつくのは、議論していた者

が仲良くなっちゃった時と、一方が経済力・腕力(武力)・

賛同者の頭数などの、なんらかの力で相手を圧倒した時で、

議論そのもので決着がつくことはありません。

 同じ対象を見ていながらもともと意見が違うのですから、

片方がもう一方の視点から対象を見る様になったのなら、そ

れは、一方がもう一方の側に立ち位置を変えたということ

で、仲良くなっちゃったということです。決して、「結論が

出た」のではなく、「決着がついた」ということです。だっ

て、人間には〈正しいこと〉は知り得ないですから。



 わたしたちは言葉を使ってものを考え、議論しますが、言

葉というものは、まず物事を分ける事によって成立します。

 その「分けること」は恣意的なことですから、言葉を使っ

た瞬間に、その人やその人の属する文化の恣意性が入り込み

ます。なので、言葉によってどのような「正しさ」を導き出

しても、それは『絶対客観的正しさ』  真理というもので

しょうか  では有り得ません。人は〈正しいこと〉を知り

得ないのです。



 結局、どんな議論がなされても、その意見の正当性ではな

くて、なんらかの力で相手を圧倒した方が主導権を取るか、

相手を懐柔して抱き込んだら終わるだけですね。



 「戦争は政治手法の一つ」という言い方もされますけど、

議論が “殺し合い” で決着することもままあるわけです。

 「逆らいようが無い・・・」と思わせたら勝ちということ

ですね。議論して正しい答えが出るなんて、幻想ですね。

 いいとこ「話が進展する」というぐらいで、それが正しい

方へ向かっているなんて思っていたら大間違いです。自分の

気が済むことが「正しいこと」ではありません。



 「議論」なんて、気に入らないから黙っていられないだけ

で、自分の気にいることを正しいことにしたくて、右往左往

しているだけのことです。

 議論しちゃってること自体が、何かおかしなとこへはまり

込んでるってことですよ。(あきらかにバカなことを言っ

て、それを実行しようとしている者は止めなくちゃいけない

でしょうが、「あきらかにバカなこと」を明らかにするのも

なかなか問題の多いことです。気が付いたら自分がバカなこ

とを言っているかも知れません)


 そのように、あっちでもこっちでも議論が繰り広げられて

いるわけですが、そういったさまざまな議論では、ほぼ必ず

専門家の意見が参考にされたり主題にされたりする。もちろ

ん、専門家同士も議論する。けれど、議論の場では専門家の

意見は役に立たない。

 すでに書いた様に、議論を決着させるのは議論そのもので

は無い。“論” を戦わせている様に見えるけれど、それぞれ

の “論” は旗のようなものであって、“論” が戦っているので

はなくて、“論” を守る為に戦っているのですね。その “論” 

を守る為に、「専門家の意見」や「論文」や「データ」とい

った武器を使うのですが、情けないことにそれらの武器は 

“言葉” や “数字” でしかない。どんなに打ち合ったところ

で、相手の旗を倒す実質的な効果は無い。

 議論の場に専門家を引っ張り出すのは、不毛です。(そも

そも、議論自体がほとんど不毛ですが・・・)


 専門家が役に立つのは、議論が決着した後のことです。

 主導権を取った側の意見を担保する専門家が役に立つこと

になります。

 が、先に述べたように、人は正しいことを知り得ません。

 専門家の意見というものも、良くて「さしあたり上手いこ

と行く」というもので、その意見を取り入れたり従ったりす

ることが、ずっと良い結果をもたらすことはありません。な

ぜなら、その対象となることに完璧に対応出来る事はありま

せんし、もし出来たとしても、状況は必ず変わるからです。

 考えに考え、戦いに勝って(悪どいことやズルいこともし

ながら)、やっと主導権を手に入れて、出来る事は結局「間

に合わせ」なのです。


 人は正しいことを知り得ませんから、「間に合わせ」しか

出来ません。それ以上の事が出来るのなら〈神〉です。


 私は何も「人間の考える事はどうせ “間に合わせ” に過ぎ

ないのだから、な~んも考えず、な~んもするな」と言いた

い訳ではありません。

 議論というものはそういうものだし、出来る事は「間に合

わせ」だから、そのことを常に分かっておかなければならな

いだろうと・・・。


 結論というものは無いのだと。

 だからわたしたちは、常にニュートラルな意識で事に当た

らなければならないだろうと思います。

 例え自分が主導権を握っても、それは絶対正しいというわ

けではないし、正しいことが出来るということでもない。

 みんな思い違いをするけれどね。


 そう、「専門家は役に立つか?」。

 役に立ちます。カンナや金槌のような道具としてね。

 でも、中には何の役にも立たない専門家もありますね。経

済学者なんて何してるんだろう? 哲学者もほとんど役立た

ずだけれど、経済学者は実社会に対する影響力が物凄いの

に、あんな役立たずは無い。

 経済が人間にとって良いものになった事があるか? 

 経済学者が悪影響を与えることがあっても、経済の安定に

資したことはないのだろうと思う。強欲な連中が経済学者の

言うことを利用して私腹を肥やすだけで、却って経済格差が

拡がったりするだけ・・・。
 

 経済学者はもう黙りなさい。

 あなた達は、核物質並みに問題の多い存在です。

 「使えないヤツ」とうやつです。


 「そんな言い草はないだろう!」

 そう経済学者が思うのであれば、わたしたち人類が “経済

の支配” から抜け出せる道を示してほしいものだ。(“経済”

というのは、経済というシステムそのもののことです『リア

ルマトリックス』(2017/3) の回をご覧ください)


 世界中の経済学者が共同で声明を出し、人類が “経済” に

支配されてしまっている事を示し、その支配から自分たちを

解放する手立てを提示してみせてほしい。

 もしもそれが出来るなら、人類がより良い将来をつかむ布

石ともなるだろう。

 経済学者に出来る事はそれだけしかないと思うね。




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