2019年3月28日木曜日

みんなが「裁判官」というアホな世界



 「生きることは苦である」とお釈迦さまは言った。

 なぜわたしたちは、苦しむために生まれて来なければなら

ないのだろうと思う。子供の虐待のニュースなどを見る時は

なおさらそう思う。

 その一方で、このごろの私は、そのような事件に対して

も、ものが言えなくなってきた。評価、判断が出来ない。

 虐待する方も、虐待される方も、どちらも不幸だとしか思

えないから。


 そりゃぁね、虐待される子供の方が可哀相で心配ですよ。

殺されてしまう事もあるし、そうでなくても、それから先の

その子の人生を思えば言葉も無い。けれど、だからといって

虐待する側を完全に「悪」と見做すことはできない。これま

でに何度か書いているけれど、犯罪者になるつもりで生まれ

て来る人間はいないだろうから。誰もそんな運命望まない。

けれど、そうなってしまう。


 罪を犯した人間の “罪” は罰さなくてはならないだろう。

けれど、その全人格を罰することはできない。人が罪を犯す

のは、その不完全さ、弱さゆえだから。

 自分のことを考えてみても、私が罪を犯していないのは、

私の人格が優れているからではなくて、今のところ罪を犯さ

ない境遇にあるというだけのことだ。だから、私には人を裁

く資格が無い。明日は我が身かもしれないのだから。


 ネット上では、毎日誰かが批判され、裁かれているけれ

ど、そんなことは大昔からの人間の日常だ。伝達・拡散のス

ピードが上がって、その質も変化しているけれど、その本質

は同じだろう。他者を裁き、貶めることで、相対的に自分の

立場を上げたり、自分の正当性を信じ込んだりしたいのだ。

けれど、いったい誰が人を裁くことができるだろう。誰も、

何も裁けないはずだ。誰も、誰かを裁く根拠なんて持ってい

ない。単に「わたしは気に入らない」という気分に、正当に

思えるような理由を付けるだけだ。

 罪を犯すのが「弱さ」ゆえならば、裁くということも「弱

さ」ゆえだろう。「裁く」という行為の根底にあるのは、不

安や怖れなのだから。もちろん、それぞれの「弱さ」が向い

ている方向は違うが・・・。


 これまでも度々書いて来たけれど、社会の中で罪を犯した

者は、それが法に触れるかどうかに限らずその責めを負わな

ければならないが、本当の意味での責任は、その当人には無

いと私は考えている。だって、人には自由意志は無く、ただ

止むに止まれずそのように行動しているだけだから。


 間違いなく罪を犯している被告に対して、私が裁判官な

ら、どんな場合も次のような判決を下す。


 「被告は “有罪” (それが相当であれば死刑)。ただし、

その魂は “無罪” 。」


 仮に、自分の大切な人が殺されても、私はそう判決するだ

ろう。(ホントかな?)

 だって、そうするしかないのだから。


 それがどんな人間であれ、魂に罪は無い。魂に罪は犯せな

い。罪を犯すのは、わたしたちのエゴ、あるいは無知だ。

 社会の関わりの中からエゴは生まれ、社会との関わりの中

でエゴは育つ。そのようなエゴの中には、「反社会的」とい

社会との関わり方をするものも現れて来る。社会は差別に

よって動いて行くものだから、その当然の帰結として・・。


 「反社会的な人間」は社会から排除される。

 けれど実際には、 “社会から排除されたから”   あるい

は、社会に上手く適応できないから  「反社会的な人間」

になる場合も多いだろう。その場合は、社会が犯罪者を生ん

でいる事になる。実のところ、割合としてはそちらの方が多

いだろうと思う。「本質的に反社会的な人間」は、それこそ

〈反社会的人格障害〉のように、脳機能に問題を持っている

者に限られるだろうから。

 “社会から排除された人間” であれ、“本質的に反社会的な

人間” であれ、それは当人のせいではない。そのような人間

の〈罪〉は裁けても、その人間そのものを裁くことはできな

い。少なくとも、私はその資格も正当性も持ち合わせていな

い。


 とはいうものの、私もすぐに裁きたがる。

 うっかりしていると、すぐに人を裁いている。油断も隙も

ない。

 人を裁くことで、その反作用としての、束の間の “自己肯

定感” を得ようとするのだ。どうせ後味の悪い思いをするの

に・・・


 人を裁くと、その “裁き” の正当性を保持しようと、「自

分は正しかった、正しかった・・・・」と、いつまでも自分

に言い訳をしていなければならなくなる。それは、恐ろしく

くたびれる事だし、精神衛生上よろしくない。

 寄って立つ法律でもあれば、それによって「自分は正し

い」ということで納められるけれど、「自分は正しい」が自

分の判断である場合は、そこに確固たる正当性を得られるこ

とはない。「自分は正しい」という考えを放棄しない限り、

永久に「自分は正しい」に縛られる事になる。

 個人的に人を裁くと、裁いた人間の方が ”「自分は正し

い」という牢獄” に入る事になる。

 人を裁いたりするもんじゃない。


 ちょっと「違法薬物をやった」とか、「不倫した」とか、

「バカなことを言った」とか、そんなことで、 “罪” を裁く

のではなく、誰もが “人” を裁く・・・。

 「ふぅ~ん。あんたたちはよっぽど素晴らしい人間なんだ

ね」と、私はひとりでイヤミを言う。


 私は、人間という “出来損ない” の存在なので、とてもじ

ゃないが人を裁けない。

 (出来損ないなので)ついうっかり人を裁いたりすると、

後で自分にうんざりしてしまう。『天に向かって唾をする』

という状態になる。イヤになる・・・。


 「裁く」というのは、〈アタマの悪さ〉の典型的なものだ

ね。ひととき気分がイイけれど、その副作用の方がはるかに

強い・・・。ヘロインより人を不幸にするんじゃないだろう

か・・・。(こんなことを言うと、裁かれるんだよね。断っ

ておきますが、私は向精神薬否定派です。かぜ薬だって飲ま

ないんですから・・・)

 今日は、お終い。




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