2017年5月9日火曜日

孤独死という、おせっかい。

 気が付いたら、投稿が40本になっていました。早いもんで

す。いまだ、誰の目にも触れていないのは残念ですが、その

内に物好きな人が、偶然迷い込んで来るでしょう。

 なので、気楽に今日のテーマに参りましょう。

 今日のテーマは「孤独死」です。 ・・・・。


 「どこが気楽なんだ!」って話ですが、「孤独死」という

言葉の深刻さに、違和感があるんですよ。私は。

 なので、「孤独死」という言葉の使い方を整理して、本来

は深刻ではない部分を、「孤独死」という言葉から救い出し

たいと思うんです。気楽であるはずの部分を、あるべき場所

へ。


 そもそも、「孤独死」という言葉は「阪神大震災」の後、

仮設住宅や災害復興住宅で、一人暮らしの高齢者が、誰にも

看取られずに亡くなるケースが相次いだのを受けて、マスコ

ミか自治体か災害支援NPOあたりが生み出したものでしょ

う。それまでには聞いたことがありませんでした。

 今では、災害に関係なく、一人暮らしの人が誰にも看取ら

れずに亡くなると、「孤独死」と言っている様ですね。

 そして、「孤独死」という言葉には、「淋しい」「気の

毒」「悲惨」「現代の暗部」「不幸」みたいなイメージが被

せられています。けど、ほんとにそうなの?

 何故、《 独りで死ぬ=孤独死 》なの?

 何故、《 独り=孤独 》ということにしちゃうの?

 病院や、家族の居る家庭で死ななかったら不幸なの?

 なんで、他人が“人の死”を勝手に評価して、「孤独死」な

んてレッテルをはるの? 大きなお世話でしょ。 

 “人の死”を「これは、良い死に方」、「これは、可哀相な

死に方」、「これは、酷い死に方」なんて勝手な基準で振り

分ける。「アンタいったい何様なんだよ」って言いたくなる

んです。


 そりゃあね、普通に考えて「酷い死に方」ってあります

よ。テロリストに惨殺されたりね。「気の毒な死に方」もあ

りますよ。幼いわが子を残して、親が癌で死ぬとかね。

 でも、「孤独死」と呼ばれるケースの場合。大抵は脳卒中

や心筋梗塞だったり、持病の悪化でしょう?

 そして、その多くは高齢者だから、「平均余命」前後の年

齢で亡くなるわけでしょ? 普通じゃない?

 「死ぬとき、独り」というのが“優しくて、親切な人た

ち”には気に入らないんでしょうが、これだけ核家族化が進

んで、その事を国も気にしていないし、当の高齢者たちも

「気楽でいい」とか「子供の世話になりたくない」などと言

って、良しとしている事が多いんでしょう? だったら、

「死ぬとき、独り」になる事が増えるのは、当然でしょう。

いったい、何が問題なんでしょう?
 

 場合によってはね、本当に「孤独死」と呼ぶべき気の毒な

ケースもあるでしょう。

 東日本大震災と原発事故のせいで、今まで一緒に暮らして

いた家族が、一時的に離れて暮らさなければならなくなっ

て、そうこうしているうちに、独り暮らしになった高齢の親

が、自室で倒れてそのまま亡くなってしまう。そんなケース

は、いくつかあった事でしょう。気の毒なことです。

 しかし、ニュースで流れたり、行政が「孤独死」とカウン

トするものの殆どは、ただ「死ぬとき、独り」だっただけの

事でしょう。

 もちろん、独りで亡くなった人の発見が遅れると、現場は

より大変になるでしょうから、その対策は立てるべきだとは

思いますよ。でも、40~50代の人の「孤独死」というのも

けっこうあると聞きますから、「見守り」とか云っても、ど

こまで入って行けるのか? 入って来られたくないという人

も多いでしょうし。



 それでも、「そんな死に方は嫌だ」「独りで死にたくな

い」という人は居るでしょう。そういう人は、生きている内

から、そうならない様な繋がりを持つように、手を打ってお

けばいい。でも、そんな人ばかりじゃない。「別に人と交流

を持たなくていい」「むしろ、独りがいい」「死ぬ時も独り

で構わない」という人だって、今の日本にはかなり多い筈で

す。(私の母親がそうでした。「孤独死」ではなく、病院で

死にはしましたが)

 なのに、「死ぬとき、独り」だったら、それだけで「孤独

死」というカテゴリーに入れられる・・。ずいぶん乱暴で、

無神経で事務的な扱いだと思いますが。



 そこにあるのは、一見、気に掛けて心を寄せている様に見

えながら、実は紋切り型の浅い考えで、一人の人間の死をひ

とつの視点からしか見ていない、“表面的な思いやり”だと感

じます。

 一人の人の死には、一つの人生があったということで、そ

こには様々な考え、想いがあったわけです。「『死ぬとき、

独り』でも、それで満足な人だったかも知れない」。そんな

風に、たとえ少しでも、その人が生きて来た事に想いを寄せ

る気持ちがあれば、「孤独死」なんてレッテルを貼れるわけ

がない。大体、「孤独死」なんて言葉が必要か?


