2017年5月10日水曜日

人生設計がワカラン。

 人生って、設計できるんですか?

 CMなんかで、「人生設計」という言葉がよく出てきます

が、そんな事ほんとうに考えてる人って居るんでしょうか?

 居るんでしょうねぇ。「人生設計」という言葉が使われだ

して、もう随分になりますものね。


 私には「人生を設計する」なんて不可能ですし、ほんとに

「人生設計」を考えている人も、その通りに施工するなんて

無理じゃないんですか?

 何をどう設計するのでしょうか?

 どんな学校に入って、どれだけの成績を挙げて、卒業した

らどんな仕事に就いて、いくらいくら稼いで、いくつで結婚

して、子供は何人で、何歳で仕事を辞めて、老後の暮らし方

はどうで、何歳まで生きて、死ぬ。そんな事でしょうか?

 私には出来ません。

 ほとんど、考えも及びません。

 なにより、面白いんですか?
 

 こんなこと言うと怒られるでしょうが、あまりにもお手軽

過ぎますよね。世の中の事とか、歴史とか、何も見てないん

でしょうか?

 人の想定通りに行く事が、どれだけ有ると思っているので

しょう?

 私だって、「ある程度お金を貯めておこう」とか、「来年

からは、あれをやろう」ぐらいのことは考えますけどね。

「設計」という表現がハマるようなことは、考えられない。


 「人の事は放っときゃいい」と思われそうですが、「人生

設計」なんて言葉が抵抗もなく通って行く世の中が、気持ち

悪いんですよね。

 それに、設計通り行くことを望む人間が多い世の中って、

予定外の事はなるべく排除したいっていう世の中になると思

うんですよ。例外は認めず、狭量で、均質な・・・。うっか

りすると、ファシズムになっちゃう様な。

 大袈裟ですか?

 でも、ちょっとした変化が、気付けば大きな流れになって

いて、誰もが抜き差しならない状況に置かれてしまう・・。

 というのが、わたしたちが歴史から学んで来たことではな

いでしょうか。(まぁ、大袈裟なのは確かですし、時代の流

れがそうならば、そうなるしかないんですけどね。世の中が

私の好みに合わなくったって、私の為の世の中じゃないから

ね😋)
 

 世の中の事はともかく、「人生設計」なんて言って先の事

ばかり考えていると、“今”は“未来”の為の「手段」、あるい

は「踏み台」になってしまう。極端に言えば。

 “今日”は“明日”の為の「踏み台」。

 “明日”は“明後日”の為の「踏み台」。

 “明後日”は“明々後日”の為の「踏み台」・・・・・・・。

 そうやって延々と続いていって・・ゴールは「死」です。

 “今”に落ち着き、“今”に親しみ、味わうことなく一生が終

る・・・。

 「目的は未来にある」というのが、人間の最も大きな思い

違いなのでは?

 「人生設計」なんかを“ガチ”で考える人は、人生の最後の

時に、もう訪れない“明日”を前に何を思うのでしょう?

 「どんな大きな成果も、すべては“手段”でしかなかった」

 そんな人生って・・・、どうなんですか?

 逆に、自分の前に現れて来る出来事を、ただ受け留めて行

く生き方・・・。良く言えば、すべてが自分への“贈り物”と

も呼べる人生・・・。

 良く言い過ぎですが、実はこの二つは同じことです。

 「設計」を立てていたって、自分の予定通り行くはずもあ

りませんから、その都度、状況に対応して行かねばなりませ

ん。結局、人は出来事の受け手でしかありません。

 違うのは、ひとつひとつの出来事に対する時の態度でしか

ありません。でも、その違いはとても大きなものだと思うの

ですが・・・。


 「人生設計」をする様な生き方を、私はして来ませんでし

たから、そういう生き方で得られる想いは、分かりません。

 ですが、すべてが思い通りになったとしても、一番大切な

ものを取りこぼして、最後に大きな後悔をしかねない生き方

の様に思うのです。



 

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