2017年5月9日火曜日

人の信じ方



 今日は、「信じる」ということについて。


 前に「私は人を信用していません」と書いたんですが、

(「ウソは無い」という、タイトルでした)もちろん全く人

を信用しないわけではありません。仕事でもプライベートで

も、誰かに物を頼まなければならない時、人を信用しなけれ

ば何も頼めませんから、全く信用しなければ、生活が成り立

ちません。

 私が「人を信用しない」と言う時、それはこちらの期待や

希望を、相手が満たす可能性はそんなに高くないと、いつも

考えているということです。要するに、当たり前の事を分か

っておくだけです。


 そのように、人は当てにならないと思っているのですが、

前述のように、人を当てにせざるを得ない局面はいくらでも

ありますから、どの様に人を信じたら良いか? ということ

を書いてみます。



 「人を信じる」という時。

 例えば、

 《Aさんが、「Bさんを信じる」と言った。》とします。

 この場合、「Bさんが、自分(Aさん)を裏切ることは

無いだろう」と、Aさんは思っていると考えるのが普通で

すね。でも、私の場合は違うんです。

 私の場合は、「Bさんが、自分自身(Bさん)を裏切るこ

は無いだろう」と、Aさんは思っていると考えるんです。

 「Bさんが、自分自身を裏切ることは無いだろう」と考え

るのは何故か?


 前者の場合、Bさんが約束を破ったら、Aさんは裏切られ

た事になりますね。普通です。

 しかし、後者の場合は、Bさんが約束を破ったら、裏切ら

れたのはBさん自身という事になります。Bさんが、自分自

身で自分を貶めただけであって、Aさんには関係がありませ

ん。「傷付けられた」とか、「失望した」とかいう感情は起

こってきません。


 そりゃあ、実際的に困る事になったりしますよ。貸した金

が返って来ないとか、仕事がストップしてしまうとか。

 でも、実際的に困るのは、前者の考え方でも、後者の考え

方でも一緒なんです。ですが後者の場合、そこに起って来る

ネガティブな感情を引き受けなくて済みます。傷付くのはB

さんですから。


 「Bさんは、何とも思わないかもしれないじゃないか」


 そうかも知れません。でも、それは何か問題ですか?

 Bさんが傷付こうが傷付くまいが、Aさんが気にする必要

はないでしょ? 言わば、《対岸の火事》です。

 前者の場合、裏切られたのはAさんですから、裏切られた

事に対する何らかの補償を求めたり、Bさんにも同じ様な痛

を味あわせてやりたいとか思うわけですが、後者の場合

は、裏切られたのはBさん自身ですから、Aさんは痛みを感

じていません。ですから、Bさんからの精神的な補償の様な

ものは、必要ありません。ですから、「Bさんが、何とも思

っていなくても」どうでもいいんです。「金返せよ」とかだ

け言ってればいいんです。
 

 前者の場合、AさんはBさんに対して、憎んだり、恨んだ

り、バカにしたりしますね。

 ところが後者の場合は、AさんはBさんに対して、憐れん

り、気の毒に思ったりする事でしょう。

 仮に、Bさんが故意にAさんを裏切った場合、Aさんは、

「セコイ人なんだなぁ」とBさんに憐れみの目を向けるだけ

でしょうし、また、Bさんが図らずも裏切る形になった場合

でも、Aさんは、「自分で悔しかったり、情けなかったり

てるんだろうなぁ」と、Bさんを慈悲の目で見る事でしょ

う。
  

 いかがですか? こんな形の「信じる」というのは。

 精神衛生上、かなりお得だと思うんですが。


 わたしたちが物事を考える時は、“脳”を使うわけですが、

“脳”という漢字の偏は、“肉月”ですよね?

 それから、わたしたちが悩む時も“脳”を使っているわけで

すが、“悩”という漢字は、“立心偏”です。

 わたしたちは、考える時に“心”を立ち会わせるから、悩む

事になるのです。漢字というのは、上手く出来ていますね。

 ただ、ここで言う“心”は、“感情”の事です。
 

 わたしたちの意識には、三つのセクションがあります。

 物事を具体的に考えたり、理詰めで考えたりする「論理の

クション」。

 受けた事柄に、感情を付与する「情緒のセクション」。

 そして、物事と自分の情緒を見守っている「慈悲のセクシ

ョン」。


 わたしは、“心”というものは、「情緒のセクション」(感

情)ではなく、「慈悲のセクション」の事と捉えてます。


 「論理」も「情緒」も、人間には作り付けになっていて、

それが無ければ、生きて行く事が出来なくなったり、人間と

しての面白味が無くなったりします。

 しかし、その「論理」と「情緒」は、すぐに暴走して悪さ

を始め、人と世界に不幸をもたらします。


 わたしたちの  “意識のエネルギー” は、前に出て来てい

る意識に、たくさん注がれる様になってるんです。ですか

ら、普「論理」と「情緒」を前に出しているわたしたち

は、すぐ、そこにエネルギーを注入しすぎて暴走させてしま

います。 

 それを防ぐ為に、“見守るセクション” である、「慈悲」を

前に立てることによって、「論理」と「情緒」の暴走を抑え

る必要があります。まずは、自分のしあわせの為にね。

( “見守り” には、いくらエネルギーを注いでも動きだすこと

はありませんからね)

 
 しかし、「慈悲」とは何でしょう?
 

 とても表現が難しい言葉だと思いますが、例えて言うなら

《 幼い子供が、よろけたり、転んだり、時にはいたずらを

しながら歩くのを見守っている、親の気持ち 》というのが

近いんじゃないでしょうか? 『ホントの愛』ですね。




0 件のコメント:

コメントを投稿