 自分が死んで、「孤独死」と言われたら嬉しいですか?

 そんな仕分けされたくないでしょ? 失礼です。


 人と賑やかにしているのが好きだった人が、残念ながら独

りで死ぬ事になってしまっても、「孤独死」なんて言葉を使

う必要はないでしょう。「気の毒だったなぁ」「残念だった

ろうなぁ」と思ってあげれば、それでいいじゃないですか。

 独りが好きな人が独りで死んだら、それこそ「孤独死」な

んて言葉を使うもんじゃない。「おせっかいは、止めとく

れ」。




 「孤独死」なんて言葉、誰に必要なんでしょう?

 そういうレッテルを貼ると、マスコミなんかが扱い易いと

いうだけだと思う。「死ぬとき、独り」の当人には、そんな

こと関係ない。むしろ、そんな言葉を作ることで、考え過ぎ

て不必要に暗くなる人々を生み出しただけでしょう。

 マスコミや宣伝屋は、おどかすのが商売ですからね。

 ほんとに、人をなんだと思っているのでしょう。
 

 そもそもの話、 周りに家族が居ようが、医者や看護師が

居ようが、死ぬ時は独りで死んで行くのですし、どんな死に

方を望んでいても、実際に死ぬ時にどういう死を迎えるかな

んて、誰にも分からないのです。

 「孤独死」とか「見守られ死」とか、死に方をあれこれ考

えて優劣をつけるより、どのような死に方であっても納得し

て受け入れられる様に、生きている内から死と向き合って、

自分なりの考えをまとめておいた方が、より良く生きて、よ

り良く死を迎えられると思う。



 そして、死を見る方も、死に方がどうかなんて本筋の事じ

ゃないんだから、良かったか悪かったかとか言うより、「ご

苦労さん」「お疲れ様でした」とか思って、手を合わせてあ

げればそれで良いんじゃない。


 《 “独り”は、孤独や孤立とは限らない。

   それは、気高い“独立”かも知れないのだから。 》 
   

 《 独り=孤独=淋しい 》の、幼稚で単純な“お手軽思

考”だけは、辞めにして貰いたいですね。



 人は必ず死ぬのです。


 どれほど大勢の人たちに囲まれていたとしても、本当は独

りです。独りで生きて、独りで死んで行くのです。

 その「孤独」を「独立」に変えるのが、本当に持つべき人

の智慧であり、人が本当に成すべきことでしょう。


(「独立」といっても、社会的な意味ではないですよ)




 ちなみに、私の場合は、その辺の河原の草むらなんかで倒

れて、青空を見上げつつ、スズメの声でも聴きながら死ぬの

が理想的ですけどね。気持ち良さそうです。 (まぁ、なん

でもイイんですけどね)
 
 


人の信じ方



 今日は、「信じる」ということについて。


 前に「私は人を信用していません」と書いたんですが、

(「ウソは無い」という、タイトルでした)もちろん全く人

を信用しないわけではありません。仕事でもプライベートで

も、誰かに物を頼まなければならない時、人を信用しなけれ

ば何も頼めませんから、全く信用しなければ、生活が成り立

ちません。

 私が「人を信用しない」と言う時、それはこちらの期待や

希望を、相手が満たす可能性はそんなに高くないと、いつも

考えているということです。要するに、当たり前の事を分か

っておくだけです。


 そのように、人は当てにならないと思っているのですが、

前述のように、人を当てにせざるを得ない局面はいくらでも

ありますから、どの様に人を信じたら良いか? ということ

を書いてみます。



 「人を信じる」という時。

 例えば、

 《Aさんが、「Bさんを信じる」と言った。》とします。

 この場合、「Bさんが、自分(Aさん)を裏切ることは

無いだろう」と、Aさんは思っていると考えるのが普通で

すね。でも、私の場合は違うんです。

 私の場合は、「Bさんが、自分自身(Bさん)を裏切るこ

とは無いだろう」と、Aさんは思っていると考えるんです。

 「Bさんが、自分自身を裏切ることは無いだろう」と考え

るのは何故か?


