2019年3月13日水曜日

泣くしかない時は、泣くのです。



 今日は3月13日。東日本大震災関連のテレビ番組など

は、あっさり消えてしまった。

 そういうものです。

 薄情だとかどうとかいう問題じゃない。

 もし、そういう番組があと二週間も続けば、被災者だっ

て、自分の立場に関わりの深い内容でなければ見なくなるだ

ろう。もう、八年も経っているからね。

 でも、私はもう少し関わってみようと思う。


 人は生きていて、生きていれば新しい出来事に目を向け

て、それに対応して行かなければならない。過去の事に留ま

ってはいられない。どんなにそこに留まっていたいとして

も。

 だから、あの震災と原発事故の事が、被災者であれ、それ

以外の人であれ、人々の重要事項としてのランクを下げて行

くことはしょうがないことです。
 

 あの津波で家族を失った人の中には、いまだに「時間が止

まっている」というような感覚を持たれている人もいるかも

しれない。八年経ってもね・・。

 じゃぁ、その人が「過去に留まったまま」かといえば、そ

うではない。たとえ、その悲しみ、苦しみ、怒りなどがあの

時と変わらないとしても、「わたしは、悲しみ続けてい

る・・。何も変わっていない・・・」という想いを持たれて

いるんじゃないだろうか。

 「何も変わっていない・・」という想いは、時が経ったこ

とを気付いているからこそ生まれて来る想いです。少なくと

も、その一点だけは変わったのです。その人の中でも。

 そういう意味では、その人も過去に留まっているわけでは

ない。“時が経った” という「新しい出来事」に関わってい

るのですね。そして、「私は過去の事を “過去の事” にして

しまうなんてできない」という対応の仕方をしているわけで

す。本人は「変わっていない」つもりかもしれません

が・・。


 そうやって、過去にこだわり続け、過去にしがみ付き、過

去に囚われていることが、良い事かどうか私にはわかりませ

ん。いえ、良いも悪いも無いのでしょう。だって人が生きて

行くというのは、過去の出来事の後始末をしているようなも

のです。それが目立つかどうかだけで、人はみんな過去に囚

われ、過去の鎖に繋がれ、それから自由になることはできな

い。「“自由な未来” を描いて、それを生きる」ことなどで

きないのです。


 あの震災と、原発事故の生み出した状況・・。ある人の中

では、それがどんどん薄れてゆき、ある人の中では昨日の事

のように自分にのしかかっている・・・。

 そこに、正しいとか間違っているとか、良いとか悪いとか

はない。

 それぞれに、それぞれの今を生きているのですね。


 「あの震災で過酷な経験をしたけど、今は何とか笑顔でい

られる」という人は一応いいことにして、「今も苦しいま

ま」だという人はどうしたらいいのでしょうか?

 そのままでいいのでしょう。

 いつまで苦しいのかはわかりません。

 死ぬまで苦しいままかもしれません。

 苦しさのせいで死んでしまうかもしれません。

 それがその人にとっての「今を生きる」ということでしょ

うから。

 その人にとってはそう在らざるを得ないのですから。


 えらく冷たい言い草かもしれません。そんなこと、わざわ

ざ言葉にしなくったってよさそうです。なのに、なぜこんな

ことを言うかというと、そういう状況にある人を見て、「つ

らい過去から一歩踏み出して」とか「笑顔を取り戻して」な

んてことを言う人がいますが、当人は今、あるがままの精一

杯の自分を生きているのです。それが、暗かろうが苦しかろ

うが、このままでは良くなかろうが、そう在るしかない。だ

からそう在る。精一杯そう在る。それがその人の今。良いも

悪いも無い。他の人の基準など関係ないことです。


 そりゃぁね。人が苦しんで泣いているのは、見ている方も

つらい。私だってつらい。元気になってくれたらと思う。で

も、人には「今は、泣いて苦しむのが努め」といった時だっ

てある。それがとても長く続いたとしても、それがその時の

“生きるということ” なんだろうと思う。他人(家族・友人

も含め)が、自分や世の中の基準を持ち出して「それじゃぁ

いけない・・・」などとおせっかいをするのは、あまりほめ

られたものではないと思う。

 だって、それは相手の立場に立っている様に見えて、実は

相手を自分の立場に引き寄せようとしていることですから。

相手じゃなくて、自分主体なんですよ。それでは、その人は

世界から隔絶したままです。


 相手が、今泣くしかないのなら、自分も一緒に泣くのが本

当に相手に寄り添うことでしょう。

 それが正解だなんて思わないけど、そういうことが、その

人にとっての “目を向けるべき「新しい出来事」” になるん

じゃないかと思うんです。「一人ぼっちで過去にいると思っ

ていたのに、その過去に人があらわれた・・・」とい

う・・・。


 誰でも、泣きたい時がある。泣くしかない時がある。

 なぜ、「泣いちゃいけない」なんて言うんでしょう?

 人は泣くものです。

 人は弱いものです。

 なぜ、強がらなくちゃいけないんですか?
 

 つらかったら、泣く。

 とてもとてもつらかったら、泣き続ける。

 それは人間らしいことでしょう。

 それも生きるということでしょう。
 

 泣くしかない時は、泣くのです。
 

 もしもそのまま泣き死んだっていいのです。

 それが、その人の生きるということです。


 泣くしかない時は、泣くのです。



 (書いている内に涙が出そうになってきた・・・。これ

で、おわります・・・)



 

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