2019年3月20日水曜日
「新社会人」への言葉
もう三月の下旬だ。歳を取るとあっという間に一年が過ぎ
る。この分じゃ、気が付いた時には死んでるだろうな。もっ
とも、死んでいたら気が付かないけれど。
今年も、「新社会人」と呼ばれる子たちが社会に押し出さ
れてくる。夢や希望を持った子たちもいるのだろうが、「新
社会人」のほぼ100%は、経済を動かす為のパーツとして
“社会” に組み込まれてしまうだけのことだ。“夢や希望”
は、多分 “夢や希望” のままになる.
仮に “夢や希望” が叶ったとしても、“社会” の中で叶えら
れた “夢や希望” は、 “社会” に取り込まれた “夢や希望”
であって、個人のものではない。自己実現したいという欲求
をうまく利用されているに過ぎない。“社会” は、個人とい
うものに何の価値も置いていないのだから。
だって “社会” には人格も感情も無いので、“社会” 以外の
ものに何の思い入れも持たない。したがって “社会” は “社
会” 以外のものに存在意義を見てとらない。“社会” にとっ
てすべての存在は “社会” というシステムを動かす為の道具
に過ぎないのです。
時折、 “社会” が個人の為に動くようなことがあるけれ
ど、それは “社会” が個人を守ろうとするように動くこと
が、“社会” にとってメリットがある場合のことです。“社
会” は “社会” の為に存在する。すくなくとも、現代の日本
やアメリカのようなところではね。
そんな “社会” に出てくる「社会人一年生」に対して、私
からは、「幸運を祈る」としか言いようがない・・・。ホ
ント、殺されないでね。「ヤバイ・・・」と思ったら逃げる
んだよ。・・なんて、ここで言っても何にもならないけれ
ど。
数千年前の小さな社会なら、 “社会” は人の為にあったか
もしれない。けれどもう随分昔から、 “社会” は “社会” の
為にある。そして今や、“社会” は “経済” の為にある。(よ
かったら『リアルマトリックス』(2017/3) という回を見て
下さいね)
わたしたち人間は、「 “経済” を動かす為に存在させられ
ている」と見て、ほぼ間違いないでしょう。富める者も貧し
い者も「経済の道具」としては同じです。
「成功と挫折」、「勝者と敗者」といったストーリーは、
人を「経済の道具」として動かす為の、良く出来たトリック
です。そのストーリーの中で、人は自己実現や自己肯定を求
めるように刷り込まれる。それを達成できなければ、人とし
て不完全なままで終わるのだと・・・。そして骨の髄までそ
んな刷り込みをされた若い子たちが、“社会” に押し出され
てくるのです・・・。
毎年、この時期、黒いスーツに身を包んだ男の子や女の子
を見る度に、「上手く生きるんだよ」、「苦しいだろうけ
ど、できるだけ自分の感覚に素直でいるようにするんだよ」
と祈る。
“社会” は強大で、その中では個人など何の力も持たな
い。誰も “社会” から物理的には自由にはなれない。けれ
ど、精神的には自由でありうる。
“経済” と “社会” の道具となって「成功者」として百歳ま
で生きることと、「挫折者」と見做されつつ、人として五十
歳程まで生きることのどちらが幸福か?
答えを決めるのはそれぞれに任されていますし、 “人とし
て「成功者」になる” というのも “有り” でしょう。けれ
ど、本当の「成功」とは “人として生きる” ことだと思うの
で、社会的な「成功」は有っても無くてもあんまり変わらな
いでしょう。オマケですね。(『グリコのおまけ』
(2017/3)というのも良かったら見て下さいね)
その昔、「六十年安保」や「七十年安保」といった学生運
動がありましたが(私より上の世代ですが)、「新社会人」
になるはずの若い子たちが、みんな “就職拒否” するといっ
た運動が二・三年続いたりしたら面白いんじゃないかなと思
う。
「こんな “社会” なら、ぼくたちは “社会人” になんてな
らないぞ!」ってね。
日本でそんなことが起れば、それが世界に波及して、 “経
済” に支配されている世界を変えられるかもしれない(どう
変わるかなんて知らないよ)。
それはともかく、私は本気で祈っています。
「新社会人」たちが、 “社会” に食い潰されないこと
を・・。
なんとか、人として生きて行けることを・・・。
どうか、気をつけてね・・・。
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