 前者の場合、Bさんが約束を破ったら、Aさんは裏切られ

た事になりますね。普通です。

 しかし、後者の場合は、Bさんが約束を破ったら、裏切ら

れたのはBさん自身という事になります。Bさんが、自分自

身で自分を貶めただけであって、Aさんには関係がありませ

ん。「傷付けられた」とか、「失望した」とかいう感情は起

こってきません。


 そりゃあ、実際的に困る事になったりしますよ。貸した金

が返って来ないとか、仕事がストップしてしまうとか。

 でも、実際的に困るのは、前者の考え方でも、後者の考え

方でも一緒なんです。ですが後者の場合、そこに起って来る

ネガティブな感情を引き受けなくて済みます。傷付くのはB

さんですから。


 「Bさんは、何とも思わないかもしれないじゃないか」


 そうかも知れません。でも、それは何か問題ですか?

 Bさんが傷付こうが傷付くまいが、Aさんが気にする必要

はないでしょ? 言わば、《対岸の火事》です。

 前者の場合、裏切られたのはAさんですから、裏切られた

事に対する何らかの補償を求めたり、Bさんにも同じ様な痛

みを味あわせてやりたいとか思うわけですが、後者の場合

は、裏切られたのはBさん自身ですから、Aさんは痛みを感

じていません。ですから、Bさんからの精神的な補償の様な

ものは、必要ありません。ですから、「Bさんが、何とも思

っていなくても」どうでもいいんです。「金返せよ」とかだ

け言ってればいいんです。
 

 前者の場合、AさんはBさんに対して、憎んだり、恨んだ

り、バカにしたりしますね。

 ところが後者の場合は、AさんはBさんに対して、憐れん

だり、気の毒に思ったりする事でしょう。

 仮に、Bさんが故意にAさんを裏切った場合、Aさんは、

「セコイ人なんだなぁ」とBさんに憐れみの目を向けるだけ

でしょうし、また、Bさんが図らずも裏切る形になった場合

でも、Aさんは、「自分で悔しかったり、情けなかったりし

てるんだろうなぁ」と、Bさんを慈悲の目で見る事でしょ

う。
  

 いかがですか? こんな形の「信じる」というのは。

 精神衛生上、かなりお得だと思うんですが。


 わたしたちが物事を考える時は、“脳”を使うわけですが、

“脳”という漢字の偏は、“肉月”ですよね?

 それから、わたしたちが悩む時も“脳”を使っているわけで

すが、“悩”という漢字は、“立心偏”です。

 わたしたちは、考える時に“心”を立ち会わせるから、悩む

事になるのです。漢字というのは、上手く出来ていますね。

 ただ、ここで言う“心”は、“感情”の事です。
 

 わたしたちの意識には、三つのセクションがあります。

 物事を具体的に考えたり、理詰めで考えたりする「論理の

セクション」。

 受けた事柄に、感情を付与する「情緒のセクション」。

 そして、物事と自分の情緒を見守っている「慈悲のセクシ

ョン」。


 わたしは、“心”というものは、「情緒のセクション」(感

情)ではなく、「慈悲のセクション」の事と捉えてます。


 「論理」も「情緒」も、人間には作り付けになっていて、

それが無ければ、生きて行く事が出来なくなったり、人間と

しての面白味が無くなったりします。

 しかし、その「論理」と「情緒」は、すぐに暴走して悪さ

を始め、人と世界に不幸をもたらします。


 わたしたちの  “意識のエネルギー” は、前に出て来てい

る意識に、たくさん注がれる様になってるんです。ですか

ら、普段「論理」と「情緒」を前に出しているわたしたち

は、すぐ、そこにエネルギーを注入しすぎて暴走させてしま

います。 

 それを防ぐ為に、“見守るセクション” である、「慈悲」を

前に立てることによって、「論理」と「情緒」の暴走を抑え

る必要があります。まずは、自分のしあわせの為にね。

( “見守り” には、いくらエネルギーを注いでも動きだすこと

はありませんからね)

 
 しかし、「慈悲」とは何でしょう?
 

