2018年8月1日水曜日

魂魄この世に留まりて・・・・


 「魂魄この世に留まりて・・・」という “魂魄” を、私は

〈意思〉と考えます。

 幽霊の場合、肉体が無くなっても、〈意思〉はこの世に留

まっていて、その〈意思〉を見る人が居るわけですが、〈意

思〉が、ある場所やある時間などに留まることは出来ませ

ん。

 〈意思〉が留まっているのではなくて、ある状況が、もう

いない人間の〈意思〉を想起させるとき、それが幽霊となっ

て現れることがある・・・。それが幽霊を見るということだ

と思うんです。



 その、「〈意思〉を想起させる」という状況があるという

ことが、「魂魄のこの世に留まりて・・・」ということです

ね。そして、想起させる〈意思〉が恨みや後悔などのネガテ

ィブなものであるほど、幽霊としてイメージが立ち現われ易

くなる。


 霊感が強いという人がいますが、そういう人は、人間的な

ストーリーを想起する癖がついている人です。

 ある状況にあって、その状況を受け止めるスタイルはいろ

いろあるのにもかかわらず、人間関係を土台にした状況認識

を選びがちな人・・。

 何か理解しがたい出来事に遭遇した時に、そこに人間関係

を持ち込んで理解しようとしてしまう。だから、“幽霊を見

る” 。つまり、世の中に「どっぷりな」人ほど、幽霊を見

る・・・。世界は人間関係だけで出来ているのではないのだ

けれどね。

 そして、世の中に「どっぷり」だからこそ、そこに見てし

まう〈意思〉の影響を強く受けてしまう。つまり “祟られ

る” わけです。



 そういう人は、死んでしまってもういない人間の〈意思〉

を想起してまで祟られるのですから、今生きている人間の

〈意思〉には、もっと強く影響を受けるはずです。きっと、

現実の人間関係には、もっと揺さぶられることでしょ

う・・・。


 とは思うのですが、もう一つパターンが考えられます。

 現実の人間関係に揺さぶられやすいが故に、いない人間

(霊)に関わる事で、現実の人間関係からの影響を避けると

いうパターン。

 どちらにしても、人間の事ばっかり考え過ぎですね。

 この世界の大部分は、人間の事情とは関係なく存在してい

るものなのに・・・。



 そういう、「面倒くさい人」たちは、メンドクサイもので

すが、事はそういう人たちに止まりません。



 普通の人たちは、霊感が無く、あまり “幽霊” とは関わり

ませんが、その人生の大半を “生霊” と関わって、怯え、怖

れ、苦悩し、憑りつかれて正気を失ったり、時に呪い殺され

てしまいます。



 最初に「私は “魂魄” を〈意思〉と考えます」と言いまし

た。ですから、“生霊” とは、〈生きた人間の考え〉のこと

です。わたしたちは、〈生きた人間の考え〉、つまり〈エ

ゴ〉に祟られ、自らも他人を祟りながら生きているのです。



 生きているので、一見生身の人間に見えますが、ほとんど

の人が本当は “亡霊” なのです。


 “亡霊” とは、「身体を亡くした霊」のことですが、誰も

が、「本来の自身」を亡くしてさまよい歩く〈エゴ〉とい

“亡霊”    “生霊” なんです。



 それぞれが、この世の “何か” に対する執着に惑わされ

て、自身を見失いさまよっている “生霊” です。

 この “生霊” のもつ影響力は、とても大きい。なにせ、生

身の身体を持っていますから、人にはもちろん、人以外のも

のにも影響力を持っていますし、人に対しては、霊感の有る

無しに関わらず、直接的に影響をあたえますからね。



 “亡霊” が成仏する道筋を知らないように、“生霊”(エ

ゴ)も、何が正しい道かを知らないまま、自分の執着のまま

に動き続けるので、さまざまな場所で、さまざまな形で祟り

ます。

 「呪って」「憑りついて」「闇に引き込んで」「人を狂わ

せて」・・・・。

 時には、喜び・楽しみ・快楽を与えて喜ばせておいて、地

獄へ引き込んでしまったり・・・。