 とても表現が難しい言葉だと思いますが、例えて言うなら

《 幼い子供が、よろけたり、転んだり、時にはいたずらを

しながら歩くのを見守っている、親の気持ち 》というのが

近いんじゃないでしょうか? 『ホントの愛』ですね。




2017年5月7日日曜日

原理主義ワクチン

 相も変わらず、世の中には物騒なニュースが流れています

が、わたしたちを恐がらせることは沢山有りますよね。

 小惑星の衝突や、超巨大火山の噴火。太陽のスーパーフレ

ア、次の氷河期など、人類を存続の危機に追い込む事象も

色々考えられますが、そういった自然の脅威は別として、人

間の生存にとって最も脅威となるものは、感染症でもガンで

もなくて、原理主義でしょう。

 これまで行われてきた数々の戦争。テロ。魔女裁判。経済

にまつわる様々な問題。環境破壊。核兵器などのテクノロジ

ーの脅威。

 こういった事柄の大きな原因となっているのは、原理主義

ですね。



 原理主義者は自身を疑う事がありませんから、平気で過剰

になります。

 原理主義者は自身を疑う事がありませんから、平気で異常

になります。

 原理主義者は自身を疑う事がありませんから、平気で無情

になります。

 原理主義者は自身を疑う事がありませんから、平気で強情

になります。

 原理主義者は・・・・・・・・、いいかげんにしないと、

私が原理主義者の様です。
 

 そういった具合ですから、原理主義者を回心させることは

ほぼ不可能。原理主義の最も困ったところは、そこですよ

ね。他の人間の問題は、話し合えばどうにかなるかも知れま

せんけど、原理主義者に話は通じませんものね。原理主義者

を止めるには、潰すしかありません。当然、事態は殺伐とし

たものになってしまいます。

 また、原理主義者に関わっていると、こちらまで「アンチ

原理主義」という原理主義者になりかねません。「ミイラ盗

りが、ミイラになる」わけですね。(この言葉、もしかする

と相当古いのかなぁ。通じるのかなぁ)

 程度の差こそあれ、人間は余程気を付けていなければ、簡

単に原理主義に陥ってしまいます。

 集団で社会に害を及ぼす様なものではなく、個人レベルで

気付かぬうちに人を傷つけたり、自身が自分で作った穴にハ

マったり。「自分が正しい」と思える時は、警戒心が薄れま

すから、ホントにヤバイ。(プチ原理主義ですね)


 何がヤバイかというと、「原理主義者は潰すしかない」わ

けですから、自分が原理主義者傾向を見せると、周りは潰し

に係って来ます。

 自分で穴にハマったり、周りから潰しに来られたり、一時

いい気分になれても、原理主義にはロクな事がありません。

 原理主義は社会にとって大きな害悪ですが、個人にとって

も、自他ともに害を及ぼすものです。

 わたしたちは原理主義から(原理主義者からではなく)自

分を守らなければなりません。


 原理主義の根幹は、「自分は正しい」ということですか

ら、原理主義から自分を守る為には、常に自分を疑っていな

ければなりません。ということで、私は《正しいとは、そう

いう事にしておけば気が済むということである》と言わなけ

ればならなくなります。

 これは、理屈の上では原理主義に効くのですが、原理主義

の定義上、彼らは聞く耳を持っていません。なので、治療に

は無力です。
 

 でも、予防の効果は期待できるので、原理主義にはまり込

んでしまう前に、あらかじめワクチンとして、十四・五歳の

頃に


 《正しいとは、そういう事にしておけば

           気が済むということである》


と、世界中で教えてもらえれば、人類の平和と幸福に貢献で

きます。

(原理主義者を気取ってみました・・)




 人間というものは、「わたしは正しい」「わたしは正し

い」を、ホントーに飽きもせずやり続けています。

 そんなに「正しく」て、それが何だというのでしょう?


 《 あなたの、その「正しさ」が、

      今まで何をしてくれましたか? 》


 人は皆、「正しさ」に固執しますが、それが本当に『正し

い』ものなら、良い事だけをもたらしてくれるのではありま

せんか? もちろん、色々な良い事があるでしょう。しか

し、それだけではなく、その「正しさ」をめぐって様々なト

ラブルやプレッシャーなどの問題が立ち上がってくるのが、

実際のところでしょう。

 「いや。反対する人間がいるから、問題が起きるだけだ」

という反論が予想されますが、反対があるということは、そ

の「正しさ」は、相手にとっては「正しくない」わけですか

ら、「正しい」とは言い切れません。

 「いや。相手がバカだから〈正しさ〉が分からないだけ

だ」

という反論も予想されますが、“バカ”に分からない様な「正

しさ」を持ち続けても、“バカ”との間でトラブルが続くだけ

ですから、その「正しさ」には、“バカ”とのトラブルを解消

するだけの統合力が欠けています。不完全な「正しさ」で

す。

 結局のところ、人が「正しい」と言っていることは、「都

合がいい」という事でしかありません。(その「都合のよ

さ」も一時的なものでしかないのですが)


 わたしたちは、人と話をする時、「わたしは正しい」とか

「あなたはおかしい」とか言うのではなく、「わたしに都合

がいい」とか「わたしに都合が悪い」、などと言うべきでは

ないでしょうか。


 いったい、「正しさ」って、そんなに「正しい」のでしょ

うか?

 
 窓の外を見ると、「五月晴れ」の青空が広がっています。

 人は、いったい何をやってんだか・・・・。






2017年5月6日土曜日

安心・安全原理主義

 相変わらず、北朝鮮の「ボクを見て!ボクを見て!」のパ

フォーマンスに大騒ぎをしていますが、先日また北朝鮮がミ

サイルを撃ち、その一報を受けて、東京メトロなど一部の鉄

道会社が電車を止めました。あのニュースには本当に呆れま

したね。「“Jアラート”も出ていないのに、バカじゃねぇ

の?」って。

 デッドボールが怖いからと、バッターボックスに立たない

野球選手は一生試合には出られないでしょ?

 生きて、暮らしていると、大なり小なり常に危険にさらさ

れているわけですよ。当たり前ですが。

 ところが、この頃の日本人ときたら、この「危険」をゼロ

にしたがっているとしか思えません。

 「安心・安全」という御題目を耳や目にしない日は有りま

せん。テレビを点けても、ネットを観ても、スーパーに買い

物に出かけても、職場や学校に行っても、政治家や行政の言

葉のなかに、街中のポスターに、ありとあらゆる所に「安

心・安全」という言葉が溢れています。ビョーキですね。ま

ったく。
 

 そりゃぁね、安心・安全を求めるのは分かりますよ。人間

に限らず、全ての生き物は安心・安全を求めていますよ。

 昆虫の擬態だってそうだし、小さい魚が珊瑚礁や岩礁から

離れないとか、スズメがすぐに逃げるのだってそうです。し

かしね、今の日本人の「安心・安全」は余りにも度を越して

います。

 国は、飲食店での生レバーの提供を禁じましたよね。

 私は生レバーなんか食べませんけど、要らぬお世話でしょ

う? 一体、生レバーで死ぬ人が年に何人いるのですか?

風邪薬の副作用で死ぬ人の方が多いでしょう? 何故、風邪

薬は禁止しないんですか? “風邪という危険”から身を守る

為ですか? 

 私は、薬というものは目薬ぐらいしか使いません。

 特別に健康なわけではありませんよ。あっちこっち痛い

し、内臓の調子が悪くなったり、頭が痛くなったりします

が、たいていの場合ほっときゃ治るからです。

 インフルエンザの予防接種もしたことがないし、健康診断

も受けません。(面倒くさいでしょ?)

 少々、具合が悪かったって、寝てりゃぁ済むんです。

 ところが周りを見てると、まぁ、みんなよく薬を飲みます

ね。「頭が痛い」「おなかが痛い」「風邪引いた」なんて言

って。

 あゝいうのって、不快であることよりも、「自分の身体

が、自分の意志のコントロールから外れてる」ことが、嫌な

んじゃないでしょうか? 

 自分の思い通りにしたい。

 でも、思いもかけずに身体の具合がおかしくなる。

 そんなの嫌だ。

 気持ち悪い。

 気持ち悪い事は、排除。

 だから、薬を飲む。
 

 身体を信用していないんですね。

 というか、身体を支配したいんでしょう、「アタマ」が。
 

 私は、身体の事は身体に任せます。たいてい大丈夫ですか

ら。(虫歯が痛んだり、酷いケガをしたりしたら、もちろん

医者にかかります。石器時代じゃありませんから)アタマ

で、身体の自律性を何とかしようなんて、おこがましいです

よ。

 この冬もノロウイルスに関してのニュースが、たくさん流

れましたが、食中毒菌(ウイルス)の中でも弱い症状しかも

たらさないノロに対しての、あの過剰反応は何事かと思いま

す。それに、ノロは他の病原体に比べると、とても防ぎ難い

ものです。完全に防ごうと思うと、相当なコストが掛かる事

でしょう。にもかかわらず、ノロの食中毒を出したら、即営

業停止。評判も落ち、関係者は「能無し」か「無責任」扱

い。

 保険所は、常識的な衛生管理が出来てるかどうかを観て、

クリアしていたら、しっかりとした後処理を指導・確認し

て、マスコミは風評被害が拡大しない様に配慮してあげるべ

きだと思います。ほとんどの飲食店や給食センターは、クリ

ーンルームの様な環境を持てませんからね。それとも、人々

はその為のコストを価格に上乗せしてもよいのでしょうか。

 それと、食品の異物混入の問題。

 「お菓子に、一・二匹の虫が入っているかも」とか、「ビ

ニール片が混入した」とか言って、何万・何十万もの商品を

回収したり。

 以前、サラミソーセージがマイブームになって、半年ぐら

いの間、同じ商品を食べていたのですが、ある日パッケージ

を見ていると、「ケーシングは取り除いて、お召し上がり下

さい」と書いてあった。私は、ケーシングごと食べられるタ

イプだと、かってに思い込んで、そのまま食べ続けていまし

た。この様なケーシングはプラスティックです。それを半年

食べ続けたんですが、当然のことながら、何の異常もありま

せんでした。トマトの皮みたいな物ですね。

 虫についても、あんな物は不快なだけで、本当に健康被害

が出る様な虫は、ごく限られていますし、そういった虫が混

入する確率は、ほぼゼロでしょう。

 それに、農産物に混入する虫や、魚介・食肉に入る寄生虫

などは防除しきれないので、(完全に防ごうとすると、人が

病気になるくらい農薬を使ったりしなければならない)わた

したちは日々かなりの数の虫などを口にしています。   

タンパク質の補給ですね。

 ところが、これらの虫が見えてしまえば、もうダメなので

す。全品回収。

 二・三年前に、カップ焼きそばに虫が混入し、何百万食だ

ったか回収して、工場は半年ほど操業停止。倒産こそしなか

ったから良かったけれど、従業員はどんな日々を送ったので

しょう? 給料・ボーナスはどうなったのでしょう? 