 みんな、自分が “生霊” だなんて思ってもいないけれど、

恨んだり、恨まれたり、憑りついたり、憑りつかれたり、狂

ったり、狂わせたり、苦悩の闇へ引き込まれたり、引き込ん

だり・・・。そんな事ばっかりしてるじゃないですか、程度

の差こそあれ。ね、“生霊” なんですよ、わたしたちは。



 この世に生まれて、この世のやり方で放っておいたら、み

んな “生霊” になってしまう。

 そんな人間が死ぬんですから、そのまま “幽霊” になって

当たり前ですね。生きてる時から、すでに “亡霊” なんです

からね。



 だから、お釈迦さまの相手は、生きてる人間でした。

 生きてる内に、人の “亡霊性” に引導を渡さなければなら

ないからです。 

 お釈迦さまの弟子の末裔であるのに、死人相手に、パフォ

ーマンスをして見せる坊さんは、ろくなもんじゃないです。

まぁ、中にはそれを承知の上で、仏縁に繋げる「方便」とし

てやっている、実のある坊さんもいるとは思いますがね。


 “生霊” であるわたしたちは、さまざまな執着に自縄自縛

になって生き損ねているわけです。だから、生きているのは

しくて、大事になってしまう・・・。

 極端な言い方をすれば、わたしたちは「生きて死ぬだけ」

です。とってもシンプルなものです。けれど、あまりにシン

プル過ぎてそこに意味を見いだせないので虚しさを覚えてし

まう。なので、その虚しさを紛らわそうと勝手な意味をでっ

ちあげて、それに執着するのだけれど、当然ながらそれは本

来の〈生〉に根差していない。地に足が着いていない(だか

ら幽霊には足が無い)。

 そして、“亡霊” となってこの世をさまよい続けるので

す・・・。


 成仏したくはありませんか? 生きているうちに。


 生きてる内じゃないと成仏できないし。


 坊さんは連れて来なくていい。もちろん霊能力はいらない

し、霊能力者も呼んで来なくていい。

 「生きて死ぬだけ」という、〈生〉のシンプルさに目を向

ければ、自分の執着の実質の無さが浮き彫りになって、それ

を拠り所にしている自身の “亡霊性” が、力を失くしてゆき

ます。

 そして、虚しいのは「生きて死ぬだけ」ということより、

「生きる意味をでっちあげる」ことの方だと気付きます。

 結果、“亡霊性” は消え、あなたは自身の “生霊” の呪縛か

ら解き放たれ、まわりの人間の “生霊” の影響もあまり問題

にならなくなります。


 まわりを見渡してみましょう。

 まわりで、人々が何をしているか見てみましょう。

 「わたしたちは、生きて死ぬだけなんだ・・」そう思って

まわりを見てみると、ほとんどの人間が “生霊” だと実感で

きます。


 とはいえ、社会の中で生きなければならないわたしたち

は、“生霊” と関わり、自分も “生霊” であるかのように振る

舞うことを要求されます。

 残念ながら、それは仕方がありません。

 “生霊” たちのアタマの悪さを笑って、それを生きてる事

のオマケとして、楽しむしかないでしょう。


 “お菊” が、「足りない皿を数え続ける」ように、ニュー

スになるものから身近なものまで、さまざまな場所で、さま

ざまな物を「足りない・・・」と数え続けている “生霊” が

巷にあふれかえっています・・・。その気で見れば、本当に

笑えますよ(中には笑えないのもありますけどね・・・、子

供の虐待とか、戦争とか・・・)。


 わたしたちは「生きて死ぬだけ」。

 そのことを受け入れることが、成仏することなんですね。

 前にも書きましたが、道元禅師が言ってます。

 「生を明らめ、死を明むるは、仏家一大事の因縁なり」


 そう肚が括れたとき、人は本当に生きられるのでしょう。

 そうでなければ “亡霊” のまま生きるのですね。死ぬま

で、あるいは死んでからも・・・。
  
 「魂魄この世に留まりて・・・」。




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