 もし、倒産していたら、その焼きそばを好きな人は二度と

食べられなくなっていたのです。たかが虫で。

 「虫を入れる方が悪い」と言う人も居るでしょう。

 でも、何万・何十万という商品を何十年も日々作り続けて

いるのです。ほんのごくごく僅かな確率で虫が入ってしまう

ことがあっても、許されるのではないでしょうか? 不快だ

というだけなのですから。人間のする事に完全はありませ

ん。

 もし異物が入っていたら、その当該商品を買った人にだけ

誠実に対応すれば、それでいいんじゃない? 全品回収だな

んて、常軌を逸している。日本人の“もったいない精神”は何

処へ行った?(昨年、マルハニチロの「さんまのかば焼き」

の缶詰に、金属片が混入した可能性があるとして、2800万

缶を回収したことがありました。2800万缶ですよ! 私も

該当する商品を買っていましたが、面倒くさいので、そのま

ま食べました。美味しかったです。しかし、死んだサンマも


浮かばれまい。だって、回収した商品は当然廃棄でしょ。開


いた口が塞がりません。10秒ほどですが・・)

 

 ほんとに、日本の「安心・安全」は異常です。

 寛容さに欠けます。

 おおらかさがありません。

 どこまで行っても、わたしたちの生を取り巻くリスクはゼ

ロには成りません。

 むしろ、あまりにも「安心・安全」を求めすぎて、非常に

キツイ管理社会を生み出し、そのストレスがさまざまな事

件・事故に繋がり、かえって病気を増やしたりしていると、

私は信じて疑いません。いじめや鬱病の元にだって、なって

いることでしょう。


 世の中には、さまざまな原理主義があって、それぞれ大き

な問題を引き起こしていますが、今の日本において最も猛威

を振るい、人々を苦しめているのは、「安心・安全原理主

義」でしょう。とっても、気持ち悪いです。

 最近は「安心・安全」という言葉に触れると、反射的にイ

ラッとしてしまいます。

 「それが、何をもたらしているのか、

             考えた事あるのかよ」

 そう思うんですね。

 
 今、多くの日本人が求めているのは、ほんとは安心・安全

ではないだろうと思います。(「ラーメンに虫が入ってい

た」と騒いでいるのが、ボクサーだったりして)

 「安心・安全」という言葉の裏に隠されているもの。それ

は、「想定外の事に、自分の人生を乱されたくない」「自分

に起こることは、全て自分がコントロールしたい」という、

「アタマ至上主義」でしょう。

 「自分の思い通りにするんだ」という傲慢が透けて見えま

す。

 でも、何もかも思い通りになる人生って、面白いんでしょ

うか?

 すべてが想定通り、すべてが計画通り、何もかもが細かく

コントロールされている・・・。私には、気持ち悪い世界に

思えますが。


 《 思い通りになると、気持ちイイよね。

   でも、「思い通り」ばっかりやってると、     

   「思いのほか」って喜びを逃がしちゃうんだよね 》


 なんて、思いますけどね。


 なんでもムチャクチャでいい、なんて言っていませんよ。

先に書いた通り、すべての生き物が安心・安全を求めていま

すからね。程度問題だということです。

 やり過ぎが、却って害をもたらすのは何事にも共通です。

 そして、日本の「安心・安全」は、やり過ぎにも程があり

ます。この状況を異常と思わない人が、異常です。


 そのうち、そう二十年ぐらい先。

 時の、総理大臣か厚生労働大臣が、こんなコメントを出す

かも知れません。


 「生きていると、さまざまなリスクがあり、これらをすべ

て避けることは容易ではありません。ですから、国民の皆様

におかれましては、なるべく生きない様にして下さい」と。


 もうすでに、国民の何割かは、「生きていない」と思いま

すけどね。今。




 

2017年5月5日金曜日

退屈を味わう

 人は何故パチンコをするのか?

 退屈だからです。

 「当たり前だ」って?

 そうですね。当たり前ですよね。まぁ、依存症にまでなっ

ている場合は別として、人がパチンコをするのは退屈だから

と言っておいて間違いではないでしょう。では、ゲームをす

るのは?

 やっぱり、退屈だからでしょう。

 パチンコ、ゲームに限らず、おしゃべりをすることや、テ

レビを観る事、スマホ、スポーツ、映画、コレクション、

様々な趣味など、人がありとあらゆる遊びに興じるのは、退

屈したくないからです。

 人は退屈することを、とても嫌います。ほとんど生理的に

と言っていいほど、退屈を避けようとしているようです。

 色々な科学・学問の進歩や、文化・経済の発展、政治とそ

の極端な手段であるテロ・戦争まで、その根本的な理由は退

屈から逃れる為だと言ってよいでしょう。

 ソフトバンクの孫社長が、2016年度の業績についてイ

ンタビューを受け、日本国内の通信事業は「退屈だけど、順

調」と答えたそうです。

 あれほどの大きなビジネスをやって、業績も上げて大儲け

しているのに、「退屈だ」そうです。

 この発言の裏を返せば、孫氏にとってビジネスは“退屈し

のぎ”だということですね。

 何か実質的・本質的な理由があってビジネスをしているの

ではないのです。色々な理由・目的があると御本人は言われ

るでしょうが、そんなのは後付けだと思いますね。はっきり

言うと、興奮するんでしょうね。「ドーパミン中毒なんだろ

うなぁ」と思います。あそこまでやると云うのは。

 なにも、孫氏に限った事ではなくて、多くの事業家、特に

自分で起業した経営者は、退屈を嫌うが故に刺激を求め、ド

ーパミンやアドレナリンの快楽に取り込まれてしまうのでし

ょう。

 事業家だけの事ではなく、スポーツマン・冒険家・政治

家・博徒などは、刺激を求め、刺激から得られる脳内の快感

物質に捉えられてしまっている事が多いのでしょう。その大

元の原因は、退屈を嫌うことだと思います。

 退屈はお好きですか?

 嫌いですよね?

 「あ~ぁ。退屈だ~!」と言って喜んでいる人を見た事が

ありません。

 退屈は、つまらない芸人の様に嫌われています。(同語反

復です)

 何故、人はそれほど退屈を嫌うのでしょう?

 何故だと思います?

 「退屈は退屈だから」。

 そんな答えが出そうですが、  それもありだと思います

が  実は、人が退屈を嫌う本当の理由は、怖いからです。

 退屈は怖い?

 その理由を説明します。

 人が何もすることがなく、じっとしていると、一体どうす

るでしょう?

 じっとしているのですから、身体は動かさないのです。そ

うすると、動かすのは当然、頭だけです。ところが、こうい

う状況に置かれると、人は往々にして眠ってしまいます。こ

の、眠るという行為も「退屈を怖れる」が故のものです。

 では、眠る事も無く、じっとしていると頭は何をするか?

 仕事の事とか、しなければならない事を考えるのは除きま

す。それらは「何もすることが無く」という前提に触れます

から。そうなると、頭がする事は「妄想する」か「来し方行

く末を考える」か、どちらかになります。(ちなみに、現在

を考えることはありません。現在は考えるものではなくて、

対応するものだからです)

 しかし、「妄想する」は映画を観たり、小説を読んだりす

るのを自前でやるようなものなので、遊びのひとつです。

 結局、何もする事が無い時に人がする事は、「来し方、行

く末を考える」事だけになります。考えてしまうのです。


 考えてしまうでしょ? そういう時。

 そして「来し方、行く末を考える」と人は不安になりま

す。

 「来し方を考える」時は、別にいいのです。過去を振り返

るだけですから、(振り返り過ぎると、やはり不安になりま

す。嫌な事を思い出したりしますし、生まれる前のことは何

も分からず、闇の中ですから)問題は「行く末を考える」時

です。この先、自分の身の上に何が起こるか分かりません。

何よりも、最後には決して避ける事の出来ない“死”が待って

います。

 妄想すること無く物を考えてしまうと、人は不安にならざ

るを得ないのです。(実は、この不安こそが妄想なんです

が・・・)

 人が退屈を嫌い、怖れるのは、退屈すると不安が湧き起っ

て来るからです。その為に、パチンコをしたり、スマホをい

じったり、ゲームをしたり、スポーツをしたり、仕事をした

りするのです。少なくとも私は、そう思っています。


 「自分もいづれは死ぬ」

 「何をしても、結局は何にもならない」

 その恐怖から、思いを逸らす為に「何かをする」のです、

「結局は何にもならない」のに。


 これは、人の業ですね。

 人は、その様な業から逃れられないのでしょうか?

 逃れなくて良いのでしょうか?


 逃れた方が良い。

 私はそう思いますけどね。
 

 今の世の中を見渡した時。

 今までの歴史を振り返った時。

 人間の行いを考えると、あまりにも馬鹿げたことだらけで

しょ?

 戦争とかの大きな事を除いたって、日常の中にも「正気じ

ゃないね」と感じる事だらけです。

 異常者の犯罪の事を言っているんじゃありませんよ。

 普通の人たちが、普通だと思ってやっている事が、私から

みると「正気じゃない」のです。

 ビル・ゲイツのような個人が、数兆円の資産を持ってい

て、彼がそれだけの富を得ることを、普通の人々が羨む。

 羨むという事は、人々がそれを承認しているという事で

す。何故、承認するのでしょう? 何故、異常だと思わない

のでしょう? 異常だと思わない事が、異常です。
 

 《 搾取なき所に、富は無い 》


 憶えておいて下さい。(ついでですが・・)

 多くの富を持っている者は、富を得る過程で、その余剰を

還元されてよい人々(従業員・顧客・取引先・下請け業者な

ど)に利益を分けることをせず、自分に利益が集中するよう

にしたからこそ、その富を得たのです。非難されるべきだ

と、私は考えています。

 そして、もう一つ憶えておいて下さい。

 《 金持ちとは

    その金に見合う価値がある人ではなく

   自分のところに金が流れてくるシステムを作ったか

        既成の集金システムを掴んだ人である 》

 まぁ、例外もありますけどね。

 社会の為に富を預かって、管理しているといった、重い立

場もありますから。でも、ほとんどの金持ちは、自分に法外

な金が集まって来て、それを他者に還元しなくても、何の後

ろめたさも持たない人間だということです。(そして、本人

にとってはスズメの泪ほどの金を寄付したりして「良い事を

した」様な顔をします) 今は「セレブ」なんて言って、ち

やほやしますけど、「成り金」という由緒正しい呼び名で呼

ぶべきだと思いますね。


 ・・・・少し話がずれてしまった様です。

 貧乏人なので、こういう話を始めると、つい力が入ってし

まいます。人の馬鹿げた行いの話でした。


 うどん一杯食べる為に、何百キロも車で出かける。

 外国まで出かけて、買い物をしたり、テーマパークに行っ

たり。ジュエリーやブランド物を欲しがったり、おしゃれに

金と時間を注ぎ込む(十年後に写真を見たら、恥ずかしくな

るのが普通なのに)。それから、都市に立ち並ぶビル群。あ

んなもの作って、この先いったいどうするつもりなんでしょ

う? 壊さなきゃいけない時が必ず来るんですよ? 関係者

は、その時にはもう死んでるから、どうでもいいんでしょう

けどね。


 上げればキリがないので止めますが、人間の行いの多く、

特に日本のような先進国であれば、その行いのほとんどは、

落ち着いて考えれば馬鹿げてるとしか思えないことです。

 昨年の「ポケモンGO」のブームなんて、正気の沙汰では

ありません。日本人は特にですが「“用意された楽しみ”を楽

しみ、“教えられた喜び”を喜ぶ」ことがほとんどで、深い楽

しみ・喜びを知らないんでしょう。 


 そんな風に人が右往左往するのは、やはり退屈が怖いから

です。でも、一番深い喜び・楽しみは、退屈の中にこそある

と私は思います。退屈を味わうことです。

 みんな、ちゃんと退屈をしてみたことが無いのです。

 退屈が怖いから、ちょっとでも退屈しかけたら、何かを始

めてしまいます。退屈をちゃんと経験した事も無いのに、退

屈を怖れている。一度、しっかり経験してみたらいいのに。
 

 「我を忘れる」という言い方をしますが、「我を忘れる」

という言葉には、二通りあります。

 仏教で言われるような「忘我」。エゴを忘れるという意

味。それと、自分の日常の考えからしばし離れるという意味

と。


 人間が退屈しのぎにすることは、後者の、日常の考えから

しばし離れる為ですね。「日常の妄想」に疲れて、「非日常

の妄想」に逃げ込む様なことです。どちらも「妄想」なんで

すが。

 一方、ちゃんと退屈することは、「日常の妄想」から離れ

て、ただそのままに居ることです。

 仕事や遊びから離れ、来し方も行く末もしばらく保留にし

ておく。わたしたちの「我」とは、結局のところ「日常の過

去と未来の妄想」ですから、その「我」を忘れてしまって、

退屈の中に居る事は「忘我」ということですね。

 「我を忘れる」と言っても、この二つは全くの別物です。

 そこにあるのは、違う世界の喜び・楽しみです。

 リチャード・バックの「イリュージョン」(村上龍・訳 

集英社文庫)の中に、こんな一節があります。


  自由に生きるためには 

  退屈と戦う必要がある。

  退屈を殺し灰にしてしまうか、

  退屈に殺されて家具になるか、

  激しく根気のいる戦いである。


 この言葉をどう取るかはそれぞれでしょうが、「退屈を殺

す」というのは、退屈の中に入り込んで、退屈に振り回され

ない様にすることだと私は思います。
 

 退屈に殺されて家具(世の中の備品)にならないために、

しつかりと退屈を味わえるように努めたいと思います。